183 セムナーン村
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アー! という大声が、耳元で長々と聞こえる。うるさい! まったく、人の迷惑を考えろよ。と思ったら叫んでいるのは自分の声だ。アァ、そうだったな。ロープを切ったんだ。一人が命を捨て、他の命を救う事は知っている。歴史的には何度もあった事なんだろう。
でも、まさか自分自身でロープを切るなんてなー。テレビや映画で見た事はあるし、物語的には美談となるのだろうが、自己犠牲なんて事が出来たんだ。
思い出してみる。風にあおられたヤクが、足を滑らせて僕と一緒に滑落したが、体に巻き付けてあったロープで一旦は落下を止められたんだ。僕のロープは、チャウデゥリーさんが握っていてくれたのだが、最悪な事にケガをした彼を引きずってもいたんだ。
墜落を止めてくれた彼が、ヤクと僕との道連れになりかけていたのだ。上の方で、すぐに引き上げると聞こえていたから、おそらく彼は助かっだろう。ロープを切って良かったんだ。死ぬ時には人生の思い出が、走馬灯のように駆け巡ると聞いていたがそんな事は無かったなー。
死んだんだろうな。あの高さから落ちたんだ。薄目を開けてみる。でもまだ、ぼんやりとだが見えるんだよなー。おかしな事に、地面の上に寝ているような感じがするし、少し離れた場所には動かなくなったヤクが見えるんだ……。あの世にも、ヤクが居るんだなー。
イヤ、おかしいぞ。生きているようだ。息が出来る。そうだ、さっきまで呻き声を出していたんだ。フー標高3200メートルの崖から落ちて生きていたのか。節々が痛くて悲鳴を上げそうだが……。そうか。今は、薄い乳白色の膜の中に居るのか。違うな、膜は透明で、雪が膜の上に積もりかけているんだ。アァ、ヒールをかけないと……。
ハッと気が付くと、体が小刻みに震えている。少しの間、気を失っていたのかもしれない。膜は無くなって、雪が薄く体を覆っていた。どうやら、寒さで目が覚めたようだ。先ず死んではいないし、死んでさえいなければどうにかなる。
体にケガが無いか確かめる。あちこち筋肉痛の酷い感じだが、大丈夫のようだ。多少、体が痛くとも文句はない。出血したり骨折したりしたような事も無かったようだ。時間が経たないと分からないが、おそらく内臓も大丈夫だろう。
交通事故の衝突実験で、人体ダミーがどんな目に遭っているのか分かった気がする。あれだけ高くから落ちたんだから、交通事故と言うより飛行機事故と言ってもいいな。
少しずつ頭が、はっきりしてきた。岩に叩きつけられながら落ちたにしては落ちた時と服装は変わらない。服はもちろん手足が繋がっているだけでも奇跡だろう。身に付けていた4個の魔道具はまだ有る。火魔法の魔動具だった2個の内、短杖の魔道具が折れてダメになっていた。水魔法の魔道具は良いみたいだ。
後一つ。何に使うのかさっぱり分からなかった携帯バッテリーの様な、魔道具の用途が分かったようだ。それは、点滅していた表示灯が緑から赤に替わっていた。おそらくこれが、戦闘機の緊急脱出装置みたいな役目を果たしたんだろう。
そうだとしたら、この魔道具を作った者に感謝だな。凄いもんだと、ボーと眺めていた。高所から落ちて結界が発動する条件なんて、よく思い付いてくれたもんだな。待てよ……ハハハ、さすがにそれは無いだろうなー。思うに、これは攻撃を跳ね返したり防御したりする一種の結界発生装置なのだろう。
確かに、想定外の高所からの落下だったんだろうな。出来れば重力魔法を組み込んでくれたらもっと良かったのに……。そうしたら、天空の城の女の子ように、ゆっくりと落ちて行くように出来たんじゃないかなー。でもマァ、欲を言えば切りが無いか、ハハハ……この時、初めて助かったのだと実感できた。
上を見上げても白い幕が見えるだけだ。どのぐらい、転がり落ちたのか分からないが、登るのは不可能だろうな。一瞬、空飛ぶ絨毯を作ってとも思ったが、肝心の魔力がほとんどない。出血や骨折も無かったんだ、無意識にヒールをかけ続けていたのだろう。魔力が底をつくほど消費していたなんて、どんなケガだったんだろう。
実際、廻りには体が半分になったヤクとその中身が散乱している。ヤクの太い足が一本、岩だなに引っかかっているのが見える。ヤクには8個ほどの荷が括り付けられていた。背負っていた箱の多くが壊れてバラバラになったのだろう、荷をくるんでいた布や魔導書に使われていた羊皮紙が岩肌でパタパタと音を立てていた。
風が変わったのだろう、白い幕が吹き飛ばされて上の方まで見る事ができた。垂直に近い岩肌は、1000メートルは有るように見える。休息所は標高3200メートルだったから、やっぱり1000メートル以上落ちたのかもしれないな?
