181 国境の町クマラコム
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中央大陸山脈の東南東に広がるイルは、フラン王国、クシャーナ王国よりも遥かに広い面積を持ち、多くの民族が存在するが、基本となる言語はイル文明圏としてのまとまりを有している。大陸の南では独自の文明を形成した物があるが、分類上は東側のフル文明圏との2つとされる。
イル人は大別してフル系とフラン・クシャーナ系と2つに分かれる。現在南部イルを中心とするフル系は、もともとは大陸東部から隕石テロよりもはるか以前にイル河流域に移動してきたと言われている。おそらく、アレキ文明の以前のイル文明を築いた人々は、南中央大陸山脈を経て1400年ほど前に上流地方に侵入し、北イルへと移動したと思われる。
隕石テロ後に、広大なイルを統一したのは歴史上、3つの国だけである。現在のエローラ王朝も版図は広げたが、統一にまでは至っていない。これには、地形的な要因が多分にあるだろう。地図を平面的に考察すると、西から東への動きよりも、中部イルに至る方が距離的にも容易のように見える。しかし、立体的にみれば、東西の往来は平原を行くだけであり容易と言える。
だが、イル王国の西には1万3000メートル級の中央大陸山脈があった。この山脈は、中央大陸をあたかも二分したかのように大陸を南北に走っている。北東部では、6000メートル級の山脈が南北に2000キロも連なって交通を遮断しており、古来より往来は困難を極めたていた。
南北の移動は、中央大陸山脈の為に徐々に高度を上げる事になる。また少雨地帯を通り抜ける必要があったので、同じように交通は困難であった。こと陸上移動に関する限り、クシャーナ王国への開口部は中央大陸山脈にある北西部の山岳回廊だけでと言ってよい。
それに対して、南部イルは海洋で囲まれている。イル洋ほど長い海上貿易の歴史を有し、また最も豊かな貿易物資が海上運輸された海洋はない。嘗ては、この海域で旧文明、すなわちアレキ文明で転送陣が使われるはるか前から、海貿易が行われ繫栄していた。
隕石テロの前に、イルから東の小王国とフルに至る海上路のみならず、ムンドゥス全てで貿易圏が確立していたのだ。イルにとっての海は、交易を通じ富がもたらされるルートであり、船乗り、商人の拠点作りには極めて寛大で、積極的に居住区を提供していたと言われる。
だが、隕石テロは全ての海上交易ルートを、直撃や津波により消滅させてしまった。600年経った今では、イルとフル(これには東の小王国を含む)の海上交易路は、テロ以前の水準に遠く及ばないものの、水上交通路として機能していた。
だが、東部に比べて西部海域で起きた隕石テロは、ここでも地形や海流の変化による海の難所を数多く造り出していた。そして異常な事に、自然災害と言うべき難所だけではなく、人為的災害と思われる物が存在した。500年ほど前までは、明らかに攻撃と思われる方法で数知れぬ船が沈み、これが為に海上交通路は再構築されていなかった。
しかし、100年ほど前からは、エネルギーが切れたかのように原因不明の攻撃は止んだ。攻撃は止んだようだが、今でも海の難所には変わらない。その為、フルとの海上交易路とは違い、イルと中央大陸西部のクシャーナ王国やフラン王国との交易路は再構築されていなかった。現状においては、わずかに帆船による、冒険的な航海が行われているだけである。
また、隕石テロ以後のアレキ大陸と中央大陸の交流では、フラン王国の帆船によりアレキ大陸のケドニア帝国との交易が細々と行われていた。こちらは、原因不明の攻撃はなかったが、単純に1万キロに渡る海洋が有った。季節風を利用した商船の往来が出来るまでかなりの時を要した。
しかし、フラン王国はいち早く海上交易の富に気付いていた。また、意欲的な工業化により帆船から蒸気船舶に転換した事で、その権益を大きくしてようとしていた。
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古都カジュラホでも調べていたが、南イルからクシャーナ王国への安全で確実な海上ルートは今も無い様である。空飛ぶ絨毯で移動を続けるには、中央大陸山脈が立ち塞がっている。唯一、残されていた帰還路は、徒歩によるものである。それは隊商と共に、険しい山を超えてクシャーナ王国に行くものだった。
これから目指すのは、カジュラホから350キロ西南西にある国境の町クマラコムである。そこからは隊商が、山岳回廊と呼ばれる街道を使って、中央大陸山脈の反対側にあり、90キロほど離れたクシャーナ王国の国境の町アラークへと通っている。
クマラコムの町への飛行行程はおよそ320キロである。時速約40キロで8時間の予定だが、魔石を使えれば1日の飛行である。しかし体内魔力だけなので、2日をかけてゆっくりと行く事になる。それと魔法書がどんなものか知りたいので、早めに時間を作ってざっと読んでおくつもりだ。
今回は魔法書を読むというより、むしろ眺めるといった方が正しいだろう。内容を解釈するとか出来るとかする為では無い。とにかく思い出の指輪をはめて、ページを飛ばさないように注意して斜め読みするのだ。こうしておけば、いつでも記憶域の中から呼び起こす事が出来る。バックアップの大切さを知る者なのだ。
