刻綴三國史 30
小野寺side──
──九月三十日。
南嶺大玄蟻を探しに南嶺山脈に踏み入って二日目。
曹純様が言っていた通り昨夜は過ごし易かった。
正直、この世界に来てから一番快適な気温だった。
兎に角、南部域は暑いから。
だから、雪蓮でさえ「此処に住みたいわ…」と。
本気で言っていた位だしね。
まあ、雪蓮だから直ぐに飽きるだろうけど。
今日も夜明け前に夜営地を発ち、山を登る。
ただ、昨日とは違い、雪山を、だ。
はっきり言って、思う様には進めない。
それでも先頭を歩く曹純様の足跡を辿る事で前へと進み易くはなっているのだから文句は言えない。
本来なら、俺達が先導するべき立場なんだから。
積雪域に入ってから半刻──約一時間が経った所で少し休憩をする為に曹純様が足を止める。
二人が、ではなく、俺達の為に。
はい、本当に申し訳有りません。
…手渡された温かい御茶が身体に染みます。
「──ぁ、子和様、アレって…」
「ああ、南嶺雪兎だな」
二人の会話と視線を追い掛けると雪の中に不自然に赤い染みが有るのが目に入った。
そして、それが柔らかそうな白い毛を汚していると気付くまでに大して時間は掛からなかった。
「大変、怪我してるわっ──って、何でよ?」
雪蓮が反射的に近寄ろうと立ち上がった。
しかし、それを曹純様が無言のまま右腕で止める。
雪蓮は不満そうに曹純様を見るが、曹純様の視線は雪兎の方を向いたまま。
寧ろ、曹純様は濃い警戒を滲ませている。
「言った筈だが?、アレには気を付けろと…」
「でも、保護も大事なんでしょ?」
「自然環境の保護には“人が関わらない”といった遣り方も時には必要になる
「可哀想だから」と無闇に関われば、それによって起こるべき食物連鎖に歪みを生む事も有る
「でも、一度位なら…」と言いたくなるのが人間の感情的な言い分だが、それが既に思い違いだ
本来、その生態系──食物連鎖に人間が加わる事は不必要であり、既に循環する形を成している
だから、不用意に干渉する方が逆に悪影響を生む」
「雪蓮、一度でも人が深く関わってしまうと其処に目には見えない歪みが出来る事は避けられない
そうならない為の準備──知識や技術等を身に付け臨んでいる訳じゃないんだ
だから無闇に関わるべきじゃないよ」
「む~……判ったわよ…」
渋々だが、二人掛かりで説得すれば雪蓮も諦める。
これが捨て猫とかなら人間の責任だから、手を差し伸べて保護したりするべきなんだけど。
相手は野生動物だからね。
碌に生態も知らない俺達が手を出すべきじゃない。
何より、一番詳しい曹純様が、そう言うんだから。
此処は素直に従うべきだと思う。
「…まあ、よく見ていろ」
そう言うと曹純様は静かに屈み、右手で雪を掬って左手を重ねて素早く握る。
直径5cm程の雪玉を作ると──投擲。
怪我をしている雪兎を狙った。
「ちょっ!?、何をっ────ぇ?…」
雪蓮が声を上げるのも無理も無い事だと言える。
しかし、当の雪兎は軽々と雪玉を避けると此方等を威嚇する様に睨み付け、素早く逃げ去った。
その様子に雪蓮は勿論、俺も唖然とするしかない。
どう見ても怪我をしている感じではないのだから。
「アレは怪我など負ってはいない
そう見せていただけ、擬態だ」
「…アレが擬態、ですか?」
「外敵や獲物を騙す、という意味で言えばな
まあ、自作自演と言った方が的確だろうが」
「え~と…つまり、怪我はしていないと?」
「この辺には“南嶺雪蕀”という固有種の薔薇科の植物が自生していて、その実を使ったものだ
皮は固いが中身は油分が多く凍結しない
その為、動物達にとっては重要な餌になる
ただ、味自体はしない
人が食べても身体に害は無いが不味いだけだ
──で、その実を砕き、赤い果汁を毛に塗る
すると、じっとしていれば手負いに見える
そう遣って獲物が近寄った所を襲う」
「…通りで、狡猾で獰猛な肉食、という訳ですね」
「よく見れば判るが、雪兎が居た場所や周囲には、殆んど血痕らしき痕跡は無い
怪我をしていれば有る、当然の痕跡がだ」
「出血している訳ではないからですか…
そう考えると見た目も有って恐い相手ですね…」
そう言った所で曹純様と目が合った。
「まるで人間みたいだろ?」と。
そう言われた様な気がして納得し──苦笑。
自分が男だからか、自然と上手の女性を想像し。
「ハニートラップと同じか~…」と思った。
実際に引っ掛かった経験は無いんだけど。
抑、狙われる様な有名人でもなかったしね。
そういう意味だと、今の方が危ない立場かな。
一応、今までは極力、表には出てなかったけど。
今後は判らないしなぁ…。
そういう意味では、曹純様の警告かな。
「物事を安易に考えると痛い目に合うぞ」って。