テレビなんかのニュースでは、300とか500メートルの滑落事故の話を聞いた事があるが、キロ単位で転落したのかー。はたして、今の状態で街道まで登れるのだろううか? クライミング道具やボルダリング技術も無しに1キロを登れなんて……。重力魔法で身を軽くしても無理だな。
寒い! とにかく今は体を温める事だ。手近に落ちていた服を重ね着にする。散らばった物を回収しないと。陽は出ているようだから、転落からあまり時間は経ってないだろう。
滑落事故でさえ悲惨な事になるんだし、頑丈なヤクだってバラバラになっているんだ。あの高さから転落だ。生身の人間が落ちたら、結果を想像するまでも無い。おそらく、捜索もされなかっただろう。
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この状態から察するとバウンドしながら、ほぼ垂直に降りてきたのかな? 正確には落ちたのだが……。 兎に角、助かった命だ。大切にしないと。散らばった荷の中から種の袋を集めながら、使えそうな物は無いか考える。幸い箱にあった着替えは、吹き飛ばされずバラバラに散らばっていただけだ。だが、魔道具が入った箱は、一目見てダメだなと思わされた。
湿った空気を感じる。しばらくすると雨が降り出すのかもしれない。こんな状態で雨は願い下げだ。体を濡らさないようにしないと体温を奪われる。風が収まるまでシェルターへ避難し、待機するのが正解かも知れない。筋肉痛は残っていたが、ヒールを止めて魔力回復を優先にしないと、ここでは生き抜けないだろう。
ヤクの鞍の下に引いてあった、ヤクの毛で作られた毛布は回収出来た。ヤクの本体は、引っ掛かっていた足を除いて後で埋めてやる事にする。幸い、回復してきた魔力で水魔法も火魔法も少しなら使える。という事で、恨めしそうなヤクの目さえ気にしなければ食事だって出来る。
それと言うのも、新鮮な肉が目の前の枝にぶら下がっているのだ。血抜きも終わっているようだし、今の温度は冷蔵庫の野菜室と同じぐらいだ。何故か申し訳ない気になったが食料として足は貰っておく事にした。皮を剝いで肉にすれば、ヤクも牛もそんなに違わないと思い込む事にした。
火魔法と水魔法で調理すれば、味の付いていない普通の焼肉、よく焼けた肉、焦げた肉、土魔法で鍋を作れば煮込んだスープだって出来る。腹に暖かい物を入れると、元気が出ると言うのは本当だな。マァ、味については文句などは言えないだろう。ばらまかれた袋にはコショウの実を見つけたが、もったいなく感じて使う気にはならなかった。
断崖絶壁の所々に見える荷物の残骸を見ながら思っていた。木箱に入っていたのは、魔法書5冊と魔道具が13個ある。もし無事運べたらなら、魔法書だけで2億5000万ルピーになる。魔道具の方は、仮に魔法の水差しと同じ3000万ルピーとして最低価格でも3億9000万ルピー。合わせて6億4000万ルピーの価値にはなる。不慮の事故とは言え、日本円で19億2000万円を失った事になる。
そして、金額は分からないけど、イリア王国に持ち込めれば大変な価値を生む事になるのは、小袋に入れた食物のタネである。これが一番かもしれない。いずれにしてもイリア王国には無い希少な物なので、少しでも多く回収したい。
こんな時に思うのは、空間魔法のストレージである。ストレージが有れば荷を失う事も無かっただろう。無い物ねだりではあるが、心底欲しくなる。
土魔法を使っていつもの城塞ホテルを築けば良いが、それだとこの場所一杯に広がる事になるし今はその間力も足りない。生き抜く事が優先だし、制作時の土砂によって埋もれてしまい荷物の回収が不可能になる。一通り、バラ撒かれた荷物を回収するまでは、工夫してこの場所に留まるしかないだろう。
ここから水の流れた跡は在るので、山から下りる事は出来るだろう。途中、人が使う道が見つかるかもしれない。獣道でも、どこかに繋がっているなら抜けれるが、反対に来る事も出来るはずだ。
そうだ。ニーシャさんが言っていたが、ここには豹やクマもいるんだった。ひょっとしてオオカミだってうろついているいるかも知れない。ヤクの死体もあるんだ。埋めるまで時間がかかったので、血の匂いに釣られて捕食動物が来ないとも限らない。だとすると、壁ぐらいは無いと拙いかもしれない。
すぐに聞き耳の魔法で、こっそりと近づいて来る物がないか探ってみたが、不審な音はしなかった。安全確保の為、城壁とまではいかないがクマ程度は防げる壁を作る事にするか。
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簡易版の城壁を築いてから、すぐそばの山肌に洞穴を作って、散らばった回収品を集める事にした。洞穴は大きなクマでも、おいそれと登れないような高さにした。土魔法を使って高さ5メートルほどの階段を作り中に入れるようにしている。ここで濡れた荷や、拾い集めた種の袋を水魔法で水分除去する予定だ。
入口を狭く作ったのは念の為である。奥を広げて、拾い集めた物を土製テーブルの上に並べていく。もう少し広げた方が良いみたいだ。土魔法で作業用スペースを掘り広げていくと、ガツンと異物に当たった音がした。ライトの魔法で照らし出してみる。照らし出された、その奥には鈍く光る灰色の装甲隔壁があった。
