第70章
また悲鳴のような声が遠くから聞こえてきて、僕は目を開けようとしたが、体が動かない。
柔らかい感触が体を包み込んでいたが、その柔らかさはとても冷たいものだった。
不意に僕の体は誰かに動かされたようで、仰向けになった僕の顔を、誰かが慌ただしく撫でている。ようやく目が開きかけたところで、顔に激しい雨が当たっていることに気づいた。
「悠一朗さん、いやっ、死なんといて、ごめんなさい、ごめんなさい、目を開けてください」
視界には美弥子さんがいた。僕を抱き上げようとしていた。
美しい顔が、髪が、服が、泥にまみれている。美弥子さんが汚れてしまうのが悔しい、と僕は思った。
やっと状況を理解できた。僕は車に撥ねられ、田んぼに突っ込んだのだった。四月の出来事。車のライトが眩しく二人を照らしている。
僕は記憶がなかったはずの時間に戻ってきたのだ。
「悠一朗さん、悠一朗さん、しっかり」美弥子さんが何度も僕の名を呼んでくれる。僕に触れてくれている。幸せだと思った。
体が芯まで冷たい。死ぬ、ってこういうことか。あれ、でもなぜ美弥子さんは僕の名前を知ってるんだ?この時、初めて会ったはずなのに。
「きゅ、きゅ、救急車っ呼びましたからね。今度は、今度は絶対絶対絶対死なせませんよ。だから悠一朗さん、目を閉じないでえ。嫌あ……」
僕の顔に触れる冷えきった手が、異常なまでに震えているのがわかる。頭が回らない。
ああ、でもわかった気がした。美弥子さんも僕と一緒なんだ。この世界は、初めてじゃなかった。
そして、きっと、僕は既に何回も死んでいたのだ。
僕は美弥子さんに伝えたい。息を吸い込み、口を開いた。雨音に負けないように。
「……美弥子、さん」
「え?今、わたしのこと」
「美弥子さん、大丈夫、だから」
「悠一朗さん?なんで、なんでわたしの名前を」
「大丈夫、泣かないで」
「え?や、雨が強くて……待ってください、もう一回」
美弥子さんの顔が僕に近づく。少し首を起こせれば唇が触れてしまいそうだ。雨と泥のせいで、綺麗な髪が頬に、おでこに張りついていた。それすら愛しかった。
僕が感覚のない左手に力を込めると、想像していたよりずっと簡単に持ち上がった。左手からは緑色が迸り光っている。泥まみれの僕の体のうち、左手だけが綺麗だと思えた。
「美弥、子、さん、ほら、見えますか」
「見えてます、光ってます。きらきらです。だから、だから死なないで」
「あなたが、好き、です」




