刻綴三國史 40
張飛side──
朱里を拐い、音々音と成都を離れた。
それ自体は元々、計画していた事。
──なのだけど、予定通りに行った訳ではない。
予定外も予定外だった。
普段通りに仕事である見回りを終えて詰所に戻り、食事に行こうと、何を食べようかと考えていた時、何の報せも無く音々音が遣って来た。
それも普通にではなく、姿を隠す様にして。
兵達にも見られない様に、こっそりと。
「そんな格好で、どうしたのだ?」と思わず訊いてしまうのは仕方が無い事だと思う。
だから、「隠密行動を見て察しろなのです!」とか言って怒るのは理不尽だと言いたい。
言ったら言ったで口喧嘩になるから我慢した。
そうして音々音の話を聞くと、予想していなかった不穏な動きが有るとの事。
まだ詳しくは掴めていないから気を付ける様に。
場合によっては今日の決行は中止する可能性も有るという事を話していた所に──朱里が遣って来た。
音々音と顔を見合せ、覚悟を決めた。
此処で動かなくては計画自体が潰れてしまうから。
朱里を出迎え、気を引いている隙に。
音々音は姿を隠し、無防備な朱里を背後から殴打。
音々音の力でも痛そうな音がした。
気絶した朱里を音々音と縛り、詰所を離れる。
逃げる時間を稼ぐ為には仕方が無かったとしても、兵の皆を攻撃しなくちゃいけなかったのは辛い。
勿論、遣らなくてはならない以上、中途半端な事はしなかったのだけれど。
ちょっと嫌な気分になった事は否めなかった。
そう遣って予め用意していた潜伏場所へ。
──とは言え、予定外だったから準備不足。
必要最低限の物や食料しかないのは辛い。
昼を食べ損ねた上に移動しないといけなかった為、御腹が空き過ぎて死にそう。
朱里を見張っている間に音々音が料理してくれる。
兎に角、今は早く何か食べたい。
──という我慢を終え、今は落ち着いた。
御腹一杯、とはいかないけど、今は十分。
沢山食べたいけど、無い物は仕方が無い。
此処で食料を全部食べる訳にはいかないから。
「…にしても、何で朱里が…」
「気を付かれた事に気を付かれたのだ?」
「それは考えられないのです
もし、音々音達を疑っていたのなら朱里は一人では遣って来なかった筈です
音々音は兎に角、鈴々を捕らえるつもりなら戦力は揃えていなければ無理なのです
でも、朱里は一人で来ていたのです
それを考えると、気を付かれてはいなかったのだと思った方が妥当なのです」
「にゃぁ~…つまり、早とちりしたのだ?」
「そうとも言えるのですが、朱里が一人で詰所まで鈴々を訪ねてきたのです
それなりの理由が有った筈なのです
そう考えれば結局は動かざるを得なかったのです」
「でも、御昼御飯は食べられたのだ」
「その後、囲まれたかもしれないのです
──と言うか、昼時なので鈴々なら食事に誘ったら簡単に付いてくるのです
そうすれば、捕まえるのは簡単なのです」
「………反論出来無いのだ~…」
音々音の言う通りだと思う。
怪しまれない為に普段通りにすれば、そうなる。
朱里の誘いを断れば、確実に怪しまれる。
結局、彼処で動くしかなかった、という事。
朱里の目的に関しては訊かないと判らないけど。
どんな理由だったとしても、結果は同じ。
彼処で朱里が来なくても、行動は起こした。
だから、彼是考えても仕方が無い。
「…音々音は、どうしてなのだ?」
「……唐突に何なのです?」
「何と無く気になったのだ
言いたくないなら、言わなくていいのだ」
この計画に協力してくれる音々音。
その理由までは聞いていなかった。
自分の事は音々音には話したけど。
その理由は単純。
御姉ちゃん──いや、劉備に対する不満と不信。
正直に言ってしまえば、もう一緒に居る理由が全く思い付かなくなっている。