知らないのならそのままにして置いただろうが、知ってしまったら知りたくなるのが人情だろう? こんな所に有るとは、隕石テロで狙われた場所と言うのはここだったかも知れないな。
「600年以上前の装甲隔壁だとしても、容易く開けれる様なものでは無いし。少し掘ってみるか。しかし最近は、事件続きだなー。なんか引き寄せているのかな? お祓いしてもらおうかな」
思わず独り言がでる。地図魔法を使って600年前の地形データを再確認してみると、確かに軍用地とある。マァ、詳しく記入しては拙い場所なんだろうが。開かないとなれば、開けてみたくなるのが人情というもんだな。という訳で回収作業を一時中止して、隔壁の前で暫し考えてみる。
倉庫や通路に、帝国要塞のような装甲版は使わないだろう。司令部の様な重要施設でないなら、隔壁は金属と強化土魔法の複合材で作られているはずだ。金属面さえ何とか出来れば開けれそうだ。ほとんどの物質は、温かいと膨張し、寒いと収縮するという性質があるので、今回はそれに習って収縮した隔壁の金属を加熱する。こんなので上手くいくかどうか分からないが、物は試しである。
幸い身に付けていた火魔法の魔道具で炙る事にした。適当な作業用の台座を作って置いておけば熱し続けてくれるので便利だ。魔道具なので、ここから離れてタネの回収に出ても問題ないだろう。戻って着た時には、焚き火替わりにもなって暖が取れる。
回収できた風魔法の魔道具で強制換気をしながら、火魔法の魔道具でレーザーのようにスポット加熱して、タネを集めながらも1時間加熱して10分間ほど水で冷やす。交互に使う事、約4時間。やっとヒビが入った。こうなったら〆たもんで、アイスジャベリンを唱えて隙間に入れる。そして、徐々に大きくしていけば開けゴマである。
金属部分を突破出来れば、あと一息のはずだ。土魔法で隔壁部分を再構成して、分解してしまう。70センチの壁を掘り崩してみると通路と思われる所に出た。目の前には、第2隔壁が有るようだ。そこにライトの魔法を飛ばして様子を見る。淀んだ空気にも気を付けないと、いきなりバタンとなっては堪らないからね。
今度の第2隔壁を開けるには時間がかかるだろう。でも、この通路の何処かには、内部に通じるドアが有るはずだ。右に進むと案内表示が有る。ここら辺はアレキ文明の約束事なので共通している。50メートルほどで装甲ドアを発見した。
魔力を流して開錠作業を行う。基本的には僕の持つ認証コードで開くはずの扉が開かない。長年の内に機能停止したのだろうか、それとも劣化により誤動作が起きているのか、扉は固く貝のように閉じたままだった。
おそらく、魔石エネルギーが完全に無くなっているのだろう。今日はここまでと思い帰ろうとすると、ガタン、プシュと音がして2センチほど開いた。何事もチャレンジはすべきだなー。風の魔道具を置いて気持ちだけでも換気をする。探検は明日からだな。
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ここはやはり地図に記載されていた軍事基地だろうか? それならば何百年もの間、眠っていた訳だ。時間が止まったかのような保存状態であるだろう。転送させられた、イル王国の東の補給所は驚くほど何もなかった。だが、ここには色々な物が残っていそうだ。
ひょっとしたら遺跡都市メリダのように、金銀、財宝に、ミスリムや魔石だってあるかも知れない。運が悪いと思っていたが、意外と良い運命だったのかもしれない。まさしく、宝くじに当たった気分である。俄然、やる気が出て来た。
廊下の交差する場所ではここの略図が書かれており、記号と共に現在位置の表示が有る。この地図によると兵員が住んでいたと思われる兵舎跡、パン工房や調理場、金属や部品加工と製造に関連する作業場、物資貯蔵施設と思われる建物、そして岩をくりぬいて作られた格納施設が並ぶヤードまで記入されている。
その表示箇所から10メートルの所に事務所みたいのが有った。基地全体の規模は明らかでないが、事務所に置かれたさまざまな品物のおかげで年代は特定出来る。当時は魔石エネルギーも豊富で魔法使いも多かったと言われる。この為、備蓄品には状態保存の魔法がかけられているかも知れない。
帝国がここを放棄したのかは大きな謎だが、その答えは時間をかけて探さなければ分からないだろう。発見した物がどれほどの重要性を持つのかはわからない。しかし、見つけた物品の保存状態の良さは状態保存の魔法によるものだろう。基地のスタッフたちが食料や品物を置いた場所があるかもしれないと期待できる。
多く発見出来たのが、日々の生活を支えた品や工芸品などの日用品だった。容器などには、アレキ帝国の印章がついていた。中には、1キロのゆでた肉とある缶には31年と刻まれた物もある。普通なら金属がさびて中身がダメになっていただろう。
600年前に作られた缶詰が、発見されるまで棚に置かれていた訳だ。テレビ番組で、南極探検隊の食料が100年後に発見されて食べれられたと言う話を見た事が有る。これは保存食だし膨らんでもいない。大丈夫だと思うが、今は開ける気にはならない。