集められた魔道具は28個だった。動く11個は、カジュラホのアヤンさんに置いてきている。木箱に入れて持ってきたのは、魔法書5冊と魔道具が13個で、その内の4個は今も身に付けている。動く魔道具は段々と増えている。後5個でコンプリートの予定だが、最初に手に入れたスマホバッテリー型の魔道具は動きそうで動かないし、相変わらず使い方も分からない。
3個の箱を歩荷のように背負いながら城門に向かう途中では、遠くからアヤンさんがこちらに頭を下げているような光景が見た気がしたが、気のせいだったかもしれない。荷物が箱3個では、歩荷と言うにはおこがましいが、北の門から出て4時間、20キロほど離れた森の中に到着した。これから、空飛ぶ絨毯4号機の製作開始である。
自分で言いうのも何だが、習熟したのかもしれないな? 円熟の極みかな? 少し違うかー。でも、練習効果と言うか、自作を何度も経験したせいか完成度が上がっているのが分かる。だいぶんと慣れたので、製作時間も材料も効率的に使えるようになったようだ。細かな工夫をして改良していくのは、日本人気質なんだろうかなー……。
短い移動であるが、魔法書と魔道具で一箱。お土産の種で一箱。衣類と食糧等で一箱。あまり荷物を増やす訳にもいかない。いつもの飯屋でお弁当を作ってもらったので本日の昼と夕飯は大丈夫だ。翌日は、自炊なので簡単な物にする。
イル王国では、アレキ大陸のように4度の食事をする者は肉体労働をする者を除けば半々の割合のようだ。所変わればである。自炊メニューは一択である。干し肉と玉ねぎみたいなのにコメを加えて作るので、おじやみたいな物になる。豆スープとパンより好きなのは日本人だからかなー。とも思っている。
調理道具は土魔法で作った土鍋で作るのだが、こちらもこの頃、熟練工の腕前になってしまった。嘗ては、土鍋を一つ作るのにも四苦八苦したものなのだが。食事が終わった後には、土魔法で地面に穴をあけて分解して埋めてしまう。城塞ホテル内なので、クマなどの野生動物に食材や生ゴミを狙われる事も無い。エコ+安全確保である。
使う食材は、噛めば噛むほど良い味がすると言う干し肉である。これでほぼ味が決まる。市場では、ほどほどにやわらかくて脂肪の多い物と、まるでカツオ節かと思えるようなカチンカチンだが、長期間保つ2種が売られている。好みで言えば柔らか系であるが、いずれも旅行者の必需品である。
市場で、ごく普通に食材として売っていた物は、干した物なら肉、果実、穀類、豆、チーズ、虫は好みになるが等々である。調理法には塩漬け以外にも色々あり、燻製、醸造、酢漬け、オイル漬け、蜂蜜漬け、酒漬け・煮詰めた佃煮。ただ海から遠い地帯だけに、魚や海老などの海産物は珍しく高価でもある。
当初、エミリーが狩ったシカの味付けは塩のみであった。イリア王国では、ケドニア帝国と交易が発展したので、最近になってコショウを少しだけ使えるようになった。やはり、香辛料があると旨味が増す。普通の人々も高価なコショウを使う事を覚えてしまった。これは贅沢なのだろうか? と思う。
それはともかく、無添加で体に悪いと言われる保存や着色料は一切入っていない。これは確かに良いのだろうが、時々日本に有った体に悪いと言われる物が無性に食べたくなるのは何故だろう? 食の奥深さというか、業と言う物を感じる。
イルでは、多くの旅人が携帯する食材は、西部では二度焼のパン。つまり堅いビスケットが主流である。東部のフルに近い所では、焼き米を水に溶いて、即席の粥を作って食べる者が多い。いずれも炭水化物だが、タンパク質は、大豆となる様だ。
移動期間が短い旅では、肉を用意するのは贅沢であり、どちらかと言うと嗜好品となるらしい。軍隊など、あらかじめ移動する事が前提の集団では肉も当てにできるが、個人や少数の者は大豆を煎って、粉末にしたきな粉を使っている。タンパク質が豊富で、味も悪くない。確かに、日保ちするし持ち歩き出来るので重宝する。イリアより、よほど多く作られているようだ。
麦の場合は煎って粉にした香煎となる。麦や豆にコメなどは、水分が少なければ何年も前のでもOK。味は落ちるが食べれる。旅をするのは軍人や商人、女子供、場合によっては赤子もいるのだ。いろいろな要求が有るだろう。そして、腹が減るのは皆同じである。
大きな鍋で作られるシチューは、ほっとする物である。人々は苦しい旅を一時とは言え忘れさせる暖かな時間であるに違いない。きつい旅をした時の温かい食事は、簡単な物でも旅の疲れを癒す物だからね。確かにキャンプ場で、焚火で焙られた肉やベーコンは凄く美味しかった。それは、ムンドゥスの人々も同じだろう。
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空飛ぶ絨毯を作りながら、カジュラホの町での事を考えた。アヤンさんには、本当に世話になった。マァ、領主様と言い換えてもいいけど。2人とも分かっていたとは思うんだ。だが、世の中には知らない方が良い事がある。お互い、知っていても知らないふりをしておけば、アヤンさんが何故、魔法使いを拘束しなかったかと問われても言い訳できる。
