パナケアの苦悩
更に一ヶ月が経過した。
パナケアが住む雪山は以前と変わらず、どしゃぶりの雷雨が続いている。
そんな洞窟の入り口に、人影がプカプカと浮かびあがった。
四ヶ月ぶりにーーパナケアが外に出てきたのだ。
パナケアは竜人に戻っており、いつものように座った体勢のまま宙に浮いていた。頭上には竜らしからぬ人間用の傘をさしている。
クルクルと。真っ白な傘を回しながら、パナケアは首を垂れる竜の前にそっと降り立った。
「こううるさくっちゃ、おちおち寝てられないよ。いくら雷の竜の仕事納めだからって限度があると思わないかい?」
傘を少し上げたパナケアが、竜の瞳を優しく覗いた。
「ーー我を壊して、あの子の目を治してやって欲しい」
数ヶ月前にも聞いた悪夢にも似た台詞。
パナケアはひくりと唇を歪ませる。
「いっ、いい加減にそこから動いてくれないかな。君の魔力が大き過ぎて、避雷針代りになってるんだよ」
やんわりと、パナケアは竜を気遣いながら言った。
「ーー我を壊して、あの子の目を治してやって欲しい」
変わらない言葉。
愚直な竜の、変えることが出来ない真っ直ぐな言葉。
その固い決意に触れーーパナケアの目に涙がにじんだ。
妖艶な大人の顔が崩れ、泣きじゃくる子供のように表情がくしゃくしゃになる。
「どうして……どうして僕が君を殺さなくちゃならないんだ!僕は君が好きなんだ!愛しているんだ!こんなこと他の竜に頼めば良いじゃないか!!」
傘を投げ出し、パナケアは竜の鼻先をきつく抱きしめた。
大雨に打たれようと関係ない。この想いが、この本気が、爪の先だけでも竜の胸に届くようにとーー切なる祈りを込めて。
「我はパナケアに頼みたいのだ」
涙を流すパナケアは見た。
長い間大雨や雷に晒され続けていたというのにーーとても心穏やかな竜の眼差しを。
それは“あの日”と同じ、信頼が込められた表情だった。
******
何万年も大昔の思い出。
パナケアが竜人化すら出来ずに、まだまだ小さかった頃の話だ。
竜族の一人前の証を手に入れる為、この中央大陸に足を運んだパナケアはとある噂話を耳にする。
街も人も自然さえも壊し続ける、“破壊の黒き竜”の噂を。
パナケアは夢中になって探した。
やがて見つける破壊し尽くされた戦地。その残された大規模な瓦礫の山ーー破壊魔法の範囲にパナケアは目を疑った。
そして壊す速度や膨大な魔力と体力を知り、パナケアはまた熱く胸を焦がした。
殆どの竜が見限るこの中央大陸に、“こんなにも凄い竜が居る”のだと。
命の危険をかえりみず、与えられた使命を黙々とこなすその姿勢。黒き竜がパナケアの憧れとなるのに、時間はかからなかった。
しかし、どれだけパナケアが気張っても、その足跡は何百年と追いつく事が無かった。
だがある時ーーその背中に追いついた。
正確に言うならば、黒き竜がポツンと。戦火もとっくに静まった灰の上で、静かに待っていたのだ。
『貴様が癒しの竜か?』
『……』
パナケアは違うと、首を左右に振りかけた。
破壊と治癒。誰がどう考えても相性は最悪だ。壊したものを勝手に治していくなど、破壊の竜からすれば邪魔以外の何者でも無いだろう。
震え、縮こまり、てっきり破壊されると思っていた小さな白い竜ーーパナケアはひたすらに強く目を瞑った。
『何を怯えている?貴様は自分の役割を果たしているだけだ。胸を張れ。誇りに思え』
あまりに場違いな返答に、パナケアは目玉をぱちくりとさせた。
『貴様の名は何だ?』
『……パナケア、です』
底深い黒い瞳に怯えながら、パナケアは名乗った。
『これからも我の後ろは頼むぞ。パナケアよ』
『……どうして?破壊の竜は人も街も……竜も全部壊すんでしょ?』
ビクビクと、目を伏せながら聞く。
『何を言っている?我は摂理から外れた物、世界の未来を閉ざす物しか破壊せぬ。それに我が本気を出せば、この世から壊す物が全て無くなると言うものだ。フーハッハッハッハッ!』
破壊の黒き竜は意外と優しい……のかな?