次の場所に移動しようと右の通路に入ると、なぜ隕石テロ後に、この基地は放棄されたか分かった。実際に見つかったのは、期待した物とまったく違った。土砂に埋まった廊下や完全潰れた巨大な部屋である。さすがに掘り返して進む事は出来ない規模だ。
仕方なく方向を変えて、格納庫と書いてあった方に向かう。格納庫も同じように土砂に埋められていた。白いアンテナの様な物と、ヒートホークと思われる物がチラリと出ている。冬季用迷彩だな。あまりしっかりと覚えていないが、この中には高さ18メートルの巨大なゴーレム、MS-06J陸戦型ザ●が、そして沢山の装備品が埋まっているのかもしれない。
少し掘り返してみると、周りからサラサラと音を立てて土が流れて来る。まるで砂山が崩れる感じだ。この基地の上には中央山脈があり何兆トンもの土砂がある。いつ圧壊が起こってもおかしくない。ここでの調査は、かなり危ない感じなのだ。最低でも、人員と装備を整えるべきだろう。
夢は膨らんだが、今は帰還途中である。地元の人が、穴を発見して知らずに事故に遭うのは何となく気分が悪い。ここは、地図魔法に記入して埋め戻してしまう方が良いかも知れない。マァ、調査発掘は後日改めてすればいいだろう。負け惜しみではない。
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翌日には魔力が3分の1ほどに回復した。最近は魔力回復の時間が早くなった気がする。有難い事である。という事で空飛ぶ絨毯5号機を製作する。もはや絨毯とは名ばかりで、総土魔法で作られいるのだ。それは承知なのだが、このフレーズに慣れてしまって変えるのが面倒であるし、気にしているのは僕一人であるので許す事にする。
何故か、転落事故後は、多少の事は許す事が出来る気がしているのである。人間ができて来たのだろうか? まさかねー。
それはともかく、明日の朝には出発するつもりだ。と言っても、隊商の到着予定であるクシャーナ王国のアラークの町を目指すつもりは無い。おそらく、転落して死亡扱いになっているはずだ。隊商の皆は、元気でしたと顔を出せば喜んでくれるだろうが、騒ぎになって帰国が遅くなっては困るしね。
幸い身分証明になる通行許可証には期限の日付などの記載はない。問い合わせがされなければ、このまま所持していても不都合は無いだろう。問い合わせても、チャウデゥリー隊商が今年最後の交易隊商だったはずだ。クシャーナ王国のも同じだから、来春までは何事も無いと考えてもおこう。
回収したり、身に付けていたりした金は、全部で55万5000ルピーだった。町では山岳回廊用の装備品も買い足したし、箱の方にも分散していたので、その分が無くなって幾らか減っていた。減ってはいたが、クシャーナ王国での再スタートは出来るだろう。
回収出来たのは、作物のタネを入れた小袋がおよそ半分。魔法書は5冊有ったが1冊、それも表紙だけである。魔道具はヤクに背負われていた為にほとんどが破壊されていた。壊れていなかったのは、洞窟の作業で使用した風魔法の魔道具が1個だけだ。合わせて6億ルピーの損失だと思う。
ルピーの単位だと、フーン残念と思っただけだが、日本円で18億円だと思いなおすとショックを受けた。マァ、命あっての物種という事で納得するしかない。取り敢えず、この近くの大き目の村に行き、言葉が出来る様にする事と、両替と服装を整える事にした。
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確かに、山々の景色は素晴らしく、自然の偉大さを感じさせるものだった。アレキ文明時には、登攀されていたかもしれないが、記録も失われた今では山脈の峰々は未登頂かどうかも分からないとされている。空飛ぶ絨毯に少ない荷物を積み飛び立つ。時速30キロほどの安定飛行である。
イリアへはゆっくりと、だが確実に距離は縮まっていく。振り返れば中央山脈の山々が手を振って別れを告げているような気になる。荒涼とした人跡未踏の地でもあったし、九死に一生を得た感慨深い場所であった。想い返せば、転送以来の旅は苦労の連続である。果たして、報われる日は来るのだろうかと思ってしまう。
標高が下がっていき、気温はやや上がって行く気がする。中央回廊の比では無いが、やはり秋なのだろう。山脈から流れ出た水が集まって小川になり、岩の間を過ぎると小さいながらも川に変わっていく。川沿いの温泉かー。思い出されるのは、日本の秘湯と呼ばれる山深い所にある温泉宿である。
ここでも探せば温泉が見つかるかも知れない。マァ、空の上から遠視の魔法を使って眺めるだけである。クシャーナ王国の地質については全く知らないが、隊商にいた人の話ではアラークの町の南には温泉があるらしい。
野生動物が温泉を利用してケガを直すと言う話もある。それこそ、シカやサルが使っている秘湯と言うのを発見できるかも知れない。そんな事を思いながら西に飛び続けていると、森の木々が疎らになり、ほどなく開墾途中の農地が見え始めた。
最初の人家が現れたが、まだ村まではかなりあるようだ。食糧を買おうにもクシャーナ王国のお金が無い。お腹も減って来たが、もう少し頑張る事にした。進行方向右手に、鐘楼の様な建物が見えたが人影もない。今は村へ行く事を優先すべきだろう。
