182 アーマティ峠を越えて
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今も昔も、山岳回廊とは中央大陸の西部と東部を結ぶ交易の道である。クマラコムから見えるのは、そびえたつ山々であり、嘆きの絶壁を抜ける廻りくねった街道である。難所と言われる場所では、道から一歩でも足を踏み外せば命はない。そして白き巨人伝説のある地でもあった。
地図魔法のデータによると、アレキ文明期には、既にアルペンルートとして記載されている。回廊は土魔法により整備されており、600年後の今では剣呑な道となっていた。だが、昔は交通路として普通に使われていて、しかも風光明媚な観光用の道路として有名だったようである。
本来は、観光用として造られたのでは無いのだろうが、これは転送陣の整備拡張と共に、物資輸送には使う必要が減った為と思われる。この道は、アレキ文明の規格で作られていたので、道路幅は10メートルあり、路面は強化土魔法で造られ一見してコンクリート舗装の様な感じであった。
道路端には、高さ1メートル長さ3メートルの土塀が設置されている。これが、70センチほどの隙間を設けて延々と連ねられており転落事故を防いでいる。かなり立派な道として整備されており、観光用のパノラマロードとして使われたのも不思議ではない。
時は巡る。整備された道路でも600年の歳月は、難所と呼ばれる通行がすこぶる困難な場所が作り出されていた。多くの場所で、路面の劣化や凸凹があったが、3カ所は過酷な自然環境による土砂崩れだった。
そして、人工的な破壊の爪痕がクシャーナ王国側の休息所近くにあった。その回廊一番の難所と言うのは、この崩壊箇所を迂回する為に作られた復旧場所の事であった。
それは隕石テロの攻撃によるものだった。テロリストは、大陸南部の海上交通路を完膚なきまでに破壊している。おそらく、中央大陸における東西の陸上交通路を破壊するつもりであったのだろう。こちらでは軌道誘導に失敗したか、迎撃で破壊されたかは分からないが、小隕石の攻撃は素晴らしい道路の一部を崩壊させていた。
転送網の破壊により、ムンドゥス全ての流通システムが破壊されて止まったのだろう。だが、流通路は必要だ。交易用道路として再び利用が始まったのは当然である。
残念ながら復旧と名付けられていたが、以後何百年も仮設状態のまま迂回路を補修しながら使用する事となっている。いつしか本工事が先送りになり、ついには出来なかった。これは、復旧場所の作業難易度が高いのが主因であるが、もはや、国家レベルでも山岳回廊建設当初における、高度な土魔法や技術は使用出来なくなっていたのだ。
それはともかく、仮設の道路建設が開始されたのは翌年からで、イル王国の前のオーチャ王朝から始まったようだ。工事は難航が予想された。回廊は1年15カ月のうち6カ月は雪に阻まれ作業が制限される極寒の地である。だが、転送陣による輸送網無き後、東西の横断する重要交易路の建設だけに工事は急がれたのだろう。
総じて厳しい環境下での崩壊箇所を修復すると言う過酷な作業であったが、作業従事者達の努力も有って早期に迂回路として完工したようだ。以後、長年にわたって交易路として使われており、王国の発展を支える一助になっている。
この回廊再建計画は、わずかながら記録が残されており、商館にて貴重な資料として公開されている。それによると前年の調査で、クシャーナ王国側の第3休息所近くの山陵で大規模な崩落が有った事分かっていた。
当時、土魔法の魔法使いを従えて路線踏査に向かった再建調査団は、第3休息所の鞍部が特に酷く崩壊しており、旧来の路線再建の見込みは全く無いと判断した。その為、新規に第3、第4休息所と迂回道路を設ける事になった。
本工事では危険な仮設道路を作るよりも、長大なトンネルを掘削すれば、この難所に変わった崩壊地点を安全に通過する事が出来るはずであった。標高は3から4000メートルほどであるが、隕石テロ以前の魔石量や魔法使いのレベルなら、長大なトンネルの建設も難工事とはいえなかっただろう。
だが、先に述べたように当時はすでに魔石エネルギーは減少傾向で魔法使いも払底していた。今となっては冗談の様な高度な土魔法とされるが、この当時は担当する土魔法の魔法使い達の技術は未熟とされた。しかし、限られた工費と天候による時間的制約もあった。この為、土魔法による複数の短いトンネルと、架橋建設案が採用される事となった。
慎重にトンネルの掘削箇所が特定されると、迂回路の設計が決められた。崩落個所には、3カ所のトンネル(総延長412メートル)を建設し、途中からは回廊最高地点の峠に向って1000分の155の急勾配で仮設道路が作られた。この傾斜は荷役用ヤクが、上限に近い130キロの荷を積んで登坂出来る最大の角度に近かった。
迂回路は急な山腹にぴったりと沿い、徐々に標高を下げて第1トンネルの手前で長さ25メートルの隧道を抜ける。次が深さ180メートルに及ぶ崩壊箇所である。ここに仮設道路を架けるには、盛土施工により3万トンにおよぶ土盛りを行い何とか切り抜けた。
