刻綴三國史 36
趙雲side──
──十一月十三日。
あれから早いもので三ヶ月が過ぎた。
頭のイカれた劉備も少しは冷静になり、今の状況を鑑みて己が考えを改める──かと思っていたが。
そんな様子は微塵も窺えないのが現実だ。
相変わらず──いや、以前よりも更に曹操に対する執着心は増していると言える。
そんな劉備は勿論、頭痛の種なのだが。
それと同じ位に北郷の奴も鬱陶しい。
顔を合わせる度に邪な視線を向けられるからな。
何度、切り落として遣ろうと思った事か。
…流石に本当に遣ってしまっては大騒ぎだからな。
何だかんだで、その北郷の節操の無さが劉備を始め問題の有る連中を大人しくさせている楔だ。
だから、役に立っている内は見逃してやる。
それが、役に立たなくなれば──二度と使えぬ様にしてやるだけだ。
「………ふぅ……いかんな、こんな下らぬ事ばかり考えてしまうとはな…」
思わず立ち止まり、空を見上げる。
溜め息に続き、出るのは自嘲の笑み。
鏡を見ずとも今の自分の表情が理解出来る。
出来てしまうから──一際、虚しくなる。
「何故、こう成ったのだ?」と。
無駄に晴れた空に問い掛けても返る答えは無い。
──いや、訊かずとも判っている。
全ては私自身の選択、その間違いなのだと。
「そういう時代だった」と言えば簡単だろう。
間違いではないし、事実、そうだったのだから。
だが、その中で違う選択をした者は多々居る。
自分と縁が有った者達が、そう成っているのだ。
私自身にも、そう成れる可能性は有った。
有ったが──私は気付けなかった。
私は自分の事を最優先に考えた。
それ自体は、間違いとは思ってはいない。
自分が活きる為に、そういう選択をした事は。
問題が有るとすれば、その後の事だろう。
結局、私は中途半端で、流されてしまった。
それが、沈む泥舟から逃げ出す機を逸する事に。
………いや、それすらも言い訳だな。
私は朱里を見捨てられないだけだ。
曾ての私の選択と同じ様に、自分の事だけを考えて逃げ出す事は今でも出来る。
そう、自分一人ならばな。
槍を棄て、只の女として小さな村で夫を持ち、子を成し育てながら、畑を耕して生きる。
そんな平凡な人生を送る選択も出来無くはない。
しかし、忘れる事は出来無いだろう。
どんなに忘れようとしても。
どんなに人並みの幸せを得られていても。
私の脳裏には常に、残した朱里の姿が浮かぶ。
決して、その姿が消える事は無いだろう。
そうなる未来が容易く想像出来るからこそ。
私一人で此処を離れるという選択は出来無い。
勿論、朱里が決意してくれれば別なのだがな。
……いや、最低限、朱里に怪しまれず、孫策の領境近くまで行く事が出来れば強行手段も使えるが…。
それが出来無いから、今もこうしている訳だ。
本当にな…人の道とは、侭ならぬものだ。
そんな思考を破棄し、気分転換に街へ向かう。
独りになり、気持ちを整理したいのなら別だろう。
だが、その逆の場合も有る。
人々の生活する騒がしさの中に紛れ込む。
そうする事で自分も、その一部であると錯覚する。
溶け込む事で、孤独さから目を逸らす。
…まあ、情けない事なのかもしれないが。
それでも、一時の心の安息を得たい。
そんな欲求に抗えないのも、人の性なのだろう。
突き詰めれば突き詰める程に、そう感じる。
人は決して独りでは在り続けられないのだと。
何も考えず、茶屋の席に座り、通りを眺める。
行き交う人々の流れを見ているのは面白い。
ぼんやりと眺めていても、ふと、誰かが気になる。
その理由は様々で、些細で、どうでもいい事で。
しかし、そんな理由だから色々な事を考える。
その勝手な憶測──妄想する事が楽しい。
そして、その思考が現実逃避になる。
そんな私の共は何も語らない。
一杯の茶と、少しの甘味。
