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エピローグ1

 遡る事十年前。

 これはまだーー幼女が石版を見つける前の話。








 破壊の黒き竜は霧の中にて、完全・・に冬眠していた。

 巨体を手放すように干し草の上に横たわらせて、静かな寝息を立てている。

 しかし、全身の鱗から放たれている鋭利な威圧感は、尋常ではなかった。


 例えば。

 風に舞った、竜の頭上にヒラヒラと落ちる一枚の枯葉。

 それが竜のその間合いに入った瞬間ーーヒュン!という空気を断つ音と共に、細切れの繊維へと変わる。

 竜が大きな尻尾の先を使って、枯葉を切り裂いたのだ。


 無意識の自動防衛。


 外敵から身を守るべく、竜は寝ながらにして、凄まじい破壊本能を働かせていた。




「あはーー!どこーーーっ!?」




 そんな緊張感など知る由も無い幼い声が……霧の中から聞こえた。


 盲目の少女ーーいや、幼女だ。


 幼女は両手を前に出し、フラフラとしたおぼつかない足取りで寝床へと姿を現した。

 トテテテテーーと、寝床の端っこを軽快に走る。

 つまずき、転び、また起き上がり、また走る。


「お花ーー!お花さんーー!」


 幼女は珍しい匂いをたどっていた。

 眠る竜の後ろに生えた、色とりどりの竜輪草の匂いを。


「あっ!?」


 幼女の動きがピタリと止まる。

 鼻をヒクヒクと動かして、竜の眠る方に体を向けた。


「あはーー!お花、あっちーー!」


 何の躊躇ちゅうちょをする事なく走り出した幼女が、竜の間合いに一歩を踏み込んだ。


 ーー瞬間。


 竜の長い首が幼女に向かって、高速でうねりをあげた。

 大口をこれでもかと開き、首を九十度傾け、鋭い数百の牙で地面を乱暴にズドドドドド!!と、えぐりながら幼女へ迫る。


「?」


 一方の幼女はキョトンと首をひねっていた。

 目の見えない幼女は、そのけたたましい地響きの正体がわからない。その口が閉まる直前であっても……幼女は無防備に笑っているばかりだった。


「あはー?」



 ーーガキン!!



