刻綴三國史 48
張勲side──
──一月五日。
三日の夜に眠っている御嬢様を抱えて成都を脱出。
御嬢様は一度御休みになると滅多に起きません。
まあ、抱えているのが私でなければ起きますけど。
其処は御嬢様の私への信頼が有ればこそです。
──いいえ、其処は愛ですよね!、愛っ!。
昨日の御嬢様は一段と可愛かったですしね~。
もう、あの御嬢様の姿だけで一樽は空けられます。
まあ、流石に其処までは飲みませんけどね~。
お酒は量ではなく、飲み方・楽しみ方が大事です。
量を飲むのが凄いとか偉いみたいな風潮が有るのはどうなんでしょうね~。
世の中の真のお酒好きさん達に訊きたいものです。
それはさて置き。
私は御嬢様と船で江水を下って行きました。
孫策さん、引いては曹魏との往来は不可能ですが、一部の民間の商人に関しては許可が出ています。
何方等も、ただ益州に住んでいるだけの人達までは無慈悲に追い払ったりはしません。
勿論、それだけ検査等は厳しいんですけどね~。
今の所、何方等にも潜入が成功した者は皆無。
入る前に看破されて送り返されています。
はい、潜入してから発見されて、ではないんです。
踏み込む事さえ出来てはいのが現実なんです。
それなのに、「どうにかしろ」と言われる現場では担当者が常に頭を抱えている事でしょう。
その結果、どんどん人望も信頼も無くなってゆく。
そんな当たり前の事にでさえ気付かないんですから本当に愚かなものですよね~。
私にとっては、どうでもいい事ですけど。
ええ、興味も有りませんから。
そんな厳重な検査・監視の有る中の密航です。
普通なら、私達は即座に見付かってしまいます。
ええ、簡単に擦り抜けられる程、甘くはないので。
はっきり言って無謀中の無謀、愚中の愚です。
だから命懸けです。
遣る方も本気の本気でなければ成功もしません。
…まあ、曹魏にはバレバレかもしれませんけど。
こうして今も無事という事は見逃してくれるのだと思ってもいいのではないでしょうか?。
曹魏の方に行ったら容赦無く捕まるでしょうけど。
流石に孫策さん達の方にまで出張ってくる様な事はしないと思っています。
今も尚、劉備や北郷を放置している辺り、あっさり殺してしまうよりも上手く使うのでしょうね。
本当にね、怖い御夫婦だと思いますよ。
話を戻しまして。
私達が乗せて貰っている船は一般の商船。
ちゃんと往来の許可の有る商人の方のです。
ただ、劉備は勿論、劉表さんとも無関係な方。
私とは過去に個人的な貸しが有るだけです。
ええ、そういう事です。
私にも、それなりに伝手というのは有りますよ。
そして、奥の手というのもです。
まあ、一度しか使えないから取って置きですけど。
今が、その使い時、という訳なんです。
──とは言え、弱味を握っている様な意味でなら、こんな危ない真似はしてくれないでしょう。
私だったら、協力する振りをして孫策さん達の方に連れて行って、自分の手柄にしますよ。
つまり、その貸しというのは、それだけの事。
私にとっては、「いつか、私が困っていたら返して下さいね?」という程度でしたが。
向こうにとっては、「命に代えても、必ず」という覚悟を持ち続ける程の事だった、という訳です。
だからと言って、利用して捨てたりはしませんよ。
そんな事をすれば一番傷付くのは御嬢様ですから。
御嬢様を傷付ける様な真似は極力しません。
ええ、状況によっては、それも致し方無しです。
今回の極秘脱出大作戦の様にです。
出来る事なら御嬢様には麗羽様との御別れをさせてあげたかったですからね…。
………おっと、いけません。
つい、未練がましくなってしまいましたね。
御嬢様に心配させない為にも切り替えなくては。
………ああでも、それはそれで有りですよね。
御嬢様に心配して貰えるのは嬉しいですから。
まあ、それはそれとして。
万が一にも、失敗したら私の命で償います。
