表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/77

第70章

 また悲鳴のような声が遠くから聞こえてきて、僕は目を開けようとしたが、体が動かない。


 柔らかい感触が体を包み込んでいたが、その柔らかさはとても冷たいものだった。


 不意に僕の体は誰かに動かされたようで、仰向けになった僕の顔を、誰かが慌ただしく撫でている。ようやく目が開きかけたところで、顔に激しい雨が当たっていることに気づいた。


「悠一朗さん、いやっ、死なんといて、ごめんなさい、ごめんなさい、目を開けてください」


 視界には美弥子さんがいた。僕を抱き上げようとしていた。


 美しい顔が、髪が、服が、泥にまみれている。美弥子さんが汚れてしまうのが悔しい、と僕は思った。


 やっと状況を理解できた。僕は車に撥ねられ、田んぼに突っ込んだのだった。四月の出来事。車のライトが眩しく二人を照らしている。


 僕は記憶がなかったはずの時間に戻ってきたのだ。


「悠一朗さん、悠一朗さん、しっかり」美弥子さんが何度も僕の名を呼んでくれる。僕に触れてくれている。幸せだと思った。


 体が芯まで冷たい。死ぬ、ってこういうことか。あれ、でもなぜ美弥子さんは僕の名前を知ってるんだ?この時、初めて会ったはずなのに。


「きゅ、きゅ、救急車っ呼びましたからね。今度は、今度は絶対絶対絶対死なせませんよ。だから悠一朗さん、目を閉じないでえ。嫌あ……」


 僕の顔に触れる冷えきった手が、異常なまでに震えているのがわかる。頭が回らない。


 ああ、でもわかった気がした。美弥子さんも僕と一緒なんだ。この世界は、初めてじゃなかった。


 そして、きっと、僕は既に何回も死んでいたのだ。


 僕は美弥子さんに伝えたい。息を吸い込み、口を開いた。雨音に負けないように。


「……美弥子、さん」

「え?今、わたしのこと」

「美弥子さん、大丈夫、だから」

「悠一朗さん?なんで、なんでわたしの名前を」

「大丈夫、泣かないで」

「え?や、雨が強くて……待ってください、もう一回」


 美弥子さんの顔が僕に近づく。少し首を起こせれば唇が触れてしまいそうだ。雨と泥のせいで、綺麗な髪が頬に、おでこに張りついていた。それすら愛しかった。


 僕が感覚のない左手に力を込めると、想像していたよりずっと簡単に持ち上がった。左手からは緑色が迸り光っている。泥まみれの僕の体のうち、左手だけが綺麗だと思えた。


「美弥、子、さん、ほら、見えますか」

「見えてます、光ってます。きらきらです。だから、だから死なないで」


「あなたが、好き、です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