曹奏四季日々 30
黄忠side──
──十二月四日。
孫策殿が雷華様の侍女奉公を始められて早十日。
最初は不慣れな事ですし、ある意味では敵地の為、とても緊張されていました。
彼女自身を、或いは彼女の話を知っている者なら、意外だと思うかもしれませんね。
その中には私自身も含まれていましたから。
それでも、雷華様が認める順応力は流石です。
三日も経てば、侍女姿も様に成っていますから。
勿論、仕事の出来は別にしてです。
其処まで器用であれば、あんなにも蓮華が気苦労な性格には成っていなかったと思いますから。
その蓮華も、孫策殿に負けず劣らずに緊張。
既に他家に嫁ぎ、自家を興している身ですが。
それでも、姉妹は姉妹、という事なのでしょう。
暫くの間、不審者同然の蓮華の姿が有りました。
尤も、誰も咎めもせず放置していましたが。
その辺りは雷華様の御意向が絡んでいればこそ。
そうでなければ流石に誰かが注意する事なので。
それに気付かない程度には。
彼女も一杯一杯だったという事です。
ただ、私達から見ると微笑ましい姉妹の関係。
無駄に揶揄う様な不粋な真似はしていません。
温かく見守っているだけです。
さて、そんな孫策殿の存在なのですが。
私達にも無関係という訳では有りません。
恐らくは、それも含めた上での雷華様の決定。
ある意味、穏やかだからこそ投じられた一石。
今回の件は表向きには雷華様による孫策殿の教育。
それは間違いでは有りませんし、確かな事です。
その一方で、蓮華の為、という一面も有ります。
此方等は気付いた者も、それなりに居ます。
そして、もう一つの隠された意図。
それは表向きの理由に付随する副次効果。
当然ですが、雷華様が孫策殿に教えていらっしゃる内容というのは私達にとっては既知の事です。
ですから、時には必要な助力や振りも可能。
そうでなければ、事前に打ち合わせがないと流石に即応する事は難しいです。
…そう遣って何れだけ試されてきた事でしょう。
そういう意味では、身に染みています。
話を戻しましょう。
雷華様の教えは私達の血肉と成っています。
それはつまり、当たり前な訳です。
──ですが、其処に意識の落とし穴が生じます。
私達は勿論、孫策殿も大人です。
ある程度の知識や社会常識が有り、混迷する時代を生き抜いてきた経験も有ります。
それらが有ればこそ。
雷華様の教えというのは強く心に響きます。
しかし、これから生まれてくる子供達は勿論の事、まだ五歳にも満たない子供達にとっては、前提条件となる世の中の話の多くが実感を伴わない事。
本の一握りの者は理解出来るかもしれませんが。
それは全体で見れば極めて稀な存在になります。
そんな次世代の子供達への教導は大きな課題です。
特に、私達が学んだ遣り方の大半が、前提からして次世代の子供達とは違ってくる訳ですから。
その辺りを失念した教育方法は一種の社会弊害だと言わざるを得ません。
勿論、全てが全て、という訳では有りません。
例えば、“天の国”では体罰が社会問題だとか。
ええ、その言葉だけを聞けば、頷ける話です。
しかし、本来、子供に対する躾というのは重要で。
如何に幼少期に正しい社会性を養うか。
その一端を痛みが担う事は否定出来ません。
他者を思い遣る気持ちを育む為には。
先ずは本人自身が痛みや苦しみ、嫌な事を経験して知らなくては抑の前提条件が成立しません。
それを、「子供を守る為に」という間違った解釈で大義名分を掲げる愚かな大人達には、社会の、人の本質という物が何も理解出来てはいません。
痛みや苦しみを知らない子供達が、他者を思い遣る意識を如何にして理解するのか。
寧ろ、そういう子供達は自分の事しか考えないで、他者を平気で傷付けたり、貶めたりする大人に為る可能性の方が高くなると想像出来無いのか。
少なくとも私は雷華様から、その話を御聞きして、そう思ってしまいました。
ただ、同時に理解もしています。
その大人達自身も、そう遣って間違った社会意識を植え付けられた被害者なのだと。
だから、正しく修正する事も出来無い。
自らに欠陥が有る事にすら気付かないのだから。
言うまでも無い事ですが。
行き過ぎた体罰は暴力でしか有りません。
そして、意味の無い指導は教育ですら有りません。
暴力問題は子供に限った話では有りません。
そんな事を議論する社会こそが間違いなのです。
その様な問題が定義されている時点で、社会全体が既に歪み過ぎて基準が狂ってしまっている。
そんな単純な事にさえ気付かない程に。
その社会は根幹から異常なのです。
──とは言え、そう言えるのも客観的な立場にいるからこそだという事は判っています。
所詮、その社会問題も私達には他人事ですから。
ですが、だからこそ学ぶ事も出来ます。
その様な社会にしたくはないからこそ。
その問題を軽んじる事はしません。
そして、これこそが雷華様の意図する所なのです。
“天の国”の話を知る者は限られています。
しかし、その全てが曹魏の未来を担う礎を築く者。
同時に、雷華様との子を成し、民を導く立場。
──であればこそ、雷華様は経験を促します。
孫策殿という見本を目の前に置く事で。
私達に今一度、自分達と次世代の子供達の置かれる立場や環境の違いを再認識させる。
その上で、向き合う事の重要さを示す。
指導や教育は押し付けではない。
指し導き、教え育む。
しかし、それは答えを示すのではない。
考える力を養い、鍛える事だと。
そうする事で他者を思い遣る気持ちが生まれる。
相手の事を、誰かの事を、思い遣れる。
その意識を持った人に成れる様に。
私達が示さなくてはならない事が何なのかを。
雷華様は気付かせて下さっている訳です。