森林に囲まれた村とは言え、人間の住まう処では自然との調和は望めないが、何故だかホッとする。少ないとはいえ、木々の緑と白い雪の世界から、色のバラエティが有る世界に移動した事がそう思わせるのだろうか。沢沿いには湯気の様な物も立ち上っているし、ロケーションも中々だ。あそこで良いだろう。
いらぬ騒ぎを起こさぬように、空飛ぶ絨毯5号機は草むらに隠しておく。村まで歩いて行くつもりだ。ちょうど良い具合に2人の男が村の方に歩いている。昼前なので農作業を済ませて昼食にでも帰る処なのだろう。では翻訳魔法様、またよろしくお願いいたします。
「アノー、すいません」
「なんだ。アンタ」
「どうしタ、ようか? 何か」
「エェ、この先の村に行きたいのですけど」
「なにいってんだ。こいつ……さん」
「イルの人か?」
「悪いな。子供が喋れん?」
「オイ、アーザード。これは、イル語じゃないのか? 旅人だぞ」
「バーバクの言う通りだな。しかし困ったな。俺達はイル語が喋れんし」
「宿屋のオヤジなら、話せるんじゃないか」
「そうだなぁ。困っているみたいだしな」
「まだ、子供だ。連れて行ってやろう」
「ここ、セムナーン村。これから、お前、連れてく。宿屋? いいか?」
「着いたら、オヤジに言いなさい。泊まる家だ」
「分からんか。まぁいいや。行こうか」
※ ※ ※ ※ ※
「オ、二人してどうした?」
「村に戻る途中に会ったんだけどさ」
「旅人だと思うんだけど。俺達はイル語がわかんないからさ」
「困っているようだから、オヤジさんの処に連れて来たという訳だよ」
「そうか。そいつは、良い事をしたな。で、そこの少年が話の?」
「ハイ、カトーと言います。ご主人ですか? お二人に案内していただきました」
「そうだな。イル語だ。俺の言っている事が分かるかい?」
「ハイ、分かります。お世話になります」
「よろしくな。俺はアルザング・ニハーヴァンド。このヒールダードの宿の主人だよ」
村人の2人には、オヤジさんを通じてだが礼を言った。支払いと交渉の開始である。ここクシャーナ王国も価格交渉が好きな所らしい。価格を表示してある事など夢の夢である。このバトルワークは、疲れている時には本当に堪える。5000デュラムと言われたが少し引いてもらう。
結局、1泊朝食付きで4500デュラムで決定。これは言い値の様な物である。ただし、お湯は桶2杯をサービスしてもらった。お湯は、自分でも出せるがせめてもの抵抗である。取り敢えず1泊のみ決めて、翌日以降の料金はリベンジするつもりだ。
この間に助けてくれた2人は、いつの間にかいなくなっていた。オヤジさんに聞くと、その内、飲みに来るんじゃないかという事だ。マァ、先立つものも要るので、取り敢えず両替を済ます事にした。
本来なら一時に替えないで、最低でも2カ所の両替屋でレートを比較するべきだが、ここは食堂、酒場兼宿屋が両替と多角経営でやっている。支払いの手間も減るし。早い話、このセムナーン村には両替できる所は一軒だけだった。金額が多いほど、宿屋も利益になって喜ぶので色んな話が聞きやすいと思い妥協する。
所持金の55万5000ルピーは、111万と600デュラムとなった。意外な事に、両替の手数料は1割で至極真っ当である。これは日本円なら166万5000円となる。偶然だろうが、イルの貨幣であるルピーの2倍で、少し前のイリア王国とケドニア帝国の交換レートと同じであった。
通された4人部屋は、村のメインストリートに面していて割ときれいな部屋である。ほんの一時、休むつもりでベッドに横になったのだが、どうやら相当疲れていたようで寝てしまったらしい。すでに陽が暮れていたらしく。
1階の食堂から騒々しい音と、美味しそうな匂いがしてきた。夕食の時間から酒場の時間になりつつあるようだ。翻訳魔法の為にも、会話を聞いてレベルアップを目指さないと……。宿のアルザングさんとだけの会話では偏るからね。
※ ※ ※ ※ ※
一階の食堂で食事をしていると、助けてくれた2人が入って来た。是非、お礼をしたいと声をかける。最初は2人とも辞退していたが、エールが運ばれて来ると満更でもないようだ。ここは、情報収集を兼ねて気前よく飲んでもらう事にする。
「カトー。ゴチになるよ」
「エェ、どうぞどうぞ。助かりましたよ」
「ホントかい? 喜んでくれたなら良いけど」
「ホントですよ。お代わりも遠慮なくどうぞ」
「オ、すまないな」
「なんだ、普通に喋れるじゃないか?」
「そうだな。魔法みたいだ」
「まさかー。あの時は疲れていて、呂律が上手く出来なかったんですよ」
「そうか。そんな事も有るかも知れんな」
「異国の知らない土地かー。いつか行ってみたいもんだな」
「アァ、その時は翻訳できる魔法が有ったら、便利だろうな」
「そうだな。便利な事は確かだな。だが俺達は当分の間、旅行予定は無いからな。外国語なんぞ必要ないぞ」
「ハハハ、違いない」
翻訳魔法の話が出た時はドキリとしたが、すぐに冗談だと言われた。何時もの事だが、この魔法を使えば短時間でクシャーナ語が分かるようになったし、発音だってほどほどに上達する。マァ、600年前の言語体系が使えると言うのもおかしな感じだが、有難い事には違いない。翻訳魔法様々である。
しかし、村人が魔法について違和感なく語っている。魔法使いにも好意的な人が多いようだ。とすると、魔法はかなり身近な存在で皆の役に立っているのではないだろうか。