なにしろ、イルの動かなくなった魔道具を動かす事が出来る魔法使いだ。魔道具が再生利用出来るとならば、その影響は計り知れない。冒険者のヴィハーンさんが言った通り人間充電器として閉じ込められる事になったかもしれない。
そんな時に、アヤンさんが領主と名乗れば、少なくとも僕を留め置かなければならない立場になるだろう。あんなに孫たちが無事だと喜んでいたんだ。自分の身もそうだが、孫の病も治っていたようだし、命の恩人を何とか救いたかったのかもしれないな。おそらく、今回の出来事は秘密として墓場まで持っていくとしたのだろう。
前にも思ったが、情けは人の為ならずだな。魔法書は手に入れれたし、人づてに通行許可証と箱を貰う事も出来た。持って来た人によると、この通行許可証は領主保証の物であるそうだ後から知ったのだが、イリア王国とケドニア帝国での許可証のように、外交官に準じる保護規定が有ると言うとんでもない物で、言わば外交官パスポートを所持しているのに等しかった。
イル王国とクシャーナ王国の国境には、関所と名付けられた検問及び徴税の施設がある。当然、厳しい荷物検査がある。この特権で、荷物の量と数に制限があるものの、魔道具とタネを入れた箱の2個ぐらいなら王国外交関連品と言えば検査を受けなくてもよいのだ。即ち、この箱は外交行李となるのである。
残った代金だと渡された200万ルピーもありがたいと、素直に思う。なんにしても金は必要である。当然、金の使い道は決まっている。話した訳では無いが、国境の大山脈は、空飛ぶ絨毯で飛び越える事は無理と思えていたからだ。ならば、隊商に加わって山越えである。これは、無料という訳にはいかないだろう。
そして体格を考慮してくれたのか、25センチほどの装飾されたククリナイフが一本添えてある。なるほどアランさんのしそうな粋な計らいであった。町にいると全く気が付かないのだが、山岳地帯ではオオカミの群れなど野生動物はよく見られる。
この地では子ヤギや子羊はもちろん、ひと廻り大きな子ヤクも捕食動物であるオオカ ミの餌食となる。一人で野に入れば、人とて例外ではない。イル王国の西方に住む者にとって、身を護るためにもククリナイフは必需品である。
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クマラコムの町からクマラコムの町までは350キロほどと聞いている。空飛ぶ絨毯で、移動しながら雄大な自然を見ている。耕作地や緑豊かな木々は次第に少なくなり、遠く離れた街道は西のクマラコムの町に向かって延びている。川を2つ越へ、地図魔法にも有ったグワーリオル渓谷を過ぎる頃には、夏営地が見られるようになった。
クマラコムの町周辺では、ラバが80キロほどの荷を載せて行き来していると言う。ラバは高低差の激しい地形に強く高原や山岳部で用いられている。より高地での輸送にはウシ科のヤクが使われている。
このヤクは山岳回廊の主要な輸送手段である。馬より耐久性があり、ロバでは体が小さいため荷物がつめない為である。そして、ヤクは元々中央山脈の近くで生息しており、イル王国の高原地帯の伝統的な家畜でもあった。
昼食を取る為に地上の高台に舞い降りると、下の方に家畜のヤクが放牧されている。夏営地には100頭近いヤクと、その3倍は居そうな羊とヤギ。馬はわずかに20頭ぐらい居るだろうか。牧羊犬ならぬ牧ヤク犬の吠え声が聞こえ、草の匂いがしてくる。
中央山脈の最大標高は13000メートルであるという。そそり立つ山々が、進行方向に見えている。アァ、あそこへ行くんだと思う。
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ムンドゥスの一年は390日、そのうち隊商が動けるのは約半分の200日である。エローラ王朝が、山岳回廊を巡回する隊商の編成をクマラコムの町に命じてから130年。交易商らは、さまざまな商品を運び、意図せずともイル王国とクシャーナ王国の文化交流と振興する事ともなった。
中央大陸の山岳回廊とは、両側に山が迫った細く長い折れ曲がった街道である。さながら、雲上を行くような天空のトレッキングである。標高5000メートル級の山々が連なり、大自然が生み出す景観は実に素晴らしい。
回廊は総延長88キロ、クマラコムの町は海抜2000メートルにある。回廊の最高地点である峠の場所では5000メートルである。隊商は、町との標高差3000メートルを歩みを重ねて登って行く。
クマラコムの町は緯度的には高くないので、おそらく、夏でも気温は10度ぐらいではないだろうか。耕地は少なく、作物も雑穀が作られているぐらいの印象である。この町近くの中央山脈では、標高3000メートルぐらいで森林限界となる。山脈の高山地帯では自然草地が見られ、中には4000メートルの地点でも草地がある。
辺りでは、名も知らない高山植物が黄色い花を咲かせている。北側の斜面では、森林限界が南斜面よりも300メートルほど高くなっているようだ。このような所では、夏場は放牧の為に人が居るが、ここを超えれば灌木が生えているぐらいとなる。