ここを通過すると、限界とされる155パーミルの勾配で、最小半径200メートルのS字型坂路でもって右に左に蛇行しながら下っていく。標高が高い場所の難工事であり、迂回路建設時には魔石エネルギーは不足しており、土魔法使いも少なくなっていたのである。高度な土魔法が使えなければ、到底無理な作業であった。
山岳回廊の一番の難所と呼ばれては居るが、実際に迂回路は600年に渡って使用し続けられているのだ。常に斜面崩壊におびえながら、目的の工事を進めた再建団一行の熱意は尊敬に値する。むしろ、よく直したと褒めるべきかもしれない。
尚、待避所も休息所もオーチャ王朝時の整備番号が、そのまま伝わって使用されている。
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チャウデゥリー隊商は大丈夫だった。嘘のような話だが、むしろ、昨夜より凛としており、隊員達はきびきびと動いていた。プロなんだと思う。隊長のチャウデゥリーさんから軽くお話が有った。隊員達は重々承知だと思うので、これは僕向けのスピーチであったようだ。
季節は秋から冬に向かっている。イリア王国でなら今は秋の半ばだが、高山地帯では季節が早い。吹く風は、すでに晩秋か初冬かと思われるぐらいだ。最後の隊商、僕らのチャウデゥリー隊商がクマラコムから出発する11の月22日はギリギリの時期だそうだ。
出発日1日目。クマラコムの町を出て13キロを西に進む。変わりゆく景観を少しだけ楽しみながら、イル王国側の標高2700メートルにある第1待避所を目指す。勾配が上がり始め、立ち木が少なくなってくる。ここらの村は、半農半牧である。時折、放牧地なのだろう羊やヤクの姿を見かける。
カーシャーン川が創り出したのだろう、湖ほどでは無いが大きな沼がある。その沼沿いの小高い丘に、マニ教の寺院がポツンと一つ建っている。遠目に見える墓地は、村の大きさの割に大きい。植えられたのだろうか、黄色い花がきれいに咲いていた。
「ここいらの墓はな。雪解けの頃、運よく見つかる。そんな奴らの墓だよ」
「たいていは雪に閉じ込められるか、風で吹き飛ばされるかして行方不明となるんだ」
「霧に迷って、あと少しと言う処で凍え死にするのもいるがな」
「俺には、運が良いのか悪いのか分からないがな」
「家族にとっては、行方不明になるのはきついな」
「亡くなっても、見つからないのは……」
「そう聞くと、やっぱり運が良い奴らなのかなー」
「知っているとは思うが、4カ所の休息所が難所と呼ばれる場所近くに、これとは別に、5カ所の待避所がある」
「ハイ」
「ヤクを連ねて10日あまりで進む。これは、大嵐でもない限り1日の行程が終われば、待避所か休息所に着けるようになっているからだ」
「そうなんですね」
「もう暫くで、地元の人も村も見えなくなる。ここを抜けると、荒涼とした大地へ足を踏み入れる事になるからな」
「最初の泊りは待避所だ」
「野営ですよね」
「そうだ。待避所には、テントを張れる場所とヤク達が飲める水が有るだけだ」
なるほど。これは、パーキングエリアという事だな。
「休息所には、人がいて待避所よりまともだ」
だとすると、こちらは有人のパーキングエリアという訳か。
山岳回廊の平均標高は富士山より高い。高度が上がって行く為に呼吸が苦しくはなるが、ここを通らなければクシャーナ王国には行けない。隊商は、標高5000メートル付近にある峠まで徐々に登りながら進んで行くのだ。道には風化しているが、未だにしっかりと刻まれた道しるべが置かれている。
これらは、100基以上も建てられている回廊道標といわれるものである。現在確認されている89基の道しるべの内、昔からの位置に立っていると思われるものが69基ある。他は回廊の崩壊により失われたり、仮設道による付け替えで動かされたりして位置を変えている。
「この先だ。アァ、あれだ。オーチャ王国、山岳回廊入口と道標が彫られている」
「ホントだ、オーチャ王朝の時から建っていたんですね」
町からヤクの手綱を取りながら、近くの隊員とおしゃべりをする。息が上がり始めると段々と無口になっていく。時々、休憩だと告げられ道端に座る。ヤクの背に預けた箱は3個。最初のうちは、箱が気になって結んだロープを休息時間に点検していたが、今では休息優先である。
クマラコムの市場での、種の追加購入はあまり無かったが、それでもイル王国で集めた種は結構な量になっており箱一杯に小袋に入れてある。一箱には斜め読みした魔法書と、身に付けている魔道具4個以外は箱に入れてある。残る一箱には、出し易いように着替えと冬山用装備が上に置いてある。
この回廊では、ヤクなら120から130キロまでの荷物が積まれる。人間が背負う荷物は、強靭な体躯をした者なら、20キロが推奨されている。少なく思えるかも知れないが、山岳回廊は毛皮などの防寒具や冬山用装備も必要となる。これは、移動速度にも関連するが、高地での運動能力を考えると多い方ではないかと思う。