一緒に歩んだ先にも、何も見えなくなった。
考えれば考える程、判らなくなった。
「どうして、自分は此処に居るのだ?」と。
口から溢れた、その一言が答えだった。
此処に居る理由は何も無い。
そう気付いたけど、離れる理由も無かった。
だから、何と無くで、此処に居る。
取り敢えず、御飯の心配はしなくていいから。
毎日、御腹一杯食べられる事は。
それだけで幸せなのだから。
──でも、それを捨てる理由が見付かった。
此処に居ては叶わない願いが出来た。
だから、此処から旅立つ事にした。
迷い、止めていた歩みを。
見失い、俯いたままだった眼差しを。
再び、前へと向かって。
そう話したから、音々音も同じだとは判る。
判るけど──それだけだった。
だから、訊いてみた。
嫌なら無理には訊き出そうとは思わない。
飽く迄も、話してくれるのなら、という事。
…知りたくない訳ではないけど。
「…別に大した理由ではないのです」
そう言って小さく溜め息を吐くと持っていた茶杯を手渡した後、向かい合う様に座った。
音々音に合わせ、御茶を一口。
…食後に飲む御茶は、妙に安心感が有ると思う。
「知っての通り、音々音が劉備に協力していたのは呂布殿を取り戻す為です
その為になら、手段を選ぶつもりはないです」
そう言って憚らないので知られている事。
朱里は「…他に狙いが有るのでは?」と疑っていた時期も有ったみたいだけど。
いつの間にか、その疑念は消えていた。
それ程に音々音は真っ直ぐだったから。
ただ、そういう意味では劉備と同じ。
執着する対象が違うというだけで。
二人の利害自体は一致していたから。
だから、意外に思う気持ちも有った。
朱里ではないけど、疑ってしまうのは仕方が無い。
本人が言った通り、手段を選らばないのだから。
その為に劉備を利用していたのだから。
「…ですが、それが叶わない事は判るのです
劉備とは違い、現実から目を背けてはいないのです
曹魏に勝つ事など不可能なのですから」
そう言って音々音は視線を伏せる。
御茶を飲み、一息吐く。
自分の気持ちと、改めて向き合うみたいに。
その姿を見ながら、自分も考える。
音々音と劉備の差。
現実が判っているだけでも確かに大きな違い。
もしも、劉備が音々音と同じだったなら。
まだ、義姉妹として支えようと思っただろう。
曹魏への──曹操への無意味な執着を捨てれば。
曾ての様に、人々の為に歩めるのなら。
違った未来が有ったのかもしれない。
…もう戻る事は出来無いのだけれど。
その辺りは、音々音も理解している筈。
だから、こうして袂を別つのだから。
まあ、音々音にとっては思い入れなど何も無い。
使えなくなった物を捨てる感じだと思うけど。
その事を、どうこう言おうとは思わない。
そんな事を言う権利など自分には無いのだし。
言った所で、音々音を不快にさせるだけ。
本当に何の意味も無い事なのだから。
──とか考えていると、音々音が顔を上げる。
「だから、妥協するのです
現実的な実現可能な形に向かって」
「それが協力する理由なのだ?」
「そうなのです
──と言うか、此処に居ても会う事も出来無いし、文を送る事も出来無いのです
そんな事をすれば、劉備の無駄に鋭い曹操に対する勘に引っ掛かって自分の首を絞めるだけです
そう考えると、此処に居る方が絶望的なのです
少なくとも此処以外でなら、文を送る程度だったら何の問題にも為らないのです」
そう言った音々音の顔には「うんざりなのです」と書いてある様に見えた。
…否、事実、うんざりしたんだと思う。
音々音はただ呂布に会いたいだけ。
勿論、以前は色々と過激な事を考えていたんだとは思うのだけれど。
月日が経ち、状況が変わり、改めて考えてみて。