山岳回廊は、その全区間が中央大陸山脈の山岳内にある。隊商は、イル王国側のクマラコムの町から、クシャーナ王国側のアラークの町まで、ヤクを連ねて10日あまりで進む。彼らは、雲上に広がる中央山脈の雄大な大自然や、数々の絶景ポイントを何時でも満喫する事が出来る。
だが、彼らの目は道を見続けている。移動手段は、徒歩である。それもかなりの健脚である事が望ましい。自分で歩けない者は、幼児なら人の背に、大人ならヤクに括り付けられた椅子に揺られて行く事になる。小さな難所なら数知れず、ここには一歩足を踏み外したら谷に転落すると言う4カ所の難所がある。この為、山岳回廊内は一般人のみの通行は、まず無理であった。
自然の脅威や危険から集団を守り、商品の安全や、複数の商人をまとめる指揮者。隊長の指揮のもとに隊列を組んで統一行動をする。そして、隊長が、水場や旅程、停泊などの日程を決定し、隊商の全員は隊長に従わなければならない。
東から西へ、生死を賭けた旅を繰り返す隊商の人々。美しくも厳しい大自然に挑み、時には拒まれ、壮大な山々に見下ろされて進む。
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イリア王国歴 184年11の月16日。カジュラホの町から350キロ、西南西にある国境の町クマラコムに夕方近くに着いた。標高が2000メートル上がるので、余裕を見て2日の移動時間としたのは正解だったようだ。
前回のように、森に降りて空飛ぶ絨毯4号を分解する。山がちな地形の為、人に見つからなければ、町にはかなり近づける。カジュラホの時は、街道から目を付けられたそうなので辺りに気を付けるないとね。
国境の要衝ともなっているクマラコムの町は、防御施設として第一城壁(胸壁高さ6メートル幅4メートル)と、第二城壁内(外城壁高さ20メートル幅5.5メートル)の2つを持つ。城壁の間隔は凡そ1キロで、東城門から行政区の城までは2.5キロである。やや楕円形であるが、都市の平均直径は6キロを誇る。
山地であるので堀壕等は無いが、川は近くに流れており水源として使用されている。このカーシャーン川は夏場でも、雪解け水の為に冷たく市民の喉を潤している。先に述べたように城壁はアレキ文明のものではなく、隕石テロ以後にイル王国の下で作られていた。
西城門にある関所は、国境の検問や徴税と通関事務を行う。中央大陸山頂の回廊に入るまでの2カ所に分かれており、これはクシャーナ王国も同様である。2カ所の関所の内、国内側では徴税と事務手続きを担当する施設がある。そこから2キロほど進むとイル王国兵が詰めるもう一つの関所、即ち国境検問所がある。
東城門での検査は、何処の町でも行われており一般的であると言えるが、クマラコムの町ではかなり厳しく行われている。旅行者や商人は、正式な書類が無ければクマラコムの町に入れないのだ。無ければ、ご法度の関所破りと同じ扱いになる。国際交易都市と呼ばれてはいるが、出入りは自由ではなく、イル王国の完全な管理下にある。
イル王国とクシャーナ王国との国境は、関所を通らなければ原則通過は無理である。夏場なら、関所を通らず国境を超える事は出来るかもしれない。金次第ではあるが、抜け道を使った関所破りはいる。生活道路や迂回路を使えば山道を通って行けば途中までは可能だ。国境を越えた所で、相手側の者に連絡を取れば良いし、役人へのワイロも時間をかければ出来ない訳ではない。
そんな関所破りにもシーズンがある。夏の季節。気温が高く、安定した天気が良く、なお且つ登山の経験者であり地元の道案内がいれば山越えも可能かもしれない。だが、1万3000メートル級の中央大陸山脈である。嘗て有ったとされる、山頂を迂回出来る道が通れたとしても、事実上そんな好条件は年に何回も無い。
だが、交易路が生み出す富は膨大である。わずかな荷でも、何十倍、何百倍に化けるのも珍しい事ではない。一攫千金を狙う者はいつでもいる。そのような者は、数は少ないが通行許可証を持たずに不法に国境を突破し、地元民しか知らないような迂回路を使って関所破りをしていた。
関所を破った者の処刑方法は、その者の身分や職業によって異なる。こんな所はイリア王国と同じである。イリアでは貴族ならギロチンで素早く死ねるが、イル王国では、魔法使いだと分かったら火炙りだそうである。なんで火炙りなのか分からないがマニ教教えだそうだ。火によって浄化するつもりなのだろうか? ちなみに、関所破りを手引きした者は磔だそうである。
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今回も、城門に入る列に並ぶ。隊商と、かちあったようで長い行列に並ぶ事になった。お話出来そうな人にクマラコムの話を聞く。その人によると、この城壁はイルの都市でも頑強な部類だそうである。アレキ文明の様式であるが、城壁そのものは隕石テロに作られたそうだ。
ところが、話をあれこれ聞く間も無く、意外と早く列が進んで行く。あまり、待ち時間もかからないようだ。慣れた感じで、門番の前に誘導されてしまった。
「許可書は直ぐに見せれるように……ウム。次の者。名前と目的は?」
「カトーです。帰国途中です」
「フーン。珍しい名だな。クシャーナ王国の者なのか? こっちへ来てもらおうか! 許可証は?」
「これです」