ただ、私の小さな癒しとなってくれる。
…しかし、当たり前の様に口にしていた物だが。
今では限られた場所にしかなく、限られた者にしか口にする事が許されない贅沢な嗜好品に。
それもこれも、全ては奴等の所為で──
(──っと、やれやれ…どうにも上手く行かぬな…
こういった思考から逃れる為だと言うのに…)
手に持った茶杯の中に映る自分の顔を見て苦笑。
「やれやれ、損な役回りですな」と。
呆れながらも、揶揄う様に苦笑する私が居る。
事実、私自身が誰かに声を掛けるとするのならば、その様に言うのだろうな。
そう思うと皮肉な事にしか思えない。
この茶杯の中の自分の様に。
飲み干して終わるのなら。
幾らでも飲んでみせるのだが。
如何せん、そう簡単には現実は変わらない。
だからこそ、苦悩しなくてはならない。
諦めてしまう事は簡単だ。
だが、諦めてしまえば、それで潰えてしまう。
今までの全てが無意味な事に為ってしまう。
勿論、全ての事が、そういう訳ではないのだが。
少なくとも、私の場合には、そう為ってしまう。
本当に…厄介な事だ。
「………ん?、アレは…」
一息吐き、意識を切り替えた矢先だった。
通りに向けた眼が、何と無く空を仰いだ。
街の家々の屋根の上。
正確には、その先──景色の奥に有る高台。
其処に、有る筈の無い色を見付けてしまった。
茶屋を出て、其処に向かう。
別に放って置いても構わないのだが。
何と無く、気になった。
…我ながら「暇な奴だ」と思わずには居られない。
或いは、「御人好しだな」と。
目的地に着けば、高台の草原に埋もれる様に寝転ぶ小さな人影を見付ける。
此方等に気付いているだろうに。
反応もしないとはな。
……いや、許されているからか。
「南部は暖かいとは言え、時期が時期だ
こんな場所で昼寝をしては風邪を引くぞ?」
「鈴々、風邪を引いた事が無いのだ」
「…そうか」
「何とやらは風邪を引かぬらしいな」と。
普段なら挑発する様な事を言い、揶揄うのだが。
そんな気分には為れなかった。
──と言うか、当の鈴々に元気が無かった。
「饅頭が有るが食うか?」
「食べるのだ」
即答はしているが……やはり、元気は無いか。
まあ、食欲が無い訳ではないから一安心だな。
食い気の無い鈴々ならば間違い無く重症だからな。
そういった意味でも、私の手から饅頭の入っている笹の葉の包みを受け取って開いているから大丈夫。
少なくとも、まだ手の打てる範疇だろう。
身を起こした鈴々の隣に静かに腰を下ろす。
横目に見る鈴々の雰囲気は普段と同じ様に思う。
だが、違和感が有る事は否めない。
…まあ、だから、こうしている訳だがな。
「今日の巡回は終わったのか?」
「…んっ、ちゃちゃっと終わったのだ」
「ちゃちゃっとか」
「毎日毎日同じ事ばっかりで飽きたのだ」
「しかし、巡回も民の為には必要な仕事だぞ」
「それは判ってるのだ………でも…」
「でも?」
「何だか、全然楽しくないのだ…」
「仕事とは、そういうものだ」と。
そう思わず言い掛けて、どうにか飲み込んだ。
鈴々が言っているのは、そういう事ではない。
鈴々の表情を見れば、そんな事は直ぐに判る。
昔の──まだ幽州に居た頃の鈴々だったならば。
その言葉を躊躇無く打付けていただろう。
私が嫌われる事になろうとも。
そうする事が、鈴々には必要だからだ。
そんな嫌われ役ならば、嫌ではないからな。
だが、今の鈴々は理解している。
自分の仕事が民の為には必要不可欠な事だと。
しかし、それでも。
鈴々は、「楽しくない」と口にした。
その真意は、仕事が、ではない。
今の生き方が、だ。
そして、それは──私自身にも言える事だ。
ある意味、鈴々の素直さが羨ましくもある。
…私が愚痴れる相手は知れているからな。
饅頭を食べ掛けのまま、手に持って見詰める鈴々。