此処に居る必要性が無い事に気付いた。
望む十全ではないにしても、それで構わないから。
呂布に会いたい。
ただそれだけなんだと。
だから、少しでも自分の願いが叶えられる様に。
その可能性を求める。
それが、だから、少しでも自分の願いが叶えられる様に。
それが音々音が協力してくれる理由。
「…尤も、孫策の下に降ったとしても、直ぐに直ぐ会わせて貰えるとは思ってはいないのです」
「そうなのだ?」
「どんな理由だろうと、劉備に協力し、曹魏と敵対していた事実は間違い無い事なのです
そんな者を迎え入れても厚遇は出来無いのです
孫策達からすると本当は曹魏を敵に回す様な火種は要らないのですから」
「それなのに行くのだ?」
「此処に居るよりかは可能性が有るのです
…曹魏で一緒に暮らす事は不可能、好きな時に会うという事も出来無いです
それでも、此処に居るよりも会い易くなるのです
皆無か、僅かか
大差が無い様に思えも、天地程の差が有るのです」
実現不可能な理想より、実現可能な妥協点。
成る程、とても軍師らしい考え方だと思う。
そして、その現実的な思考と判断の可否が、二人の決定的な違いなのだと。
…別に劉備に対する未練など無いのだけれど。
「どの道、呂布殿に会う事は自力では不可能です
曹魏に忍び込もうとしても捕まって終わり
最後に呂布殿に会いたい、或いは、呂布殿の手にて終わらせて欲しいと願っても無理です
何故なら、降った曹魏の中でも、それだけの地位に呂布殿は居るからのです」
「確か、董卓も居るのだ」
「──なので、尚更に孫策達は慎重になるのです
ぇ──賈駆が二人の立場を悪くする様な真似をする訳が無いのです」
「音々音と同じなのだ」
「そうなのです
だから、先ずは孫策達の信頼を得るのです
鈴々にしても同じなのです
関羽に会う為には必要不可欠な事なのです」
そう、もう一度、関羽に会いたい。
だから、此処を離れ、孫策の下に行くと決めた。
音々音と違って、一人で行けなくはない。
ただ、音々音と同じで会えないとも思う。
それが想像出来るからこそ。
どうすれば、ちゃんと会えるのかを考えた。
考えた結果、離反しかなかった。
…一応、「劉備の首級を手土産にして」という案も話をする中では出て来た。
出てたけど──即、却下。
そんな真似をしても会える気がしないから。
寧ろ、そんな野蛮な真似をする輩に会わせる様なら曹操は劉備に敗けていると思う。
そうではないから、曹操は君臨しているのだから。
「それで朱里の事はどうするのだ?
御飯抜きのままでいいのだ?」
「それは………もう少ししてから考えるです
食べさせない、という訳にはいかないですが、今は朱里も抵抗するだけの元気が有るのです
気絶させていただけなので、まだ体力も有るのです
余計な事を考えたり、したりしようと出来無い様になってからでも問題は無いのです
鈴々も時々確認する程度で近付かないのです
あんな状況でも、どうにかしようと考えるのが軍師という者なのです」
「判ったのだ」
そう言うと茶杯を持って洗いに行く音々音。
何だかんだ言っていても、朱里の事を一番評価し、理解しているのも音々音だと思う。
軍将とは根っ子からして違う。
そう思わされるから。
「……ん?…………あ、雨なのだ」
不意に聞こえた物音。
警戒しつつ、そっと外の様子を見に行けば、宵闇の空に浮かぶ月の明かりを反射して光る雨粒。
見上げれば、夕暮れは晴れていた空を覆う雨雲。
月が隠れ、雨が降る。
息を潜めるには丁度良い。
闇夜と雨音に紛れて移動するには最高。
「音々音に伝えるのだ」
どうするのかは音々音に任せる。
その判断に従い、出来る事を全力で遣る。
御互いに実力を信頼していればこそ。
それを疑う真似はしない。
──side out