「ウン……。これは失礼いたしました。カトー様、お通り下さい。この通行許可証をお持ちの方は、列にお並び戴く必要はありません。お気をつけて」
「どうです? 友人の様な宿サヘリーです。良い宿屋ですよ」
「そうだなぁ」
「見てましたよ。その通行許可証を持っていて、お付きも無くて一人身で、その上に荷物も自分で持っているなんて」
「不思議なの?」
「長い事この仕事をやってますが、初めて見ましたよ」
「そうなのかー」
「それを持っている人は、たいてい威張っている役人か貴族と言う処です。エェ、誰にも言いません。大丈夫です。口は堅いですから。ハハハ」
「そうか、ハハハ……頼みますね。これは少ないけど、心づけ」
「すみませんねー。で、お泊りは?」
「アァ、もう夕方だし、そのサヘリーの宿に泊めてもらうよ。でも、宿泊料金は安くしてね」
「ご冗談でしょ」
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「番頭の話では、隊商を探しておいでだとか?」
「エェ、クシャーナ王国に行きたいんです」
「それはそれは。お客様は運が良かったですな。最後の隊商が、クマラコムから出発するのが、……確か11の月22日だったと思います」
「そうなんですか? じゃ、後6日ですね」
「そうですね。もうすぐ隊商も止まりますから、同行できなくなりますね」
「やはり、気候が問題なんでしょうね」
「エェ、回廊の峠道では5000メートルの高さだそうですからね」
「ヘー。凄いですね」
「それに、高度に慣れないと大変な事になりますから」
「そうなんですか」
「ですから、慣れて頂く為にですね。ふもとの町から駅馬車で来た方は、念の為にですが1日はお泊り頂くよう、お勧めしているんですよ」
「フーン」
「ここら辺は、標高2000メートル超えてますからね。息がしづらいと言う方もちょくちょくおられますよ」
「へー。なるほどねー。アァ、高山病とかいうやつですね」
「その名前は知りませんが、昔から、山に入る前には息を沢山して、トイレにも沢山行かなければならないと言われています。夜寝る前でも面倒がらず水を沢山飲んで、何度も用を足す様にとも言われてます」
「そうなんですか。良い事を聞きました」
「悪い事は申しません。山越へされるなら、装備も必要でしょうから、ゆっくりとなさった方がいいですよ」
高度順応と言うのかな、確かに空飛ぶ絨毯での飛行は、緩やかだが登りが続いていたからな。高山病か。日本では、キャンプばかりで無く、富士山の頂上に行きたいと思っていたが、直前になって行けなかった。残念だと思ったが、その時に調べた事が役に立った。
聞いた話でも水を飲んだり、風船を持って行くと良いと言われたな。確か、あの時は、3時間は5合目で休めよと書かれていたんだ。標高も高い。日が沈めば寒くなるだろうし、言われた通り装備品も要るだろうからな。明日の朝は、市場巡りかな。
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「回廊用の装備品は、売ってますか?」
「市場で買い出しされるのですか?」
「エェ、隊商を探しがてら峠越への装備品と思いまして」
「市場に行けば、年中ありますよ。装備品も処分品が出る頃ですよ。ですが、隊商はもう締め切るんじゃないでしょうか。そうなれば、出発出来なくなりますよ」
「へー。そうなんですか」
「隊商と同行契約はお済ですか?」
「まだなんです」
「終わってなければ良いんですけど、大きな隊商ほど早く締め切ります。なるべく早く、商館にいらした方がよろしいですよ」
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山に暮らすという事は、多くの困難に対峙するという事だ。人を寄せ付けない急斜面、見上げるような岩壁、植物の無い世界、激しい気温変化、どれをとっても人が好んで住む場所ではない。山岳回廊は野生の生き物さえ寄せ付けない過酷な場所でも有るのだ。
山岳回廊は経済的な価値は計り知れなかった。イルとクシャーナを繋ぐ、唯一と言っても街道である。アレキ文明では、景観を観賞する為の街道として開かれた山岳回廊は、南方の海路交易が不安定な中、計り知れないほどの経済的価値を両国にもたらしていた。
そして、この地のイルの領主は、代々多額の資金をつぎ込んで街道を維持していた。それはまたクシャーナ王国側も同じである。
クマラコムの町から延びて行く山岳回廊は、標高2000メートルから5000メートルへと徐々に高度上げて行く。晩秋には通行困難となる。道標が有っても、雪崩や天候の激変,霧,嵐,霰,雪に脅かされた。準備や装備が不十分であれば、大自然は簡単に牙を剥く。靴が悪ければ転落し、服装がそぐわなければ手足の凍傷となるのだ。
嘗てアレキ文明の造り上げた観光山岳道路は、人々の努力もあって600年の時を超えても残っていた。山崩れか風水に浸食によるものか分からないが、壊れた箇所はわずかに4カ所である。そして、そこが山岳回廊の大変な難所となっていた。
交易路として重要性が上がると隊商や旅人の為に作られたのが山小屋と待避所である。わずか87キロの山岳回廊には、4カ所の休息所と言われる山小屋と5カ所の待避所がつくられ、行き交う隊商の頼みの綱となっていた。