これがパナケアの第一印象だった。
だがーー疑問はすぐに確信へと変わる。
『そう、なんだ……でも!僕は弱いし、遅いし……西の大陸のお母さんに頼んでみるよ!そうしたらすぐに治してくれーー』
竜はゆっくりと首を振る。
『我はパナケアに頼みたいのだ』
ーー信頼を託す。
竜のまっすぐな瞳からそういった想いが伝わり、パナケアの心の真ん中を貫いた。
「……うんっ!」
こくりと頷きを返した黒き竜は、颯爽と黒い翼を広げて次の戦地に向かった。
いつまでも。
パナケアはその一匹の大きな竜の背中を見つめ続けた。
これが白き竜と黒き竜の、初めての出会い。
それからパナケアは肩を並べるべく、必死に研鑽を重ねながら五千年も黒き竜の跡を追い続けたのだ。
******
その光景は今でもパナケアの大切な場所に焼き付いている。
目を閉じればいつだって、あの真っ直ぐな瞳と、大きな背中が浮かび上がる。
決して消えはしない。
憧れの、自慢の、大切なーー思い出だ。
竜はその時と同じ眼差しをパナケアに向けていた。
『命を預けるほど信じている』と、瞳でそう語るのだ。
パナケアの頬に、止まない雨と止められない涙が伝う。
「君は……世界を破壊する黒き竜じゃないか……こんなの……まるで……まるでっ!!」
膝をつき、パナケアは続きの言葉を口にしなかった。出来なかった。
だから……代わりに竜が言ったのだ。パナケアの先輩である黒き竜が。
「ーーまるで創世のお伽話に出てくる、少女を助ける為の一匹の竜か」
「やめてくれっ!!!」
パナケアは拒絶するように耳をあわてて塞ぐ。
一息ついた竜は優しく、諭すように語る。
「我も貴様に嘘をついた。だからパナケアに真意が伝わらなかったと思うのだ。反省している」
「何を言って……」
珍しい竜の謝罪。
パナケアは『ハッ!』と何かに気付いて、より小さくうずくまった。
「天命と言ったのは貴様を説得する故のでまかせ。あやつを助けたいと思うのは……我のわがままだ」
それ以上の言葉はダメだ!聞いてはいけない!と、パナケアの心が強く叫んだ。
「我はあの少女と触れ合いーー」
だけど、耳を塞ぐ手を通り越してーーパナケアの大好きな、憧れの、あの低い声が聞こえてしまう。
「時間を共に過ごしーー」
必死に心の中で、何度も何度も違う言葉を願ったが、
「愛を知ったのだ」
竜は優しく言い切った。
ふと、そよ風がパナケアの白い髪をまくしあげた。
それにつられて……パナケアは見てしまった。
これまで見たことが無い、竜のとても“柔らかな微笑み”を。
「我はあの少女に、フェミィに笑って欲しいのだ。空を見て、星を見て、光を見てーーそれだけを今望んでいる」
「黒き竜……」
「パナケア。我を壊してくれぬか」
「分からず屋め……君は勝手なんだよ……いつもいつも僕を振り回して……」
「パナケアよ……」
「何度でも言ってやるよ!!僕は君を愛している!今日までも!これから先も!この気持ちは未来永劫変わることはない!」
パナケアが竜の鼻先に再び抱きついた。
「……」
様々な葛藤を振り切るようにーーパナケアは泣きながら笑顔を作って言う。
「だからっ…………君の願いを叶えたい」
「恩に着る」
雷雨が吹き荒れる嵐の中。
竜は半年ぶりに、喉をグルルと鳴らした。