「全く以て恥ずかしい話だ…」
そう言って溜め息を吐く冥琳。
共に雷華様との子供を身籠っている身ですが。
雷華様の教導は不意打ちです。
…まあ、それも今更な訳ですけど。
少し気落ちしている冥琳の気持ちは判ります。
気付いても誰かに話す訳には行きません。
自分で気付かなくては意味が有りませんから。
ですから、私も冥琳が気付いたから話せる訳で。
それまでは見守っている事しか出来ませんでした。
そして、その忍耐力の大切さを実感します。
ええ、子供達に直ぐに答えを教えたくなってしまう気持ちを抑え、見守る事。
その予行演習を経験する訳なので。
雷華様の抜け目の無さには感服します。
そして、軍将よりも軍師に効果覿面。
軍将の方が偏りや固定観念が強そうですけど。
疾うに雷華様に粉々に砕かれていますから。
結果、逆に意外と柔軟だったりします。
…まあ、厳しさ等は個人個人の性格に由りますが。
其れと此れとは別ですから。
遣り方という意味にはなりますが。
武に関して言えば、状況を想定した訓練等。
指導する際に具体性を持たせる事で解決します。
ただ、素振りを遣り続ける、走り込みをする等。
基礎鍛練は必要ですが、過剰にしても逆効果となる遣り方はしないだけでも違ってきます。
しかし、智に関して言えば、意外と難しいもの。
単純に知識を覚えているだけでは不十分。
その知識を活かしてこそ、知恵と至る訳なので。
その点を如何にして導くのかが問われます。
そういった意味でも軍師陣は大変なのですが。
問題は、彼女達が培ってきた知恵は飽く迄も戦乱の時代を生き抜く上での知恵だという事です。
武は多少の用途や必要性が変わっても本質は同じ。
基本的には殺人術であり、狩猟術。
それを如何様に用いるか、という問題ですから。
技術的な指導に大差は無く、差が生じるのは社会に合わせた常識や道徳心の部分です。
対して、智の場合、その活用する方向性が根幹。
そういう意味では時代の違いは大きな違いです。
ですから、冥琳達は色々と考え、悩んでいます。
勿論、雷華様・華琳様の方針は有ります。
御二人は狭間の世代を重要視されています。
戦乱の時代から平和な社会へ。
その変化の時を、ある程度の年齢になっていれば、理解しながら成長する事になる子供達。
この世代こそが、私達の子供達にとっては価値観の架け橋となる存在となります。
最前線を知らなくても構いません。
実際に戦乱の時代を経験し、生きてきた事。
それ自体が一つの財産であり、特別な付加価値。
私達の様に大人となって経験した立場ではなく。
飽く迄も子供の時に経験している事が重要です。
無力であればこそ。
無知であればこそ。
ある意味では、純粋な弱者だからこそ。
その経験に基づく思考や感情は説得力を持ちます。
それは私達には無い物です。
そして、それこそが世代の溝を埋める鍵。
そういった理由から、その子供達は重要な訳です。
──とは言うものの、それだけでは足りません。
当然ですが、その先の平和な時代を担う為の知恵は次世代が自ら培って積み上げて築くもの。
私達が親として、先人として教えられる事は実際は限られていますし、過去の物になります。
そういう意味では固め過ぎは厳禁です。
飽く迄も、私達が教える事は基礎なのです。
其処を間違ってしまうと大変な事になります。
それこそ、“天の国”の社会問題の様にです。
そして、そう遣って考えてみる事で判ります。
如何に子供への教育が社会として重要なのかが。
教育とは単純な基礎作りでは有りません。
その教育如何で後々の社会の在り方が決まります。
その子供達が子供の時には問題には為らずとも。
軈て、子供達が成長した時に表面化します。
ですが、その時になって解決しようとしても手遅れであり、不可能に近い事。
それこそ、思い切って老害の全処分でもしない限り根本的な解決には繋がりませんし、結局、影響下に有る若い世代自体も同じな訳ですから。
本当の意味で修正する為には、影響を受けていない子供達以外を排除して世界規模で遣り直す。
其処まで遣らなければ、解決はしません。
文明や文化の消失や衰退等些事です。
歪んだ社会を正す為には。
「………気持ちは判るが、現実的ではないな」
「ええ、その子供達が生き残れないでしょうから」
「仮に、一握りの大人が育て役となったとしても、同じ事の繰り返しになる可能性が高いだろうな」
「人の業、或いは、人の社会性の本質、ですか…」
「結局の所、其処までを管理する必要が有る
だが、現実的な話、それを誰が担うのか、だ
雷華様や華琳様の様な人物が百年毎に生まれるなら世の中は正しく在り続けられるだろうがな」
「それは他力本願でしか有りませんからね」
「ああ、それでは人は考える必要など無くなる
ただ、言われた事を忠実に熟すだけになる
確か…機械生命と言うのだったか?
人が不要となった世界は乱れはしないのだろうが、その存在が人の様に歪まない保証は無い
結局の所、社会というのは歪むものだ」
「それは軍師の言葉としてはどうなの?」
「軍師だからこそ、そう思うものだ
ある意味では、戦乱の世が続く方が楽だ
世の中の判断基準が明確だからな
そういう意味では、雷華様が統一を避けられている理由というのも頷ける事だ
人は平和を維持し続けるには欲深過ぎる」
そう言って空を仰ぐ冥琳。
歴史を紐解けば、それは人の戦いと罪の足跡。
しかし、冥琳の言う様に戦乱の世の方が人の在り方というのは判り易い事も否定は出来ません。
世の全てが弱肉強食の下に在るのなら。
こういった社会問題に悩む必要は無いのですから。
何とも言えない人の世の難しさ、という事ですね。
──side out