このサービス業とも言えるサポートは、今では無くてはならないものとなっており両国とも休息所と待避所の維持に尽力している。その山小屋等も、晩秋以降は無人となりサービスも無くなる。山岳回廊は誰一人行き交う者は無く、翌春まで厳しい冬の中に埋もれるのである。
これら山岳回廊の全てを、一括してコントロールしているのが商館である。イル王国の商館はアラークの町の外にあり、山岳回廊の出発点であり終点でもある。クシャーナ王国の商館も同様で、クマラコムの外に置かれている。各々が自国の権益と商人の保護の名の下に交易を行っている。
商館の有る場所は、7メートルの土壁によって囲まれている。城壁外に置かれているのはヤクの荷下ろしと倉庫等の商業用施設に場所が取られるからで、見かたによっては町の外にもう一つの町が有ると言ってよいだろう。
隊商や旅の者も、国境を越えて来た者は一時的にせよ、全員が商館のある場所に入る。通行許可証を持つ者以外は自由な外出は許されていない。自由な取引は許されず、商人達は互いの商館の商業取引施設を訪れて商取引を行っていた。
商館は国に都合の良い規制ばかりしていた訳では無い。倉庫に置かれた交易品は常に溢れており、しかも増加傾向にあったからである。実際、商館が有る事によって時間のかかる買付や販売、代金決済の手間が完了されている。これにより、輸送期間の短縮や調整が行われ円滑な交易が行われていた。
そればかりではなく、商館は情報も集めていた。国レベルの情報から流行りの品は何かまで、いかに商品を売り込むかも考えていた。時に変化する商品需要の把握や、文化に風土、また習俗習慣も知らねばならない。商館は通年、取引を維持する事で信用を築き、大量かつ合理的な金額での取引が行われていた。
一例を挙げれば、コショウや香料である。これらは自然の産物である為、収穫時期も違うのですぐに搬出できない。はるか南の産地から送られてくるので量は不規則でもある。このような事は他の香辛料にも言える。
クローブは3年毎に豊作となるらしく、ナツメッグとメースは同一植物の果実から採れるのだが、メースは年3回取れ、夏は多く採れ、やはり冬の収穫は少なくなる。これらの調整も行わなければならない。
また、山岳回廊は寒さの厳しい晩秋から、春の雪解けまでの季節は全ての荷動きが止まる。商談が長引けば、天候の良い季節に隊商が出せれなくなる。隊商は自然環境に左右される上に、輸送能力は限られている。
無事、隊商が到着して荷下ろしが出来ても野積みという訳にはいかない。然るべき倉庫が必要とされるし、交代要員やヤク等の補充も必要となる。荷を下ろした隊商は、すぐさま次の運送に掛かれる。隊商も無用な滞在費や経費の出費が減る事になる。これらを一括して管理運営していたのが商館であった。
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このクマラコムの町は、夏でも夕方になると冷たい風が吹く事が多く、2時間も外に居ると体が冷え切ってしまう。明日は商館に行こうと決めた。市場にも寄って日本で言う登山用品の購入する予定である。本日は、食堂での情報聞き取りを控えて早めに部屋に戻る事にした。
必要な持ち物をチェックリストに記入して、揃えるが、キャンプ用品を使っていた者にはなじみのある物が多い。ウェアと揃えたい基本装備としてはトナカイの皮で出来た靴かな。帽子に手袋。ザックと防寒具一式、忘れてはいけない雨具だが、上下別々のものが動きやすくて良い。
隊商では、毛皮の布団が使われるそうなのでインナーシュラフを探してみる。両手にポールが持てれば腰や膝の負担も減り歩きも楽になる。で、売っていると良いなと思っているのはスノーゴーグル。町で見かけた物は、普通のガラスを2枚革の眼鏡枠にはめ込んで作ってあったが、吹雪く日があると重宝すると思う。
皆の前では、水魔法を使う訳にはいかないので革の水筒。帽子と雨具兼用の防寒着はヤクの梳いた毛で作られている物が多いようだ。ザックには、魔法書と魔道具、タネも入れたいのだが、防寒具や水筒、着替え、小物などもあり入りきらないだろう。やはり、外交行李代わりの箱に入れて隊商に運んでもらうしかないようだ。
ザックなどの装備品は、お店の人に相談して選んでもらうのが早いだろう。確か、日本で前に聞いた話では、山を縦走する人は50リットルぐらいのザックが多いそうだ。僕は体格的には成人前で一回り小さいものの方が良いと思う。重いのは苦労するからな。だが、日本のようにウルトラライトの装備や道具が有る訳ではないだろう。
寒冷地の毛皮服は生活する人々は、必需品である。同じ寒冷地でもフルに近い東の地では、カビーアとアールシュさん達、毛皮猟師が狩って来た毛皮が一番とされている。日本に居た時には、一種の憧れだった山岳キャンプの用意を自分がしているとはなー。
ここ西の地では、歴史的要因でもあるのか、防寒用として放牧されたトナカイとヤクの毛皮が愛用されている。面白い事に、トナカイの毛皮は遠く離れたウダイプールにまで運ばれて加工されてもいる。肉は元より毛皮や角や蹄まで全て何かに使われている。