早めの昼時分には、給食の様な感じで昼飯が配られた。これは、町の食堂であらかじめ用意された物らしい。焼肉セットになるのかな? 脂を十分に使った高カロリー食だった。僕は煎じ茶用のポットに水を入れながら、胃が丈夫で良かったと思っていた。
手早く昼食を済ませて、出発である。少し元気を取り戻すと、またお喋りをする。彼らは山岳回廊のプロだ。値千金の話が聞ける。隊商は徐々に町から離れて行く。シカやサルが出る時もあるが、野生動物の飛び出しの可能性は減っていく事になる。だが、無い訳では無い。
「偶にクマが出るからな」
「ヤクの首に提げている鈴が役に立つんだ」
「クマは驚かすと襲ってくる。人間がいるという事を教えないとな」
「人の姿が有るのも、この辺までだ。街道への脇道もここら辺まである。この先は地元のもんしか通らねえ。時間は節約できるが、隊商が使うにはチョット不便なんだ」
「山岳回廊にはトンネルみたいのがある。偉い先生が覆道と言っていたな」
「そうそう、洞門とも言っていたよな」
「そうなんですか」
「そう言う場所は、岩が脆くてな。たまに崩れたりするんだ。で、土魔法で出来た、ぶっとい柱が道立っていてな。道を屋根みたいなのが覆っているんだ。暗くは無い。柱の間から光が入るんだ。だが、寒くなると氷柱が、天井から落ちて来るだ」
「狭い所では、4メート幅になるからな」
「荷を積んだヤク達がギリギリ通れる」
「転落防止の土塀は雪が降ったり、溜まっていたりすると、埋まってしまって全く役に立たないからな」
「ここら辺は草が生えていないだろう。この間、土砂降りでな。大きな石がゴロゴロと、川に浮かぶように流れて行ったんだ。あの時は凄いと思ったな」
「ニシャさん。怖いんじゃなく、凄いんですか?」
「アァ、あんなのを見るとな」
「へー」
「次は俺の番だって言うみたいにな。次から次へと大きな岩がこの道の方へ、せり出して転がっていくんだ」
「普通に、家一軒ぐらい大きな岩が転がるんだ」
「そうそう、その横を隊商は進んで行くんだぜ」
「ホー!」
「オィ! あんまり、カトーをビビらすなよ。カトー、確かに話通りだが、そこはもう崩れちゃったからな。心配しなくていいぞ」
「エー! 崩れたんですよね」
「そうだよ。さっき、通りにくい所があったろ」
「ウーン」
「今は秋だから良いんだぞ。初夏には雪解けの水で、路面が溢れる事もよく有るんだ。これがまた滑るんだなー」
「ここから先に、白き巨人が住んでいるんだ」
「白き巨人と言うのは、本当にいるんですか? たんなる、おとぎ話なんでしょ」
「何を言う。チャンと出るぞ。見れれば運が良くなると言う話だ」
「へー」
「出るのは、夏。晴れそうな朝だな。稀に夕方の事も有るらしいがな」
「カトーも見たら驚くぞ」
「悪さはしないが、大きいんだ」
「チョットおっかないな」
「もう少しで待避所だ。運が良ければ見えるかも知れんぞ」
「随分と来ましたね。町との気温差が肌で分かる気がします」
「そうか。ここは朝言った通り、町から13キロぐらいだな。標高は2700だ」
「先客の隊商がいる。アラークからのだな。今日は俺達の方が遅かったようだな」
待避所が近づいて来たので途中で話は終わったが、白き巨人伝説を少し考えてみる。カーシャーン川上流の、沼の様な自然ダムから流れてくる水はかなり冷たいので夏には川霧が出る。そこに朝の太陽光線があたると、自分の影のまわりに虹の輪ができる。後光のような光輪は、太陽が霧の中の水滴によって回折し、反射する。ブロッケン現象。この大気光学現象が正解だと思うのだが……
これも、一つの答えだと思う。そして、これがもう一つの答えはヒマヤラに居ると言われたイエティ。雪男である。もっとも、近年になってヒマラヤの雪男の正体は、ヒマラヤヒグマだったと分かったらしい。イエティとも雪男とも言われた未確認動物であるが、米研究者らが遺物の広範な遺伝学的調査で、複数のクマのものだった事を突き止めて学術誌に発表したのだ。
イエティの遺物だと言われる、それぞれの標本の完全なミトコンドリア・ゲノムを再構成し、ヒマラヤ山脈の絶滅の危機にある肉食動物であるクマと、その進化の歴史に関する重要な発見をした訳である。これは、長らく信じられてきた雪男の伝説を打ち砕く研究成果となった。
学術的には素晴らしい研究なのだろうが、野暮な話だとも思う。だが待て、ここは地球では無くてムンドゥスである。ひょっとしたら、雪男も実在する可能性が無い訳では無い。ロマンは続くという事にしておこう。
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出発日2日目。11キロ離れたイル王国側の第1休息所に向かい、荒涼とした大地をただひたすらに歩く予定だ。木造の休息所が置かれた標高は3200メートル。これは600年以上前の道であるはずだが、路面の凹凸も無くひび割れも少ない。
まだ、まだ、ここら辺はきちんと整備がされた道である。どこまでも続くと言う感じだ。街道沿いに立てられた風見の旗がゆっくりと揺れていた。