「魔法ですか? いいですねぇ」
「そうとも、俺も森の魔女様達のように魔法が使えたらいいんだけどな」
「こればっかりは、持って生まれた才能だからな」
「森の魔女様って、そんな人達がいるんですか」
「アァ、割と近くの森に居るんだ。薬も分けてくれるし、気のいい奴らで俺の好みなんだ」
「バカ言ってるな。相手は魔女様だぞ」
「だが、本当に男の魔法使いと違って、伸び伸びしているんだ」
「しょうがないさ。魔法使い不足で、行きたい所もやりたい事も出来ずに、男はズーと徴兵されるんだからな」
「でも魔法が使えれば、軍だと士官待遇だし、モテモテなんだそうだ」
「俺も、あやかりたいもんだな」
話によると、王国では魔法が使える者は15才になると王国各地に有る、国立魔法使い養成学園に進む事になるらしい。これはイリア王国と同じように魔法使い育成と囲い込みに使われる。もっとも、クシャーナ王国の場合は、魔法使いの発現報告と彼らの就学は義務となっている。
2年から4年の養成期間終了後、王国各地に点在する魔法使いの研修所、このセムナーン村の場合はダマーヴァンドの森にある魔女の家になるが、師匠に1年付いて研修試験合格後に魔法使いとして認められる。その後は、男性は全員が軍に、女性は魔女として活躍の場が与えられる。
男性が軍人に強制的に魔法使いにさせられるのは、魔法を使える者が少ない上に、使えるのが女性に偏っている為である。尚、クシャーナ王国の伝統的価値観では、戦に出て戦闘行為をする者は男性でなければいけないらしい。
それはともかく、この後は男達のいつもの話である。誰それがモテたの、どこそこの娘がと言う話になる。酒場での会話は、おそらく洋の東西を変わらず、イヤ、世界が違ったとしても同じような物であるようだ。
※ ※ ※ ※ ※
昨夜の酒場では、眠い目をこすりながらも話を聞いていた。ベッドに入ったのはかなり遅く、お陰ですぐに熟睡できた。旅の疲れも有ったのか起きたのは、朝食時間が終わりになりかけた時である。マァ、日本でのキャンプでも、起きたらお昼直前だったという事も有るし……。
このセムナーン村は、男性達の多くが林業を中心とする職種についている。いわば半農のキコリの村である。クシャーナ王国では山間部の人口は少しずつ増えていたが、ここはイル王国に近い為か、村にしては珍しく人々は割と開明的であり、外国人にも親切と言えた。
この事は後になって聞いたのだが、近くには有名な修道院が有り、季節限定だが多くの旅人が訪れる。そのイーラーム教の祭期には村の人口が2倍になると聞いて、なるほどなと思った次第である。
それはともかく、イリアにいた時と同様に、クシャーナ王国の事は知らない事が多いままだ。酒場で聞いていた話では庶民と言うのは、どこも似たような物だという事だ。やはり、幸せを願い、ケガも病気も無い生活を送る願いを持った善良な人々だ。
しいて違いを言うならばここの人々は、ある意味で迷信深いようだ。それがクシャーナ王国の特徴なのかも知れない。超自然的な事に理解が有ると言って良いのか、不思議な出来事が起きても許容するようだ。それにしても、不思議な話と言うのは意外と似ている物だなと思う。
例えば、どこそこの家には、家具が動き回ると言う不思議な事が起きたりする。また、墓地に行く時は呪文みたいな慣用句を唱えてから出かけなければならないとか。クシャミをしたら、何故だか意思の精霊ウォマナフに許しを請わなければならないと言う物もある。
同じ精霊が出て来る話でも、森で聞く不思議な叫びは、音の精霊スオシャの悪戯であるから怒ってはいけないと言われる。日本でも妖怪の一種で山爺とも言われる似たような話が有る。当たり前の事のように、どこそこの町に有る道の角には、頭を下げてから入るとか、等々……。おそらく、これも魔法が使える者が身近に居たり、魔法を見る機会も多いという事に繋がるのかも知れない。
村は、中央回廊のクシャーナ王国側の到着地であるアラークの町から、駅馬車なら6日の距離である。もっとも、これは途中でヤズド村に寄る為で、直線距離なら4日との事である。移動手段はイリア王国と同じように、移動や輸送が必要な時は、自前でなければ貸し馬屋の馬かロバを利用する者が多い。尚、蒸気動車は王都ドルードで見られるが数は少ないようだ。
このセムナーン村はラシュト地区の比較的大きな村であり、クシャーナ王国では宗教関係者によく知られた場所でもあるらしい。これは先ほど述べたイーラーム教のアシュカーン修道院が近くに有る為である。今でも教祖アータシュの定めた厳格な戒律の下にある。現在、修道院は16人の修道士によって管理されているそうだ。
修道院は400年前にイルから移り住んだ聖アシュカーンが開いたものだ。嘗てイルの地から、マニ教から分かれたイーラーム教が伝えられた最初の地の一つであるとされている。当時の聖職者は、世俗を離れる際に姓を捨てた為に姓は無かった。
修道院内部にある聖堂には、マニ教の5大精霊の宗教画が描かれており、多くの宗教的宝物が保存されていると言われている。いわゆるイーラーム教の10聖地の1つで、人々の信仰を集め、現在も修道院には伝道者の遺物とされる物が残っている。