もちろん、帽子、上着、ズボン、長靴、手袋など、ほぼ全身を包み込むようにトナカイとヤクの毛皮で作られている。これは、トナカイとヤクの毛は内部が空洞になっている為に空気を含みやすく断熱性が高い為である。特に、長靴の底に藁やフェルトを入れるとさら断熱効果を生む。
新しい毛皮は抜け毛も多い。これは時間が経つにつれて抜ける本数が減るが、新しいうちはブラッシングする度に抜け毛の多さに目を張るぞと言われた。毛皮は意外に火に強い。野営中に焚火や炭が落ちても焦げはするものの焼け広がらず、水にも強く水を弾くので少々濡れても気にしなくとも良いが、だが、少々獣臭い気がする。
トナカイとヤクの人気は、好みも有るのだろう二分されている。ヤクはより寒い地帯で使われる物らしい。寒さを凌ぐ物としての敷物等は、その大きさからヤクの毛皮が使われる事が多いようだ。尚、獣臭いのは両者とも同じであるが……。
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クマラコムの町は、国境に近く山岳回廊を越えて行われる交易など国際都市の一面も持っている。特に商館からもたらされる品々は、異国情緒にあふれており人々を引き付ける魅力にあふれている。市場の入り口付近には、香りのよい葉を煎じた茶屋、金物屋、宝石屋、もちろん両替屋、そして香辛料、果物に野菜、肉屋がある。
肉屋でヤクの黄色い脂肪を眺めていた時、ふと振り向いた瞬間に大きな音と驚きの声が聞こえた。古くて、ろくな整備をされてない荷車は、車軸が折れる事も有る。間の悪い事に、倒れた先には丸太が積み上げられており荷車の棹が当たってクサビが外れたのだ。
反射的に重力魔法を展開して、転がりだした丸太を両手で止めた。何だろうと周りを見れば、年配の女の人が目を閉じてしゃがみ込んでいる。傍から見れば子供が丸太を押し止めたように見えたのだろう、拍手とやんやの喝采が上がった。その連れなのだろう、若い女の人が背中をさすっていた。
「ニシャ・チャウデゥリーだ。ありがとう、助かった。母共々、礼を言う」
「イエ、たいした事ないですよ。それより、ケガはありませんか?」
「無いと思います。お若い方、ありがとうございます」
「それは良かった。じゃ」
「あのー、お名前は?」
「カトーと言います。では」
普通、丸太を子供が止められる訳が無いだろう。早く、この場所から離れないと……。
「母上、カトー殿は年に似合わず中々の力持ちでしたね」
「そうですね。お礼も出来ずにお別れしてしまった」
「また、縁が有れば会えますよ。今日は買い物を止めて帰りましょう」
引き留められたが、何とか言い訳して人ごみに紛れ込む事が出来た。広大な市場の敷地だ。内には無数の店が連なり迷路のようになっている。ここまで来れば見つからないだろう。
様々な品物が並び、 その中で男たちの声が響き、その様子を眺めるだけでも面白い。残念な事、宗教的な禁忌でもあるのか、女性が売り場に立つ事は無いようだ。伝統刺繍ラーダンは素人目にも素晴らしい物と分かる。この市場に運ばれて売られ、遠く海を越えてケドニア帝国まで運ばれるそうだ。
無造作に並べられた刺繡を観ながら飲む煎じ茶は中々感慨深い物だった。子供が丸太の山崩れを止めたなどと噂になったら大変だった。女の人を助けたのは良いが、注目の的になってしまった。そっと抜け出したつもりだが、話が広まるかも知れないなー。
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「隊商の同行をお願いしたいんですけど」
「もう、締め切ってます」
宿屋で聞いたより早く、商館に入っている隊商は出発予約を終了していた。今は、直に隊商の事務所を訪ねている処だ。いつもなら、1泊10万ルピーは高いか安いか考えるまでも無く止めるだろう。だが、帰国の為には絶対に加わりたいのだ。
隊商にとっては、運賃の70万ルピーが取れるし、運ぶ物は箱が3個だけである。その上、自分の足で歩いて行くと言っているのである。子供が一人増えても良いぐらいだろうと思った。マァ、正直何とか潜り込めるだろう。と思っていた。
「悪かったな。一杯なんだ」
「来春に来な」
「悪いけど、間に合っているよ」
「あのー、物売りじゃないんですけど……」
「締め切っている、そうなんですか」
既に3カ所で断られて、後は小さな隊商が1つだけだ。ここが断られると大変だ。少しぐらいならバレても良いだろう。全力で行かないと……。
「また、来春。雪解けまで待つんだな」
「ウーン。何とかなりませんか?」
「ダメだね。可哀想だけど、素人を連れて行く余裕は無い」
「なんか、お役に立てれば良いんですよね?」
「マァ、それなら考えてやっても良いが」
「じゃ、僕。ウダイプールからの駅馬車で水魔法のスタッフとして雇われていました」
「フーン。でまかせじゃないだろうね」
「エェ、本当です。どこかにバケツはありませんか?」
人にもヤクにも水は必要だ。ヤクには我慢させても、人は無理だ。水が確保できなければ隊商は進めない。商館の運営する休憩所では、氷の様な沢の水か、凍った雪を鍋に溶かして水を作るのだが、雪集めも燃料となるマキが必要となる。よって、いつも水不足なので大いに助かるそうだ。