「隊商同士がすれ違うのは、休憩所か待避所が一番良いんだが、そうとばっかりはいかない」
「この回廊では、決まりが有ってな、アラークからのは右側に寄るんだ。つまり山側だ。そんでもって、クマラコムから出る隊商は左の崖側に寄る決まりだ」
「それって……」
「マァ、そういう所は景色が良いんだ」
「そう言う意味じゃなくて」
「気付いたか。カトーが思った通りだ。ヤクは荷物を積んですれ違うだろ。そうすると目一杯道の端に寄らないと通れない時も有るんだ。押されないように気を付けるんだぞ。一歩、イヤ、半歩踏み外すと谷に真っ逆さまだな」
「ニシャさん、聞きたくなかったです」
「大丈夫だよ。標高が上がっても、たいていの場所には土塀があるから」
「待って下さい。それって、全部には無いという事ですよね。土塀が無い所だったら……」
「もちろん、隙間には気を付けるんだぞ」
随分と高い所まで上がってきたようだ。アンシュさんと、ニシャさんは、家族を助けたお礼も兼ねてなのだろう、時々近寄ってきて話し相手や世話をしてくれる。今日は天候も安定しており、昼食後は暫しの休息を取った。
絶景である。下を見ると、遙か下にクマラコムの町に向かって流れている鉛色をしたカーシャーン川が見える。遠視の魔法で、これから進む回廊を視てみる。折れ曲がったような道の先を見ると、街道の至る所で路肩が崩れているのが分かる。見ない方が良かった。半歩踏み出せば谷底に転落するのは本当のようだ。今迄、難所と思った場所はほんの序の口であった。
ここまで来ると目の前には、ムンドゥス最高峰と言われる中央大陸山脈の山々が手に取るように見える。中央には13000メートルの標高を誇るガントク山、右手にはキーとクシーナガル。左手にはコーチンとコナラクの山。この5連山がそびえている。もう暫くすると日が暮れ始め、辺り一面は荘厳な雰囲気に変わるだろう。夕日に輝く5連山は、神が住まう山と言っても言い過ぎではない。
この待避所は直径が1キロ弱のかなり大きなテント場だ。ヤク達は入り口付近の、溜水が有る水場に直行している。人間用のは待避所の上方にある。まだこの時期には雪解け水である。遅く着いた為に、沢の水場から少し離れる事になった。
短い距離だが、人間と言うのは楽が出来る時は楽がしたいらしい。水を運ぶのが厄介だとの事で、水魔法でバケツや鍋に水を入れて行く。マァ、隊商に同行できる条件となっていたし文句はない。隊員達は楽が出来るし、僕は立って給水しているだけなので、野営の準備を眺めているだけで良い。
「ニーシャさん、何かお手伝いしましょうか」
「イイヤ、カトーはこのまま給水していてくれ。そうだなぁ、終わったら糞集めでもしてくれれば良い」
「了解しました」
皆、役割が決まっているようでテキパキと仕事をしている。マァ、手順を知らない素人が、下手に手を出すと面倒をかけるだけだと思い給水に専念する事にした。
ヤクの糞は立派な燃料である。人のいない待避所では、ヤクの糞を集めて大急ぎで火を起こさなければならない。多少ゆっくりと給水しているのは、優秀な魔法使いと思われない為である。怠けているのでは無い、ウインウインの関係である。
荷物のように運ばれるのを別にすれば、山岳回廊は隊商とヤクしか通る事が出来なかった。そして、隊商員はいつも天候の急変する前に山越えをしたいと思っていた。
山岳回廊を通る者にとっては、転落や落石事故はもちろん、低体温症、凍傷さらに凍死は普通に起こりえる出来事だ。心臓から遠く、体の末端。外気にさらされやすい場所。手足の指、耳、鼻、顔は気を付けねばならない。汗かきや体格の小さい者、皮下脂肪の少ない者は凍傷になりやすく、凍死は夏の盛りでも起こる。
濡れないように、凍らないように、靴紐やバンドで締め付け無いように注意された。凍傷は、寒さと血行不良が引き起こすので、理にかなっている注意だろう。風が一方向に吹く時は、ヤクの反対側に廻れとかも言われた。風速1メートルで1度下がるんだったな。あと、高度が100メートル増すと0.6度低くなるはずだ。
凍死は体温が低下(32度以下)して、体が正常に機能しなくなって起こる。だから気温10度ぐらいでも、雨風で熱が奪われると危ない状態だ。雨がみぞれや雪に変わって冬山みたいになる。山岳回廊の最高地点は5000メートルだから、クマラコムの町から3000メートル上がる事になる。18度も下がるのかー。
雨や雪には遭わなかったが、まだ始まったばかりだと言うのに、回廊に入った途端、風が強く感じ寒さでこごえた。陽が沈むと、道路わきのたまり水は凍り、まさに毒風と呼ぶべき風が吹く。その為に、隊商の者には持っているヤクの毛皮を引っ張り出して羽織る者もいた。試練の始まりだ。
保温に気を配らないと……。この分なら、お山は零下の世界だな。
真面目な話、待避所や休憩所が無ければ宿の確保がむずかしく、山岳回廊は交易路として機能しなかったかもしれない。