中央山脈側からは、見えなかったが、12キロほど北東に有る修道院は、この村からも見る事が出来る。敷地には、森の木々から抜け出すような87メートルの石造りの鐘楼が築かれている。南風の有る時は1日4回、時を決めて鳴らされているのが分かるらしい。
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セムナーン村は、森に囲まれた緑多き地にある。村から20キロほど南には、広大な原生林と思われるダマーヴァンドの森が広がっている。森は、クシャーナ王国の重要な薬草生産地に指定されており、自然に生育した薬草など多種の植物が育つ貴重な場所となっていた。
そして、そこには魔法使いの研修所、すなわち魔女の住む家があった。彼女達の家近くには、様々な薬草や木々が植えられており、独特な木々と共に不思議な雰囲気が有ると言う。もっとも、彼女達は嫌われている訳ではない。
クシャーナ王国では、魔法使いの数は減ってはいるが、かなり尊敬されているとの事だ。それもそうだ。こうして地方で薬を作ったり、土魔法で橋や道路の建設などを行っていたりするから当然だと思う。そしてなによりも、黒き霧から王都防衛の任も負っているとの事で、社会的な貢献度が高いので正当な評価であるらしい。
黒い霧には興味が引かれたが、話題にする事も不吉だと嫌われており、尋ねても言いよどむ人も多い。おそらく、禁忌に近い事らしい。マァ、君子危うきに近寄らずである。確かに王都にある空中庭園の話を聞いた時には興味が湧いたが、観光旅行をしている訳では無いし王都に行く予定も無い。
「「こんばんはー」」
「「ハイ、こんばんは」」
村では月に一度の寄り合いがヒールダードの宿で夕方に開かれる。食堂兼酒場、今日は+集会所である。食事は出来るが混んでいる。宿の2階に滞在し、食堂で食事しようと降りてきた僕も、否応なしに参加である。
もちろん村人全員という訳では無く、代表者のみであるが30人以上いるだろう。難しい議題が無い時は、集会はすぐに終わり、エールを片手に親睦を深める事になるという事が多い。実際、今日はこれと言った話は無い様である。
「村の者は時々、薬を分けてもらいに尋ねる事が有るし、魔女さん達も生活用品を村に買いに来るしな」
「マァ、お互い役に立っているし、魔法使いは貴族扱いだからね」
「今は、20才位の魔女が3人いるよ」
「3人なんですか」
「アァ、お師匠さんは王都に行っているからな」
「森に入れば分かると思うんだが、木の幹や枝が曲がったり、ねじれていたりするのを見るのは珍しくは無い。無いんだが……」
「無いんですよね。それが」
「それがなー、この魔女さんの家近くでは、珍しい形のがあるんだ」
「へー。そうなんですか」
「悪気は無いと思うよ。おそらく、何かの実験用だと思うんだが」
「フーン」
「魔女の家に近い所では、生えている木が根本から30センチぐらいに処からだな……」
「処から?」
「ぐるりと輪を描いて曲がっているんだ。そこから先はまっすぐ生えている」
「本当に?」
「アァ、おかしなもんでな。1本や2本じゃないんだ。家の周りの木が全部なんだ」
「へー!」
「あれは、魔法をかけて育てているんだな」
「俺なんか、2回転しているのを見つけたぜ」
「エー!」
「それだけじゃない、全部の枝が北の村の方を指しているんだ」
「ホー!」
「見ると慣れてしまうが」
「イヤ、それは慣れないでしょう」
「そうだよなー」
「何の為に作ったのかって?」
「家具だろ」
「樽だよ。丸く作るんだから」
「イヤ、反り具合が良い感じだ。船を作る時に使うんじゃないのか? 強度も出るだろうし」
「でも、川はあっても海までは遠いし」
「アァ、それな。昔はそう言う奴も多かった。でも今は、大きな木造船は無くなって、フラン王国みたいな金属船ばかりになるらしいから……無いな」
「じゃ、ソリを作って、雪の降る所に売るんじゃない」
「色々、ありそうなんだがなー。誰も分からんのだよ」
「針葉樹は育つのが早やいし、加工も楽だ、やっぱり木造の家を建てるのが筋だな」
「広葉樹と針葉樹では、成長速度が違うはずなんだが」
「あそこの幼木は、凄く早く育つらしいぞ」
「同じ大きさと、高さに揃っているしなー」
「ケヤキ、サクラ、トウカエデ、ネズミモチ、アカシア、プラタナス、ピラカンサ、なんかは1年でだいぶ大きくなる。1メートルぐらいかな」
「ちょっと待て。あそこにはイチョウ、ウバメガシ、クスノキ、ゲッケイジュ、コブシ、シイ、シラカシ、マツ、マテバシイだってあるんだぞ。あれらも成長が早いが、1年で50センチぐらいじゃないか?」
「露地植えでしっかり根を伸ばすと、グングン大きくなるが、それにしてもな」
「そう言えば、昔。爺さんが鉢からモミの木を植え替えていたの見たと言ってたな」
「材質は良いんだ。育てているのは間違いないな」
さすが、キコリ達である。専門性が高くてまるっきり分からん。森へ連れてかれて、この木なんの木と言われてもなー。せいぜい気になる木と言うぐらいがオチだ。
確かに激しい海風や山風、重い雪を受けた木は一方向に倒れる傾向がある。厳しい風や雪の環境下では不思議ではない。そうなると揃って同じような湾曲をした木を育て続けているのだろうか?説明が付かない。僕の使う時間加速の魔法の様な、早く育てる魔法実験の一種なのだろうか?