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「父上、同行の者の面接だそうですが、無理じゃないでしょうか?」
「マァ、待て。ニシャ」
「私のいない間に……。息の合った者達でも、難儀するかもしれないんですよ」
「確かに、今回は遅い出発になる。が、商館長が最後の荷を頼むと言ってきているんだ」
「それはそうですが」
「今回でワシは引退する。最後のご奉公だよ」
「父上は、もっとできますよ」
「マァ、それはさておき、新しい隊商員に会わせてやろう。中々役に立ちそうな少年だぞ。誰か、呼んできてくれ。まだ、荷捌き場に居るはずだ」
「カトー。参りました」
「ウン? 貴方はカトー殿か?」
「カトーで良いです。慣れているもんで」
「オ! 知り合いか?」
「エェ、話したでしょ。市場で危ない所を助けてもらったと」
「そうか、あのカトー殿だったか」
隊長との面接後、市場で知り合ったニシャがやって来た。この後はご想像の通り、和気あいあいの雰囲気で話は進み明後日には出発となる。チャウデゥリー隊商の隊長はアンシュ・チャウデゥリー。イル王国では珍しい事に女の副官ニシャ・チャウデゥリー。12人の隊員に70頭のヤクである。これに僕が加わって13人となる。このアンシュ隊は、最終の隊商であった。気候は晩秋となり、日に日に厳しさが増していた。
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商館によって、交易商人の利便性が増す為に様々な工夫がされているのは前述した。そして実際に荷を運ぶ隊商の者がいる。彼らが居なければ交易は出来ない。道に明るい彼らは人足と言うよりも山岳回廊の専門職として危険を予知し交易品を安全かつ早く届けられる存在となっていた。荒くれ者も多く、手懐けにくい隊商員だが、専門職の彼等に領主は好意的な態度を取っていた。
隊商は夏の最盛期には2日に1隊が出る。稀に、翌日に追加の1隊が出る事も有る。大きな隊はヤクが150頭にもなり、ちょっとした船の運搬量に等しい20トンほどの荷を運べた。積載量は牛、馬とも変わらず1頭で100キロであるが、ヤクは牛としても大きいので120、130キロが運べたのであった。
もちろん馬の方が早く運ぶ事が出来たが、馬は1人で4頭が手綱を引く限度であった。対して、ヤクは1人で6、7頭が扱える。ロバやラバでは寒さに負けてしまう。また、山岳道や峠などの難所があり、馬は荷崩れが発生し易かった。この為、異動速度はおよそ半分だか、悪路や寒さに強いヤクが輸送用として用いられている。ヤクにこんなに詳しくなったのには訳がある。
こんな時にウェイブ小説では良く起こる、隊員達とのトラブルや酒場での騒ぎや質の悪い者とのケンカも無く、普通の日が過ぎて行く。市場での買物も無事終了して服装もそれなりになったので、隊商の事務所に陣中見舞いをもって顔を出した。
「オヤ、カトーじゃないか。出発は明日だぞ」
「エェ、分かっています。買い物も済ませましたし、ヤクや隊商の旅が知りたくて」
「フーン。中々良い心がけだ」
「これ、後で皆さんで飲んで下さい。お酒です。どうぞ」
「そうかそうか。オイ、誰か相手してやれ。と言っても皆、忙しいか」
「ヤレヤレ、ワシが話相手になってやろう。だが、後で一杯飲ませろよ」
「ハイ、お願いします」
「雄のヤクは大きいが、鼻輪があれば問題ない。言う事を聞く」
「良いか、カトー。ヤクを投げ縄で捕まえて、鼻輪を入れるんだが。最初は尖らせた木の棒で鼻を突き刺し、3日間か4日間ぐらいかな。治るまで、そのままにしておくんだ。キズが治った頃に、今度は木を鼻輪に替えるんだ」
「今の話は飼われている奴の話だぞ。野生のはもっと大きい」
皆、ヤクについては一家言あるらしく、途中から話に加わる者が増えていた。
「ヤクは毛も使える。だいたい一頭から20キロは取れるんだ。これは羊の毛のように良い値段売れる」
「そうそう、シッポの長毛は坊さんが使う高い法具と言うのになるそうだ」
「荷を運べる。毛も使える。肉や乳も使える。皮はバッグ、手綱、あぶみも出来るし、皮は厚くて暖かいんだ」
「ヤクの乳は濃いから力が出るんだ。俺は、乳から作った酒が好きなんだ」
「酒なら、ここにあるぞ」
「飲もう、飲もう!」
「エ! 今から飲むんですか」
「なに、煎じ茶みたいなもんだよ」
「背が平なので、馬に乗るより安定しているんだ。それに、バランスを取るのが上手いんだ」
「ヤクは、山岳回廊より1000メートル上でも生きていけるんじゃ」
「牛と比べると雄のヤクは3割大きく、体重は450キロぐらいにはなるだろう。雌のヤクは200キロを少し超えるぐらいだな。ちょうど、2才の雄のヤクと同じぐらいかな」
「今の話は飼われている奴の話だぞ。野生のは、もっと大きい」
「カトー、俺の話を聞けよー……」
ヤクについては、普通の日本人よりかなり詳しくなったと思う。明日は出発なのに、中々宿に帰れそうもない。誰だ、酒なんか出した奴は……どこからともなく次々と出て来るし、飲みにケーションになってしまったじゃないか。翌朝には、暗いうちに起き出してクシャーナ王国に向けて出発するんだぞ。大丈夫なのだろうか?