確かに両国の交易路を任された領主達は、商館から得られる高い税収には心を動かされるだろうが、街道の補修と休息所等の維持には膨大な金額と忍耐が必要たろう。しかし領主も隊商も、あながち金だけの問題では無いのだろう。彼等には、目には見えないが使命感があるように思えた。
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出発日3日目。第2休息所に向かう。10キロの道のり、標高4000メートルにある。ムンドゥス最高峰ガントク山がのしかかるように大きくなって迫ってくる。雲が切れ、晴天でもあるので目の前に世界最高峰が迫る。まさにこの展望は驚異である。
大展望を楽しみながら道を進むと、意外な事に休息所の少し手前に寺院が有ると聞かされた。マニ教の僧侶達が修行を続けているコバラム寺である。こんな環境の中でも、修行している人々がいる事に驚かされる。絶景ではあるが、休息所に近づくと5連山は間近か過ぎて、揃っては見る事が出来なくなってしまうそうだ。
「ここの休息所は石造りだ。狭いが、テントのように飛ばされる事は無い」
「ヤク用のエサも、量は少なめだが置いてある」
「人間用の暖かい食事が出る」
「ここらの標高だと、お前が好きだと言うコメは無い。半煮えになってしまうからな」
「メニューは2種類だ」
「オィオィ、カトーが本気にするじゃないか。食事は1種類だけだ。肉が入っている皿と、入っていない皿だけの違いだ。皿に、つける時の具合だよ」
「そうなんですか」
食事は、煮込んだ肉入りスープに小麦団子を入れたおじやみたいのだ。温かければ良いと言うのは、本当で、正義でもあるのだ。休息所の場所は第1が標高3200。第2が4000メートル。食事が用意されているのは第1と第4休息所だけである。標高が高いと沸点が低いので、野菜なども長く茹でる必要がある。水を多めに使うし、燃料もいる事になる。
休息所は宿泊以外にも、食事を提供するオアシスとなったり、荒天時は隊商にシェルターになったりする。休息所の職員は、周辺のみだが崩れた道の簡単な保全や、危険箇所の事故防止を業務としている。加えて情報を仕入れる場所でもあった。
基本、休息所には2個の隊商を宿泊させる事が出来る。2カ所では持ち込み調理であるが、2カ所の休息所には食事の準備もしてあり、安心できる場所である。
これに対して待避所にはスタッフが居らず、休息所とは異なり、食事や寝具などのサービスはない。食料や燃料は隊商が持参しなければならない。尚、天候の急変など悪天候時に逃げ込める程度の避難小屋は整備されている。
待避所は、800メートルの円状の広場と言えるような物で、強化土魔法により600年以上昔に作られていた。傾斜があまりなく、床になる面にゴツゴツが少ない。大雨が降った時でも排水が取れていた。テントの設営場所は景色が良い。逆に言えば、風が強ければ飛ばされそうな場所でもある。トイレは広場より少し下に作られている。
待避所には避難小屋以外は何も無いが、それでも無いよりましだ。ケガや天気悪化時は、無人でも避難小屋があると心強い。休息所にはトイレも水場も室内には無いが近場に設けられている。待避所はトイレや水場は若干離れている事が多い。
水を何度も汲みむのは結構大変な仕事となる。調理用の水量も考え、水の使用量を抑えなければならなくなり、ヤクに飲ませる水は無くなる。
人間用の水が十分に得られない場所では、根雪を煮沸し水筒に入れる事も有る。水が有るだけありがたい。水と言えば身に付けていた魔道具の4個が復活したようだ。3個の内、2個は火魔法、1個は水魔法の魔道具だった。
この水魔法の魔道具は、優秀で温度コントロールが出来る。何時でもお湯が出ると言う物だ。エヘン! ところが僕は立派な魔法使いなので、水と火の魔法を同時発動出来る。絶対に要ると言う言う物ではなかった。
尚、復活したと断言出来ないのは、あのスマホバッテリー型の箱が有るからである。緑色の点が点灯したのだが、うんともすんとも言わない。未だに何に使うのか分からない。マァ、荷造りしてある箱に入れなおすのも面倒なので。もう暫く様子を見る事にした。
朝食は前日の疲れの残る中、早く起床し、即食事する。 食欲が無くとも食べなければならない。本日の食事は、ゆっくりとエネルギーに変わる固焼きのビスケット、煎じ茶、ヤクの乳が出ている時期ならこれを入れるミルクティー? となる。食べやすく胃にも負担が少ない。ヤクの乳は脂肪分も多く糖質もあり理にかなっている。
昼食は、煎じ茶、固焼きのビスケットというメニューは変わらない。寒さに負けないよう、継続してエネルギーの補給が必要となる。小休止の時には干し肉か干した果物が配られた。これの繰返しである。こまめに食事を取るのは、体を疲れさせないリズムという点からも合理的で良いと思う。
休息所の夕食では前述のおじやスープが出された。野営地でも簡単な穀物が入ったおじやスープが出る。なるべくゆっくりと吸収される穀物をたっぷりと採る様にと言われている。夜食も夕食と同じであるが栄養補給の為、穀物から小麦を練って油で揚げたスティック状の物が入れられる。これは、保存がきくので町で購入するか自作する物らしい。これでしっかりとカロリーを補う必要があった。