「変わった形だし、沢山あるからな。何とか使えないかと考えた訳さ」
「何本でも切って持って行っていいと言われてもなー。材はもったいないぐらい良いんだが、根本がくるりと曲がっているからな」
「失敗作じゃないのか? 魔法実験の」
「そうかもしれんな」
「で、昔。14・5年にもなるかね。頭の良いじい様が思案してね」
「それで」
「楽器を作ったのよ」
「王都に行った時の軍楽隊と言うのが有るじゃない」
「エェ、有ると思います」
「あれの曲がっている管の楽器を見てね」
「ホルン?」
「名前は知らないけど、それを見て作ろうと思ったらしいのよ」
「曲がっていますからねー」
「大きいのは、先が少し曲がっているだろ」
「アルプホルンですね」
「アルプホルンと言うのかい? マ、それを作ってみたら結構いい音でね、遠くまで聞こえるんだ」
「へー、作ったんですか」
「で、牧童が山で、牛や羊を放牧する時の合図に使い始めてね」
「10キロ近く、聞こえるんだよ」
「その音を聞くと、牧草地で草を食んでいる牛達も、搾乳の時間になると小屋に戻って来るんだとさ」
「ちっちゃいのを作って、修道院にお参りに来る衆のお土産として置かしてもらったら、これが結構売れるんだよ」
「お金になるしね。冬の夜なべ仕事になっているよ」
仕上がり時には、山の風景や花の模様などを描き入れてある。本来、音色には関係ないが、それらしく、また、すばらしい楽器に見える。絵は一度塗装した上で描かれるが、精緻に描くより図案的に描く方が客受けすると言われた。
以前は貰って来た曲がった木を使って製作されたものが一番の高級品とされた。尚、高級品は音色向上の為、筒状の内側を塗装し息による湿気を少なくする工夫がしてあるそうだ。
今では大小様々な形が有る。大きな物は3メートルにもなる。この為、分割して持ち運び出来るようにしたり、前述のようにお土産品としてミニチュア製作したりされている。村では山岳観光の時代が始まりつつあるのかも知れない。
※ ※ ※ ※ ※
「オヤジさん。チョットお聞きしたいんですが、この村から物を送る事は出来るんでしょうか?」
「アァ、雑貨屋が有るだろう、あそこからなら送れるぞ」
「あのー、ここでアラークの町まで荷物が送れるって聞いたんですけど」
「エェ、送れますよ。王国内のたいていの所に、商業ギルド経由で郵送できます」
「アラークでしたね。今月の駅馬車が使えますから……。この表によると、21日間かかりますね。それで、いいですか?」
「ハイ、来春の雪解けまで居るはずですから、大丈夫です」
「何を送るんですか?」
「これなんですけど」
「立派なククリナイフですね。これを送るんですか?」
「エェ、そうです」
「小包扱いですね。じゃ、小さめの木箱に入れて荷造りしましょう。この筆で、箱の上に宛先と名前、それに送り主の名を書いて下さい。添え文として、中にメモぐらいの手紙なら入れれますよ」
「お願いします」
「アラークの町。山岳回廊イル王国の商館。チャウデゥリー隊商アンシュ・チャウデゥリーさんと……。料金は、少し高いですよ。いいですか?」
「ハイ、構いません」
「エーと、配達先指定で宛先人渡しですね。2つのオプションが加わりますので、11万デュラムがプラスされますね」
「そうですか」
日本なら銃刀法違反になりそうなククリナイフの小包だが、クシャーナ王国ではそんな事は無い。荷物に保険をかけるかと聞かれなかったが、それ以前に保険自体制度が無いようだ。また、中央山脈近くのラシュト地区では盗賊も少なく、重い罰則が有るので盗難防止効果があるらしい。
中に入れるメモには、チャウデゥリーさんと、お世話になったチャウデゥリー隊商の皆さんへのお礼を書いた。特にチャウデゥリーさんには、転落時に命がけで僕を助けようとしてくれた事や、運良く助かった事。ロープを切った事や心配をかけた事も書いた。そのお礼と言っては何だが、ククリナイフを受け取ってくれるように頼んだ。
※ ※ ※ ※ ※
「お客さん。もう、出るんだって」
「エェ、雑貨屋で服や食料も買えましたし、明日の朝には宿屋を出るつもりです」
「そうかい。達者でな。また来てくれよ」
「エェ、機会がありましたら」
来れなくとも、思わず口に出てしまうのが気づかいをする。日本人である。それはともかく一昨日の集会では、色々と面白い話が聞けた。特に魔法実験。木がぐるりと回って生えているそうだが、何故だろうか? 昔から魔女は大鍋でスープや薬を作っているイメージが有る。他にも色々とやっているようだし、ひょっとしたら魔道具の製作についても何か分かるかも知れない。寄り道して行く価値はありそうだ。
教えてもらった魔女の家は、村から南に20キロほど。途中までは、小川が道沿いに流れているので分かり易く、道の分岐には丸太橋がかかっているそうだ。道なりに進み、森に入って30分、およそ2キロで着くらしい。移動には、隠してある空飛ぶ絨毯で行うつもりだ。




