刻綴三國史 33
──十月二日。
目覚めた時、腕の中に有る温もり。
その存在が堪らなく愛しく思えるのは仕方が無い。
本の少し離れていただけで、恋しくて堪らない。
他の誰かを代わりにするつもりはないし。
代わりになる事も有り得ないのだが。
“人恋しさ”とは違う。
唯一人が、この温もりが、愛しいのだから。
──という事は皆には言えない。
勿論、皆の事も愛してはいるが。
やはり、それでも特別ではある事は否めない。
そんな事を考えながら起床。
身仕度を整え、夜が明けぬ空の下を疾駆する。
昨夜は華琳との結婚記念日でした。
その為、こっそり一服盛って眠らせ。
流琉に二人を任せて一時帰宅。
華琳と二人きりの一夜を過ごした訳なんです。
それで、こうして再び向かっている訳ですが。
未明にも関わらず華琳に見送られて来ました。
「朝早いし身体が冷えるから見送りは要らない」と言ったんですけどね。
「あら、これも妻としての私の楽しみよ」と笑顔で唇を塞がれては何も言えません。
物理的に、という意味ではなくて。
いやまあ、そういう意味では間違い無いんですが。
…何を言っても無駄でしょうね。
俺としても嬉しいのは確かですし。
それを華琳にも肯定されたら尚更です。
途中、凪の所に顔を出して置こうかとも思うが。
万が一にも目撃されたら面倒なので素通り。
まあ、凪も気付いているし、判っているだろうから不満に思うという事は無い。
それなら流琉が俺を独り占めしているのに近い今の状況に対する方が不満は有るだろうからな。
頭では理解していても、心は納得出来無いものだ。
「御早う御座います、雷華様」
「御早う、流琉」
まだ孫策達は眠っている様だが、普段通りに起床し軽く鍛練を終え、朝食の準備を済ませていた流琉に出迎えられ、抱き寄せて唇を重ねる。
軽く、で済ませようかと思ったのだが。
自分の我が儘で一人で残ってくれていた流琉に対し感謝の意味も含め、少しばかり夜営地を離れる。
どうしてなのかは夫婦の秘密です。
「御早う御座います」
「ああ、御早う、どうだ、体調に問題は無いか?」
「え~と……そうですね、怠さとかは有りません」
「短期間とは言え、普段とは違う環境に居たからな
急激な環境の変化に対応し切れずに体調を崩す事は珍しくはない
少しでも違和感が有れば遠慮せずに言え
こんな所で体調を崩して後に響く方が困る
孫家の疫病対策の要は御前なんだからな」
「は、はい、気を付けます」
言外に「常に自分の立場と責任を自覚しておけ」と注意をしておく。
それを理解し、小野寺は気を引き締める。
孫策が多少体調を崩しても署名し、押印が出来れば寝込んでいても何とかなる。
しかし、今回の疫病対策の要である小野寺の場合は当分の間、忙しくなる。
だから、余計に体調管理は重要になる。
その辺りは賈駆にも伝えて置くが。
何よりも本人に自覚させておかなくてはな。
そうこうしている内に孫策への流琉の指導で朝食の用意が整い、実質的に最後の自炊を終える。
其処からは小舟で一気に川を下り、臨湘県の港に。
数日振りのジェットコースターに油断していたのか二人は港に到着した時には軽く酔っていた。
まあ、態と流琉に速度を出させたんだがな。
この数日で彼是と不馴れな情報を抱え込ませた。
だから、少々荒っぽい方法ではあったが、こうして強引に情報を篩に掛けさせ、各々の立場毎によって必要な情報だけが残る様に仕向ける。
そうする事で整理された思考が出来る様にだ。
小舟を降りた当初でこそ、二人は足取りもフラフラしていたが、凪が賈駆を連れて迎えに来た頃には、普段通りの状態に戻っていた。
その為、賈駆には気付かれてはいない。
それから賈駆の案内で対策の拠点として使っている屋敷へと到着し、一息吐く。
この屋敷に関する情報は態々言う必要も無いか。
あまり面白い話という訳でもないからな。
「それでは其方の報告から始めてくれ」