残念ながら、いずれもカロリー摂取の為に、味より量が必要なのがよく分かる食事である。
※ ※ ※ ※ ※
出発日4日目。次の第2待避所までの距離は2キロ。短い距離との事だが標高は4000から4700メートルに上がる。急な勾配になっているという事だ。朝日に輝く山々を眺めながらミーティング。ミーティングでは、天候を予測し、隊商を更に西へ進める事かどうか決められた。
案の定、第2待避所に到着したのは日没間近。ここからは8000メートル級の雪山がズラリと南北に見渡せる。この待避所から見渡す限りの山が地続きである事が実感できる。この先には、山岳回廊の最高地点にして最高の景観を誇ると言われるアーマティ峠がある。
こんな山の上でも渋滞はある。富士山と同じように先がつかえてしまい前に進めない事も有るのだ。これは、隊商が2つ以上、同じ休息所に居ると起こる。休息所としても、無理なのは承知しているので来るなと合図が有る。
夏の繫盛期には、よく起こるらしい。この為、5キロの距離が有っても分かるように、昼は旗に凧、夜は烽火による合図がある。ちょうど目線の高さに揚がるそうだ。それが見えれば、渋滞しているので来るなという事だ。もちろん緊急時は別である。
国は違っても、山に生きる者は海に生きる者と同じように、ごく普通に助け合う。厳しい環境がそうさせるのだろうか? 隊商は目的地が近くなるにつれて予備の燃料や食料を置いていく決まりが有る。足止めに有ったり、いざと言う時は助かるし、商館からの物資の輸送能力にも限りがあるので暗黙の決まりとなっている。
先述の通り、山は平地と比べ雨が降りやすい。天気のご機嫌はあっと言う間に悪くなる。天候の悪化は強風や豪雨、雷、濃霧、降雪をもたらす。そうなると、事故につながり、命を失う事も有る。そんな中でも、僕にとって意外だったのは落雷だった。山での雷は非常に危険であると教えられた。
雷は稜線や高原で雷鳴を聞いたら、およそ20分後には雷雲が来るらしい。この時期の隊商は積乱雲に気を付けていた。そして観天望気で雷を予測しようとしていた。雷鳴を聞いてからは、あまり時間は無い。少ない時間で鞍部や窪地に逃げ込むのだ。
これが無理な場合は、しゃがんでマニ教の大精霊スプマンユと雨の精霊アムルターに祈る事になる。他に逃れる手立ては無いので、ひたすら雷が通り過ぎるのを祈るのだ。と再度言われた。しゃがみ込んでと言うのは賛成だが……。
ふと横を見ると、雷鳥みたいなのがチラリと姿を現し岩陰に走り込んでいった。すでに一部は冬支度なのだろう白い羽になっていた。なるほど保護色か! 自然の摂理とは言え良くしたもんだ。確かに白一色の雪原では見つけにくいだろう。
「そいつは、雷鳥だな。霧が出る日によく出る。今日は、霧が出ないと良いんだが」
「そうなんですか」
さらに、目を凝らすと動く物が遠くに見えた。急峻な斜面なのに軽々と登っていく動物だ。その姿を聞いてみると、ヤギやカモシカの仲間らしい。お前は俺達よりも目が良いんじゃないかと言われてしまった。無意識に、遠見の魔法を使っていたようだ。
この隊商は犬を連れていないが、大きな隊商ではヤクも多く、犬を連れている隊商がある。山岳地帯では牛などを先導する牧畜犬として、また市街地では荷車引きの仕事で活躍しているようだ。そのほとんどは大型犬で、キャンプ場に居たバーニーズ・マウンテン・ドッグに似ていた。普通なら、忘れそうなものだが、長い名前なので逆に覚えてしまったのだ。
犬の話は管理人さんの受け売りだが、古代ローマ軍が2000年以上前にスイスにもちこんだ犬だそうだ。ここにいるのは現地の牧羊犬の混血種だろうと思う。犬の話のついでに雪豹の話が出た。数は、少なくなっているようだが、毎年のように家畜に被害を与えるらしい。隊商のヤクも、待避所で襲われる事が有るそうだ。そんな時は、連れている犬が吠えるので分かると言う。
イル王国側の最後になる第2待避所は標高4700メートルにある。待避所を過ぎると、峠の向こうにあるクシャーナ王国側の第3待避所までは5キロとなる。最高地点の5000メートルの峠には、半径400メートルほどの自然に出来たとは思えない平地が有るらしい。
いよいよ明日は最高点にある峠のアタックだ。隊商はイル王国側の待避所を出て、クシャーナ王国側の待避所に向かっている。厳しい旅も4割がた乗り越えてきた。古手の隊員によれば、峠を越えようと遭難死する者は、5の月から6の月に掛けて多いとの事である。
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出発日5日目。標高5000メートルのアーマティ峠までは2キロ。峠から次のクシャーナ王国側の第3待避所までは3キロで、都合5キロの道のりである。峠に置かれた石製の道標には、これより西クシャーナ王国、これより東イル王国と刻まれている。峠からは、再び北面にそびえる5連山を見る事が出来る。峠の広場には、方位盤も有ると言う話だ。
「カトー、そろそろ出るぞ」