 と、幼女を噛み千切るはずだった無数の牙は、不発に終わる。


「ふぅ……」


 白いマントを揺らして、幼女の前に舞い降りたとある人物。

 その者が両腕を左右に広げて、その鋭利な牙を受け止めていたからだ。


「これは流石の僕でも状況が理解出来ないよ。黒き竜」


 その巨大なあごを咄嗟に支えたのがーー竜人体型の治癒の神、パナケアだった。

 すぅーっと。伸ばした手からは、おびただしいほどの血が腕を伝い、パナケアの白いマントを朱色に染めていく。


「さて、どうするかな」


 パナケアの臀部から伸びた白い尻尾。

 そこにトンと、小さな衝撃を感じた。


「いたいー」


 振り返ると、幼女が頭を抑えながらペタリと地面に座り込んでいる。どうやらパナケアの尻尾に引っかかって、転んだ様子だ。


「君は何者だい?と、言いたい所だけどーー」


 力を込めて抑えていたパナケアの腕が、グシャリと肘の辺りまでへしゃげた。


「後にしようか」


 パナケアが全身から魔力を放出した。

 太陽よりも眩しく心地よい光がーー寝床を包みこむ。


 その輝きが収まった時。

 パナケアは幼女を抱いて、上空にプカプカと浮かんでいた。

 ズタボロになった両腕は、何事もなかったように見事に完治している。


「盲目の呪いか」


 パナケアが幼女の瞼に張り付いた緑の縦筋を見て言った。


「なにこれー!?」


 一方の幼女はパナケアの豊満な胸を鷲掴みにしながら、にぎにぎとおもちゃのように揉みしだいている。

 絶体絶命の窮地から助かった事など、幼女は何もわかっていない。

 パナケアももちろん幼女に礼を求める事は無かった。勝手に自分がした事だと、十分に理解している。


「これは胸だよ。子供向けに言えば、おっぱいと言うべきかな。君に分かるかい?」


「わかんない!」


 パナケアは苦笑しながら、幼女を豊満な谷間に挟んだ。

 手で触っても分からないなら、匂いで、温度で、耳で。あらゆる器官を使って分からせれば良いだけ。

 しかし、パナケアはいつの間にか、うっとりと微笑む自分の顔に気が付いた。

 そう、パナケアは雌の竜ーー母性の感情だ。


 執拗に情熱的に胸をまさぐる幼女に、パナケアは口を少し尖らせた。


「君にはもしかして……お母さんが居ないのかい?」


「いないーー!」


「そうか」


「でもおっぱい好きーー!」


「あははは。それは良かった」


 パナケアは微笑みながらも、淡々と片手を真下に向けた。

 そこには獲物を見失い、牙をガキン!ガキン!と噛み合せる寝ぼけた竜が居る。そんな竜の背中に向かってーーパナケアは精製した巨大な氷塊をいくつも叩きつけた。


「ぬぉ……なんなのだ……?」


「目が覚めたかい、黒き竜」


 竜は寝ぼけた頭を覚ますように長い首を振る。

 そして、上空に浮かぶパナケアを見上げた。


「パナケアか。また竜人の姿なんぞに成りおって。して、貴様はいつからここに居た……というより……それはなんだ?」


 目を細めた竜は、パナケアの腕の中に居る幼女を凝視した。


「貴様、人間の子が産めたのか?」


「そんな訳がないだろう。これは君が育てている人間じゃないのかい?」


「我がか?あり得ぬ話だ」


 パナケアは顎に手を置いて考えた。


「という事は迷い子か。目が見えない故に、迷いの霧を突破した。そんな所か」


「貴様に教えてもらう魔法は、欠陥が多くて困るな」


「こうでもしないと、小動物や虫すら竜の巣に入ってこれなくなる。それこそ草木が育たなくなるよ」


「ふん。それより、どうやってこの居場所を突き止めたのだ?」


「これさ」


 パナケアはコートの内側に仕舞っていた石版を、ヒラヒラと見せつけた。


「なんだそれは?」


「人間が開発した、竜を探す為の魔法を強力に改良したものさ」


「……脅威を排除する為か。くだらぬ人間の考えそうな事だ」


「そうは言っても僕には助かった。この広い世界でも、これさえあれば君の居場所や、他の竜を探す事が出来るんだから」


 パナケアがフワリと竜の鼻筋の上に着地した。

 抱かれている幼女は、初めて触る胸にまだ夢中になっている。


「おい、人間。貴様の名は何という」


「キサマー!」


 幼女は竜の方を向く事なく返事をした。


「……我を馬鹿にしているのか?」


「人間の、それも子供にムキになってどうするのさ」


「我には関係ない」


 パナケアは竜の目玉の前まで近づいて、幼女を抱え上げた。

 竜の大きな目玉には、ドアップに映った幼女の笑顔が反射している。


「おチビちゃん。君の名前は何ていうのかな?言ってごらん」


「フェミィー!!」


 目玉に向かって、幼女はニィーと白い歯を見せた。

 対して、竜は興味がなさそうに視線を逸らした。


「フェミィ。自分から聞いておいて、話を無視する悪いトカゲがいるよ?どうしようか?」


「んーー?トカゲパンチ!!」


 幼女が元気いっぱい伸ばした拳骨を、パナケアは竜の目玉にぶち当てた。


「ぬぐぅ!」


「トカゲー!トカゲー!」


 思わず仰け反り、立ち上がった竜。


「何をする!殺すぞパナケア!」


 パナケアは悪びれる様子もなく、呆れながら竜を睨んだ。


「千年も僕から逃げ回るからだ。どれだけ君を探し出すのに苦労したと思ってる。僕の発情期だって限りがあるんだ」


「我は繁殖地へは行かぬと言ったであろう」


「わかったよ。西の大陸へは行かなくて良い。だからここでーー僕が子を孕むまで交尾してもらう」


「……ならぬ」


 竜は目を泳がせながら拒否した。


「何が『ならぬ』だ。カッコつけめ。だったら竜の掟に乗っ取ってーー強制的に交尾させてもらう」


 パナケアが全身に白い魔力をまとい、竜を威嚇する。


「殺してしまうぞ」


「どっちがだい?出会った頃ならともかくーー君を押し倒せるほどには成長したはずだ」


 竜は仕方ないと言った様子で、牙の隙間からゴオオォォ……と重苦しい黒い魔力を放出した。




「めっ!なの!」



 小さくも鋭い意思を持った幼女の声。

 睨み合う両者は、びくりと肩を震わせた。


「けんかは、めーーーっなの!」


 パナケアの足元にしがみつく幼女が、頬を膨らませ怒った。


「……フェミィ。これは僕たちにとって大切なことなんだ。大人しくしてておくれ」


「いやっ!!」


 幼女はパナケアの足の間に顔をくぐらせて、さらに頬を膨らませる。


「そうか」


 パナケアが『パチン』と指を鳴らした。

 その合図で幼女は上空へと浮かび上がっていく。


「うぬ……」


 一方の竜は顔を曇らせていた。

 勢いで売り言葉を買ってしまったものの、戦いたくない理由があったのだ。

 パナケアと手合わせした事は過去に何度もある。それ自体は特に気にすることではない。

 だが、何百年と魔力を注いで作った寝床に、被害が及ぶのは得策ではなかった。


「パナケアよ。勝負に関してだが、一つ提案がある」


「なんだい?」


 竜は上空に浮かぶ幼女を見ながら言った。


「あの理解出来ぬ幼子に、言う事を聞かせた者が勝者ーーそれでどうだ?」


 珍しい竜の注文に、パナケアが顎に手をやった。

 パナケアの算段では攻撃ーー破壊力は竜に劣る。が、対応できる魔法の種類では自分の方が上。戦闘力は互角と言った所だろう。

 勝負の決め手は、どちらが先に魔力切れを起こすか。

 それに尽きた。


 パナケアは深く考える。

 懸念材料があるとするならば、ここは敵陣ーー黒き竜の寝床。長期戦になると、ここから魔力を外部補給出来る竜に若干の利があると言えなくもない。


 一方。人間への知識なら、あの鈍感な黒き竜よりも自信はある。

 加えて相手は幼女だ。雌としての圧倒的な立場が活かせるはず……だとすれば。

 ニヤリと。パナケアは妖艶な笑みを浮かべた。


「良いよ。その勝負受けて立とう」


「二言はないな?」


「癒しの竜の名に賭けて」


 こうして黒き竜と白き竜は、幼女を使った“大激戦”を開始する。

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