「はい、判りました
先ずは建業の方ですが、状況としては横這いです
一日に十人前後が体調不良を訴えており、発症者は出ていますが、重症化してはいません
死者も現時点では出ていませんし、発症者も順調に回復しているとの事です
大きな増加も有りませんが、減少もしていません」
「感染者が増えていないのは良い状況なんだけど、その割りに減っていないのは嬉しくないわね…」
「いや、そうでもない」
「どうしてですか?」
「発症者・感染者の極端な減少というのは、社会的危機意識の油断を招き易い
そうなるとだ、折角機能していた対策に緩みや穴が出来て逆に一気に増加・拡大する可能性が高まる
それが起き易い事なのは小野寺なら判るだろう?」
「はい、よく彼方等では聞く話でした」
「現状、社会的な疫病対策力というのは彼方に比べ低いのが事実だ
早くから力を入れてきた曹魏は別にしても、何処も知識も技術も圧倒的に劣る
疫病対策に対する意識の高い社会でさえ、急増する危険性を否めないのが疫病の厄介な所だ
だから、気の緩み程、懸念すべき事は無い
「減ってるみたいだし、もう大丈夫でしょ」という考え方をし易いのが人の集団意識だからな」
「雪蓮みたいにだね」
「ぅっ…」
俺と小野寺に言われ、自分なら間違い無く例え通り楽観視しているだろうと理解したらしく、誤魔化す様に顔を背ける孫策。
孫策の様に前向きな性格は長所でもあるが、時には楽観的な思考に傾き易いのが危うい所。
その辺りを但し、補える小野寺や賈駆の様な人物が存在している事の有無は大きな違い。
そういった意味では自分が恵まれているという事を孫策には理解して欲しいものだ。
まあ、それで思い上がったり、勘違いする様な事は心配する必要は無いだろうがな。
…多少、調子に乗る事は有るだろうがな。
「それと、発症者・感染者の急激な減少は改善した可能性も確かに考えられるが、その一方で感染源や流行範囲の移動の可能性も出てくる」
「…え?……ぁ…」
「発症・感染しても、体内に病原菌が残らず、全て死滅してくれるのなら、最悪、追い掛けっこでも、軈て根絶出来るだろう
しかし、実際には発芽病の病原菌は体内に残存する
そう簡単に変異するとは思えないが、変異をしない保証は誰にも出来無い事だ
そして、保菌していても無症状の者も少なくない
それを考えると、横這いというのは状況が安定し、状況を見渡せる可能性が出てくる
現状が見えてくる事で必要な事も判るからな
そういう意味では横這いというのは悪くはない
寧ろ、変に上下が激しい方が対処には困る
それは有効な対策を打ち出しても、従わなかったり無視している者が居る事を示しているからな
安定しているというのは広く見ればいい訳だ」
「確かに…そうですね
言われてみないと気付けませんでしたが…」
「心配するな、その辺りは小野寺の役目だ
はっきり言って、下地無しでは至難な案件だ
曹魏でも時間を掛けて築き上げた事だからな
昨日、今日、明日で、という訳には行かない
これから、何れだけ継続し続けられるかだ」
「え?……え~と…継続し続けるんですか?」
「言っただろう?、この発芽病の病原菌は残存する
つまり、完全に根絶出来無い以上は、常に変異して爆発的に感染し、猛威を振るう可能性が有る
それに対処する為には決して途切れさせる様な事は有ってはならない
もし、途切れさせれば、それまでの全てが水の泡…
何れ程の被害を出すかも判らない
それを承知で止めるのなら、覚悟する事だ
最悪の事態が起きてからでは、手遅れなのだと」
「…っ……が、頑張ります」
「ああ、頑張ってくれ
疫病対策は間違い無く民の為、社会の為になる
蔑ろにすれば必ず痛い目に遇う事になるからな」
危機意識が俺達や小野寺の域まで達していない為、どうしても対策自体が一時凌ぎな考え方になるのは仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれないが。