その様子には、どう声を掛けるべきか悩む。
何故なら、私自身が何と言われたいのか。
それを理解出来るからこそ、口には出来無い。
口にしては──為らない事だからだ。
「………あの時、関羽は鈴々に「どうしたい?」と訊いてきたのだ
でも、鈴々は答えられなかったのだ…」
鈴々の言う“あの時”とは私も戦った時だろう。
一足先に私は脱落してしまった為、後で二人の間にどの様な会話が有ったのかは判らない。
軽々しく訊く気にはなれなかったが……そうか。
彼奴は鈴々にそんな事をな…。
…やはり、離れていても義姉妹という事か。
或いは、その行く末を案じて、かもしれぬな。
関羽にとって劉備は眼中には無いだろう。
寧ろ、その側に居るから鈴々が心配、か…。
「だけど、今は少しだけ思うのだ
此処は鈴々の居たい場所じゃないのだ」
「────っ!!」
そう言い切り、街を見詰める鈴々の眼差しを見て、私は心臓を鷲掴みにされた様に感じた。
…いや、本当は私が一番判っている筈だ。
それを見ない様に、逸らし続けているだけで。
誰よりも、そうしたいのは私なのだから。
(…本当に……御主という奴は……)
目の前に鏡を置かれ、我が身を見せられる様に。
一番見たくはない物を見せられる。
そんな気分になってしまう。
それが嫌な意味ではないから──余計に困る。
しかし、そう言った鈴々も同じなのだろう。
自分の事だけを考えたなら、逃げ出せばいい。
何もかも放り出し、投げ捨てて、忘れてしまう。
そうは出来無いから、こうしている。
そう、そんな事は判っている。
それでも、今、鈴々が口にしたのは。
決して、意図が有って、という事は無い。
飽く迄も、鈴々にしてみれば、だがな。
多分、これは私に向けた問いだ。
誰からの、など考えるまでもない。
鈴々に向け、その先に居る私にも向けた。
その言葉を放った者。
しかし、もっと深くに浮かぶ巨影が在る。
その者に、そう放たせた者。
それは、この世に唯一人しか居ないのだから。
(…………覚悟を以て、決断しろ、という事か…)
見上げた空は沈み行く夕日により赤く染まる。
日が沈み、夜が訪れる。
だが、軈て再び日は上り、夜は明ける。
それは当たり前の事だ。
しかし、その日が無くなるとは何故思わない?。
単純な話だ。
そんな壮大な事に人為が及ぶ訳が無い。
人が何をしようとも、その結末には抗えない。
だから、考えもしない。
けれど、人の世の話となれば違う。
日輪を王や皇帝に見立てる事は珍しくはない。
それは人の生死と、継承を暗示しているのだが。
人が日輪と同じ存在になる事など出来はしない。
その比喩は、存在や権力を誇示する為の物。
決して、同一な訳ではない。
だとすれば、日が沈み、夜が訪れる様に。
私の、私達の意志は今、闇夜の中だ。
月明かりすらもない、真っ暗闇。
何処を歩いているのか。
何処に居るのか。
そんな単純な事さえも判らない。
だが、何も月明かりを待つ必要は無い。
人は自ら考え、創意工夫し、進路を拓いてきた。
それに倣えば、自ら火を起こし、照らす。
そうする事で、暗闇の中を進めるのだから。
迷いが無いと言えば嘘になる。
遣るしかないと思えば責任転嫁になる。
逃げる為の口実は幾らでも思い浮かぶ。
だが、それらに甘えてはならない。
これは、その決断は、私自身の意志による物。
他の誰かを理由にしてはならない。
他の誰かに押し付けてはならない。
私が背負わなくてはならない。
それこそが、私の道なのだから。
「さて、戻るとしようか」
そう鈴々に声を掛けながら立ち上がる。
見詰める街の上、夕暮れの空を飛び行く影が有る。
遠ざかり、去って行く様に。
或いは、彼方に向かって旅立つ様に。
並んで飛ぶ三羽の鳥。
その姿を、この空を、あの日の事を。
私は生涯、忘れる事は無いだろう。
──side out