「ハイ、チャウデゥリーさん。準備出来てます」
「良し良し、だいぶ慣れてきたな。様になっているぞ」
「ハハ、そうでもないですよ」
「イヤ、立派なもんだ。オ、それは?」
「友人から頂いたナイフです」
「フーン。チョット、見してくれ」
「どうぞ」
「ホー……そうか。なるほどなぁ。カトー、このククリナイフ。大事にしろよ」
「エ?」
「かなりの業もんだ。ホラ、ここに青い石がはめ込んであるだろ」
「そうですね。良いもんなんですか?」
「アァ、違いない。その友人というのは、お前の事を随分と気に入っていたみたいだな」
「へー」
「オッと、出発だ。行くぞ」
峠に築かれていた広場はすごく広かった。おかしな感じだが、岩も無く、凸凹も風化によるものしかない。まるで、きちんと作られたショピングセンターの駐車場の様である。やはり、回廊は観光用道路として使われていたのではないだろうか。
路面には石も転がっておらず、キレイなものだ。これは、強風で吹き飛ばされている為と後から聞かされた。いったい、どのぐらいの風が吹くのだろうか? この身は少年の体格である。本当に吹き飛ばされそうだ。普段、ヤクの巨体は風除けにもなるので、強風時にはロープで荷物と体を繋いでいる。
この広場の中央には直径が3メートルほどの方位盤と思われる物が置かれていた。これは、どの方向に、どの山があるかを示す物である。立派な一枚石の様で、重さも相当なものだろう。よほど硬い石なのだろうか、刻まれたアレキ文明の文字は今でも分かる。
ここでも、隊商は歩きのリズムを変えず、ゆっくりとだが確実に進んでいく。チャウデゥリーさんに許可をもらって、一人方位盤に向かって歩き出す。走ると息が切れて大変な事になるので、イメージだけは競歩に近い。
方位盤を風除けにし、見廻してみる。ムンドゥスが丸い惑星だと言う事が良く分かる。5000メートルの峠は夏でも雪が降る。早々に見学を中止して隊商を追いかける。辺りが暗くなる前に、目標の第3待避所に着く事が出来たのは幸いだった。
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峠の存在は古くから知られている。この峠には、マニ教の精霊の一人である献身の精霊アーマティから名づけられている。なぜ、過酷な山岳回廊の最高地点の峠に、献身を意味する精霊の名が付けられたか、通過する隊商の者なら分かる気がする。
峠は古くから東西を繋ぐ交流地点である。今ではこの峠は、イル王国とクシャーナ王国の国境となっている。山岳地帯は、おいそれと行き来が出来ない。その結果、物資輸送や人の行き来は、古来、アーマティ峠を通るしかなかった。
山岳回廊は、両国国境周辺に広がる部族地域のなかにある。この地区は両王国が統治する以前から、山岳部族が管理していた。一帯は、政治や文化、民族が複雑に交差するエリアであった。人々は多くの部族集団に分かれており、伝統的な遊牧などを行って暮らしいる。
強固な連帯感を持っており、慣習法は独特な物が有るが、厳しい自然環境に即しており総じて合理的であった。また、男性は誇りを重んずる事で知られてもいる。
交易、軍事共に重要な地点であるが、幸か不幸か標高が5000メートルである為、ここ数十年は紛争らしいものが起きていなかった。加えて有力な部族であっても、交易を止めたり混乱させたりした場合の報復は、徹底的で容赦のないものになると理解していた。
大昔には交易路の富を独占しようと国もあったようだが、両国とも、事実上唯一と言う交易路が止まれば領土的野心を叶えるよりも、その損害の方がはるかに大きい事が分かっていたのである。
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出発日6日目。ここは、既にクシャーナ王国領である。標高5000メートルのアーマティ峠を無事越えて、標高4500メートルの第3待避所にいる。ここから、次のクシャーナ王国側の第3休息所までは2キロの道のりである。人間は登りがつらく、ヤクは下りが苦手なようだ。
本日はやはり雪。重くなった毛皮を着て、ヤクに風除けになってもらって歩く。風は強くなっており、雪も吹き飛ばされている。垂直の壁に見える回廊を長い時間をかけて進む。風が雲を激しい勢いで吹き飛ばしており、風景はますます素晴らしくなっていく。
自分でも無口になっているのが分かる。既に疲労は最大値の気分である。ヒールを時々唱えているのだが、体のえらさは変わらない気がする。空気が薄いのだろう、重力魔法による軽減も感じられず、背中の個人装備が十分に重く感じる。体に着けている4個の魔道具を、箱にしまおうと思ったが何ともけだるく、そのままにしている。
夜の一時は、読書タイムに充てていた。明かりはなくとも思い出の指輪を付けて、瞼を閉じれば魔法書が浮かんでくる。瞼を閉じるのは集中したいからであるが、じっとしていれば、居眠りをしているようにしか見えないだろう。昨晩は不覚にも、うたた寝をしてしまった。