その代わりに御嬢様の助命さえ通れば、ですが。
ああ、勿論、この商船の人達の事もですよ?。
巻き添えにするつもりは有りませんから。
嘆願が通りさえすれば、死も受け入れられます。
それが全てを考え、決断した私の責任ですから。
でも、私だって死にたくは有りませんけどね~。
だから、慎重に慎重を重ねてもいます。
遣り過ぎると逆に怪しくなりますから程々にです。
「自滅しちゃいましたね~」なんて結果は冗談でも笑えませんから。
それも今の所は順調です。
昨日は建業の港に入りましたが、見付からず。
御嬢様も状況を理解して下っていましたしね。
私も自分から墓穴を掘る様な真似はしていません。
色々と気になる事は有りますが、全無視です。
それを知ろうとすれば何処かに不自然さや痕跡等が出来てしまいますからね。
今は忍ぶ事が最重要です。
そして、今朝。
無事に建業を出港する事が出来ました。
はい、取り敢えず、一安心です。
勿論、まだまだ油断は出来ませんけどね。
「此方等に居らっしゃいましたか」
「何か有りましたか~?」
「いいえ、これと言った問題は有りません
この先の確認を、と思いまして」
「あ~…そうでしたね~」
件の貸しの有る商人の男性に訊かれ、思わず苦笑。
建業に入り、出港する事が出来るのか。
それが最大最重要な問題でしたからね~。
その後の事は文字通り、後回しにしていました。
確信も確証も有りませんでしたからね~。
希望的な考えばかりしていては成功はしません。
想定し、備えていればこその成功ですから。
「取り敢えず、其方等の予定通りで大丈夫です」
「それでは、このまま交趾まで、という事で」
「はい、御願いします」
簡単ですが、それで十分。
私達は飽く迄も便乗しているだけですから。
何より此方等の都合や意図で船を動かしてしまうと絶対に客観的に見た時に可笑しく見えますから。
そうなると孫策さん達に気付かれてしまいます。
こうして無事なのも潜んでいるからこそです。
無駄に目立って自分の首を絞める気は有りません。
ひっそり、こっそり、そろそろり、です。
離れていく商人の方を見送り、陸の彼方──遠くに聳える山々を見詰めます。
この商船が向かう先は交州。
最終目的地は最南端の港を有している交趾。
先ずは、其処までは行けなければ話に為りません。
──とは言え、いきなりの航海では有りません。
この商船も一年以上、交州と行き来しています。
経験と実績が有ればこそ、確実性は増しますので。
一か八かの賭けはしません。
御嬢様の命運が懸かっていますからね。
さて、此処までの私の話を聞いていたのだとすれば素朴な疑問が生じているのではないでしょうか?。
「何故、そんな事が出来たのか?」と。
私は劉備の元に来た時から準備していました。
何時でも逃げられる様に。
ええ、彼女の事を利用はしていましたが、信頼など微塵もしていませんでしたから。
それは当然の事です。
勿論、彼女が大成していたのなら。
或いは、そう成れる可能性が有ったのなら。
こうして、此処には居なかったでしょう。
その辺りは臨機応変に、ですからね。
利用価値が無くなれば、それが縁の切れ目です。
彼女の自沈に巻き込まれるのは御免なので。
その準備というのが今回の様な逃亡手段の確保。
──あ、反乱とか謀叛とかは考えていませんよ?。
彼女を排除しても無関係な後始末や責任問題ばかり残ってしまいますからね~。
はっきり言って、旨味なんて有りません。
絞りに搾って、剥いで削ぎ落とした残り滓。
それが今の益州ですから。
彼女が喰らい尽くし、荒らしまくった後の領地とか正面な思考と価値観が有れば誰も欲しがりません。
其処まで権力や地位に飢えてはいませんしね~。
実りの無い領地なんて御荷物になるだけです。
──とまあ、そういった訳でして。
私は地道に準備をしていたんです。
勿論、交趾行きの一つでは有りませんよ?。