それでも主君である孫策が軽んじる事は危うい。
警戒して準備し過ぎるという事が無いのが疫病対策というものであり、それ程に厄介な事。
だから多少は重荷に感じようとも孫策自身に明確な危機意識を持たせておく事は大きな意味を持つ。
それが欠如してしまえば、どんな組織も機能せず、対策や予防策は瓦解するだけだからな。
孫策への意思気付けが終わった所で賈駆を見る。
身構える賈駆に視線で報告の続きを促す。
「──っ、続きまして、臨湘県の事になりますが、楽進殿に御協力して頂き調査していますが、当初の予想を外れず林業の関係者は七割が保菌しており、その家族への感染も確認されています」
「家族の方の割合は?」
「其方等は三割といった所です」
「感染源に近いからでしょうか?」
「そうだな…此処で明言する事は流石に出来無いが可能性としては高いだろうな
人への感染力は伐採後は確実に低下している
それだけは間違い無いと言えるだろう
臨湘県全体では、どんな感じだ?」
「まだ全てを把握は出来ていませんが…
この港を中心にして離れる程に保菌者は減ります
逆に港の保菌者は八割を越えています」
「「────っ!!」」
「ふむ…それで発症者は?」
「それが不思議な事に殆んど居ません」
「………え?、居ないの?」
「ええ、驚く程に少ないわ
多少は出ているけれど、それは臨湘県以外で生まれ育っている人ばかりで、地元の発症者は無いの」
賈駆の言葉を疑う訳ではないが、凪に視線を向けて確認してみれば、小さく頷き返される。
本当に発症者は出ていない様だな。
「文謙、地元の民に抗体らしき反応は?」
「私の診た所では、そういった物は…」
「…となると、単なる偶然か?
いや、流石に偶然では流せない結果だな…」
孫策が「ねえ、祐哉、“抗体”って何?」と耳元で訊いて小野寺が説明する間を使い、考える。
湘杉が人への感染経路の直前の媒介だった事から、長らく湘杉に触れてきた地元民には耐性が有った。
そう考えれば、発芽病に対する抗体が出来ていても別に可笑しな事ではない。
生まれ育った環境や仕事関係、或いは時代背景等。
そういった理由で耐性や抗体が有る事は珍しくない話だったりする。
ある世代から上、若しくは下は発症し易いが、当の該当する世代は無症状、と。
そういった事例が無い訳ではないのだから。
だが、宅でも氣の扱い方では確実に上位に入る凪が抗体として感知出来無いとなると…判らないな。
直に俺も診てはみるが…何か別の要因か?。
考えようにも情報が少ない以上、難しいか。
「此方等の調査結果は報告書にして纏めてあるから詳しくは後で読んでくれ」
「判りました」
「結果を言えば、湘杉から人へと感染していた
上流域の伐採していた範囲の湘杉には処置を施した
だから、其処からの新規感染の可能性は無い」
「有難う御座います」
「賈駆、まだ礼を言うのは早い
今回の調査で発見したのは一部かもしれない
事実、同じ湘杉でも港から上流域に有る全てが感染していたという訳ではなかったからな」
「──っ、それでは…」
「孫策達には事前に話したが、俺と文謙・士載とで一気に調査・処置しようと考えている
これから先も貿易や往来が有る以上、この発芽病の病原菌は曹魏にとっても無視は出来無い
死滅させる事は可能だが、今後も同じ様な病原菌が出て来ないとも限らないからな
ある程度の対策を確立して貰いたい
その為にも発芽病の保菌対象は人だけにする
そうする事で段階的に構築していって欲しい」
そう言うと賈駆は孫策達を見て、互いに頷き合う。
そして、孫策から正式に調査と処置を依頼される。
それを引き受け、今日は現地調査を行う。
件の地元民の診断も遣って置かなければ。
見えそうで見えない状況がもどかしい。
だが、こうして地道に一つ一つ積み上げる事でしか真実には辿り着けない。
推理と立証は似て非なる物だからな。