クシャーナ王国のアラークの町は、クマラコムの町と違い城塞都市であると言う。標高は1200メートルで、水と緑豊かな谷に有るそうだ。真偽のほどは4日後に分かる。人種に文化、気候さえも変化するだろう。そして、わずかながらも魔法使い達が住まう地である。
宗教は、マニ教から分かれたイーラーム教といわれる。その教えは、精霊信仰から開闢した教祖アータシュの経典に替わっている。宗教的な厳格さが増して、寺院や僧院では戒律が厳しくなっているようだ。
標高4700メートルの待避所は、雪混じりの冷たい雨に包まれていた。西の山に、太陽が沈み、空は、次第に晴れてきた。激しく雲が動き、夜には満天の星空が広がっていた。
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出発日7日目。新しく建てられたのだろう、道標にはクシャーナ王国とある。次の第4休息所は標高3200メートルにある。ここからは4キロの道である。休息所がおかれた距離の間隔が近いのは、ここが一番の難所と言われているからだ。回廊はすでに仮設とは思えぬほどの年月を重ねている。
峠では見えなかったクシャーナ王国の山々と、朧気ながらも平野が見えている。おそらく、このまま安定した天候が続けばクシャーナ王国側にあるアラークの商館に着く事が出来るだろう。アラークの町までは、第4休息所からまだ33キロ有る。アラークの町の標高は1200メートルなので2800メートルを下る事となる。
最初の予定通り、順調に進んでいる。斜面が迫り、傾斜のある道であるが峠付近の回廊に比べれば楽である。見晴らしは当然の事、おかしな言い方だが異常なほど良い。空気が澄んでいるせいかもしれない。その代りと言っては何だが、高所恐怖症という言葉を思い出した。
ヤクでも高所恐怖症のがいるのだろうか? 蹄に雪が入り込むと滑りやすい。雪が積もった場所で、足を踏み外すと谷底に真っ逆さまというのが分かるのだろう。ヤクの先頭には、普段から山岳回廊を行き来して慣れているボスの様なものが選ばれる。
黄色く咲いた名も知らぬ高山植物は、気候により開花が年により多少ずれる事がある。その花に気を取られていた訳では無い。だが、運悪く待避所の端はいくらか傾斜になっていて、横にいる僕からは見えない位置にあった。雪のついた急斜面で、ヤクの蹄が滑ったのだろうか? 天候の急変は日に何回か起こる。一陣の風が、ヤクの巨体を押し出したのかもしれない。
僕はヤクの左側にいる。谷側なのである。避けようにもヤクの巨体が逃げ道を塞いでいた。右手は余ったヤクの手綱をしっかりと掴んだまま、一緒に落ちる。左手は腰のロープを切るのには既に遅いと知りながら、ククリナイフを取り出そうとしていた。万事休すである。
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「カトー、気が付いたか?」
「?」
「良かった。動くなよ! 今助けてやるからな」
そういえば、ヤクの近くをチャウデゥリーさんが声掛けしながら歩いていた。薄ぼんやりだが記憶が戻ってくる。花が咲いていたんだ。そうだ、ここの待避所は崖際にあったんだ。風が強くなったのでヤクに何時もの様に繋ごうとしていたんだ。腰に繋いで、箱のロープを点検しようといたんだ。
フッと足を掬われたような気がした。逃げれなかったんだ。そして、今。チャウデゥリーさんが、上の出っ張りから、僕に呼び掛けているんだ。
「お前とヤクは、崖から落ちそうなんだ。動くなよ、今助けてやるからな」
「ハイ……」
「体は動くか?」
「左足が痛くて動かせません……。他は、何とか動くと思います」
「そうか。お前は、今から俺の言うとおりにしろよ」
「ハイ」
「良し。まず、腰のロープをナイフで切れ」
「?」
「切るんだ。お前のククリナイフで……。ヤクは出っ張りにいて、死にかけているんだ。ヤクが動けばお前と一緒に谷に落ちる」
「エー、それじゃ荷物は?」
「荷物なんかどうでもいい。直ぐに、切るんだ」
「ハイ」
「今からお前を引き上げてやる」
ヤクのロープを切ると同時に、ヤクが動いて僕の荷物を積んだまま谷に落ちていく。ブォーという声が聞こえたが突然やんだ。僕はチャウデゥリーさんが握っていてくれるロープ見た。チャウデゥリーさんはケガをしているようで、ロープを伝って血の滴が落ちてきた。共倒れという言葉が頭をよぎる。
「チャウデゥリーさん。ケガしてるんですか?」
「アァ、少しな」
「本当ですか? 血が落ちてきますけど……。早く手当てしないと」
「大丈夫だ。お前を引き上げてからにするよ。それに上が賑やかになった。仲間たちが気付いたんだろう」
「ハイ」
待ってろと、チャウデゥリーさんの上から声がかかる。そして、ロープを放せという声も聞こえた。どうやら、チャウデゥリーさんが危ないようだ。
「チャウデゥリーさん。今まで、ありがとうございました。ロープを放してください」
「カトー、馬鹿なことを言うな」
「今から、ナイフで切ります」
「止めろ! 何とかなる」
「分かってます。じゃ」
「……カトー、すまん」