北上して涼州──は先ず抜けられないと思うので、五胡の縄張りである東の山脈越えになりますけど。
目指すのは大宛。
今回とは違い、其方等に行く商人の方には向こうに着いてからの生活面で協力して貰うつもりでした。
ただ、時期が時期です。
益州──成都では大丈夫でしたけど、冬の山脈越えなんてしたくも有りませんし、無謀なだけです。
“たられば”でさえ考えたくも有りません。
どうなるかなんて判り切っていますから。
時期が違えば、大宛から更に西──羅馬を目指す、という可能性も有り得たんですけどね~。
まあ、流石に旅路が長過ぎて御嬢様が耐えられない可能性の方が高いでしょうけど。
追っ手の心配はしなくてもいいとは思います。
それから、今回と同様に建業まで行き、建業を発ち江水を抜けた後に北上、高句麗を目指す。
これも案としては悪くは有りません。
曹魏が北部の海賊を一掃してくれていますからね。
安心・安全な航海が可能な筈です。
ですが、進むのが曹魏の領内ですからね~…。
私達の都合で寄港無し、という訳にも行きません。
補給無しの航海は大変ですからね~。
しかし、寄港すれば即座に見付かるでしょう。
だから、高句麗に向かう事も断念。
或いは、益州の南部──南蛮の奥地を目指すという事も考えましたが、未開地過ぎて恐いので却下。
仮に、何とか奥地まで辿り着けたとしても、私達が辿り着けたのなら劉備の追っ手が辿り着く可能性も十分に有り得ますからね~。
あの執念深さと執拗な執着心を考えれば、意地でも私達を追わせるでしょうから。
逃げ場が無くなる可能性が高いと思いました。
まあ、猪々子さんが来ない限りは私と御嬢様だけは守り切り、逃げ切れるでしょうけど。
僅かでも可能性が有りますからね~…。
安易な選択肢は自殺行為にも等しいです。
──といった感じで、です。
他にも幾つかの案は有りましたが、実際に実行する可能性を踏まえて準備していたのは三つだけ。
今回のと、大宛に向かうのと──東を目指す船旅。
最後のは半ば船の上で死ぬ事も覚悟の上で、です。
今の所、陸地に辿り着けるのかは判りません。
他の選択肢が駄目だった場合の最終手段なので。
それを選ばすに済んでいるだけでもマシでしょう。
何だかんだ、条件が厳しいですからね~。
曹魏経由は危険で、絶対に実行出来ません。
時間が掛かる陸路は劉備が追わせる可能性が高く、行ける場所も限られてしまいます。
だから、船を使い、孫策さんの領地を経由する。
これが一番、確実だと思った訳です。
一応、交州は孫策さんに恭順を示してはいますが、影響力・支配力は絶対では有りません。
その為、交州に辿り着ければ道は拓ける筈です。
それから先は交趾に着いてからですね。
交州の何処かで、静かに御嬢様と暮らしていくのも悪くは有りません。
御嬢様を縛る袁家という柵も有りませんしね。
御嬢様には伸び伸びと生きて貰いたいので。
或いは、更に南下したり、南東に向かうというのも可能性の一つでは有りますね。
曹魏は勿論、孫策さん達の影響の無い場所へ。
将来的には判りませんが、今は聞きませんからね。
多分、大丈夫な筈です。
既に手が及んでいたら、その時はその時です。
別に、其処で御嬢様を支配者や権力者にしようとは思ってもいませんから。
もう、そういうのは御腹一杯なので。
まあ、先ずは兎に角、無事に辿り着く事ですね。
皮肉な話になりますが、曹魏の治める北とは違い、南は孫策さんの統治力は十分とは言えませんから。
まだまだ航海中の危険性は有ります。
自然によるものは仕方が有りませんけど。
海賊等の人為的な危険は無くなってはいません。
ですから、遭遇しない事を願うだけです。
……あれ?。
こういう事って考えない方がいいんでしたっけ?。
…………はい、もう今更ですよね~。
御嬢様の様子を見に行くとしましょうか。
──side out




