第8章
曇り空だし一応持って来ていたが、傘は要らなかったようだ。
でもこの傘は美弥子さんが弁償して買ってくれたやつだから置き忘れたりしない。おそらく高級品だ。
ただ、前の大きい傘は爺ちゃんの形見だったから、いくら高級品でも代わりにはならないが。
今は青々と稲が茂る事故現場を過ぎ、家までもう少し。ガードレールは何事もなかったように直っている。ただ左腕か、眼か、脳なのか知らないが、僕のどこかが治らないままだ。
ちょっと手鏡を出して髪型やら襟やらを直した。我ながら乙女のようだ。
平凡な住宅街。家の前に場違いな高級車が停まっている。僕は運転手のおっさんに会釈して通過、玄関の戸を開けた。傘は中に置いた。
「ただいま」
「おかえりー」
奥から母の声。それに加えて妹の声と、ひときわ高く澄んだ声の会話が聞こえた。身長の割に小さな靴がきちんと揃えてある。柏木が指摘してくれた通り、気を抜くとにやついてしまいそうだ。
いつもと同じはずの居間から漂ってくる、異常な質感。
さすがに表現が大げさな気はするが、実際に彼女と同じ空気に触れ、彼女を視界に入れてしまったら誰でも感じると思う。会えば誰もが好きになってしまう。うちの家族も全員がそうだった。
これを恋と言っていいのか?違う気もする。
本当に天使のような、人間を超えるものと対峙する気分。