…うん、やっぱり厳しいけど、優しい人だよね。
一緒に行動してると、そう思わずには居られない。
これが全部、演技だったら無理だね。
もう何も信じられなくなる。
それ位に、俺達の曹純様への信頼は大きい。
「それと、今のは巣立った雄だから単独だったが、子育て中の雌──母親の場合、子供を率いている
子供に狩りの仕方を教える為だ
だから、それに遭遇すると厄介だ」
「ぅわぁ…子育て中かぁ…」
「因みに、仔兎の可愛らしさは凶器と言える」
「見てみたいけど、遇いたくはないし…う~ん…」
曹純様の言葉に真剣に悩む雪蓮。
あのね、雪蓮さん?、貴女、判ってます?。
可愛いもの見たさで悩む所じゃないですよ?。
遭遇しない方が良いに決まってるじゃない。
だって、そんなに可愛いんだったら攻撃する事自体滅茶苦茶躊躇うだろうし。
でも、相手には関係無い訳だから。
当然、手加減しても空気を読んでもくれない。
だったら、回避の一択しか有りません。
──と言うか、今ので漸く理解が出来た。
詠に言っていた「退避一択」の意味が。
アレは、勝てる勝てないという意味ではなかった。
如何に疫病の原因を調査し治療方法を確立する為に必要な事だったとしても。
人間の都合で自然環境を破壊する。
そんな真似は遣っては為らないから。
だから、曹純様達は退避を選ばれる。
見ている事が、考えている事が、壮大過ぎる。
…いや、本来であれば、人類全てが当然の事だと、常識として認知しているべき事なんだけど。
人間っていう生き物は身勝手って独善的な存在だ。
だから、人類を中心に考える。
世界は決して、人間だけのものではないのに。
人間に全権が与えられているかの様に。
傲った考え方を持っていて。
それを殆んどの人々が疑いもしない。
改めて考えると、人間の社会は怖いものだと思う。
ただ、だからこそ、彼等は凄いと言える。
素直に、心から尊敬する事が出来る。
…まあ、本人達が素直に認めるかは別にしてもね。
そういう扱いを嫌う人だっていうのは判った。
だから余計に同じ男からしても格好良く思う。
奥さんである曹操様達は大変かもしれないけど。
その辺りも含めて、夫婦仲は良いんだと判る。
典韋達との遣り取りから感じられるからね。
そんなこんなで、更に二度の休憩を挟んだ後。
漸く、目的である南嶺大玄蟻の巣穴に辿り着いた。
──とは言え、雪で覆われている為、俺達には全く違いが判らないんだけど。
どの道、自分達じゃ調査も発見も出来無いんだし、細かい事は気にしない。
考えても無駄な事って有るんだから。
曹純様が「少し離れていろ」と言って一人で巣穴に近付いていったのだが。
正直、俺も雪蓮も悩ましい所だったりする。
結局、従う以外の選択肢は無いにしてもね。
巣穴の有る場所で屈み込んでいる曹純様。
多分、“原作”での氣を使っているんだろうな。
魔法って感じじゃないし。
そして、それは現在は曹魏の人達だけが使える。
別に「狡いなぁ…」とかって意味じゃなくて。
ただ単純に事実として。
だって、あの華佗が使えなく為ってるんだから。
それを考えると他の者が使えなくなるのは当然。
所謂、“徳”って意味でも華佗には劣るだろうし。
だから、彼是文句を言うのは御門違い。
──で、その氣による事なのか。
降り積もった雪の一部に穴が開き、其処から数匹の体長2~3cm程の黒い蟻が這い出して来た。
それが目的の南嶺大玄蟻なんだろう。
曹純様は躊躇無く蟻を右手で掬い上げる。
屈んだまま左手も使い、暫し蟻達を調べていた。
そして、蟻達を放し、巣穴を塞いで蟻達は消える。
ただ、曹純様の表情は険しかった。
その様子に典韋が代表して訊ねてくれる。
ちょっと俺達には話し掛ける勇気が出ません。
…良い予感もしませんしね。
「如何ですか?」
「ハズレだ、此処の南嶺大玄蟻は保菌していない」
「…つまり、別に原因が有ると?」
曹純様の言葉に思わず雪蓮が訊いていた。
「また振り出しに戻るの?」と。
俺と同じ様に不安を滲ませながら。
「いや、南嶺大玄蟻が媒体である可能性は高い
他の可能性も否定はしないが、まだ勝らない
ただ、今調べた巣の蟻達は保菌していないだけで、他の蟻達も保菌していない事には為らない
つまり、種族全体が保菌しているという訳ではない
一部だけが、何等かの要因により保菌した…
要は、彼等も感染者と考えるべきだな」
「え~と…それって、つまり…」
「全てを確認する必要が有る」
「「………………」」
曹純様の言葉に俺と雪蓮は絶句してしまう。
いや、だって、仕方が無いと思う。
如何に固有種だと言っても、その相手は蟻。
一つの巣で何百──いや、何千匹居るのか。
その予想すら難しいのに。
広大な南嶺山脈に生息する全てを調査する?。
現実離れした話に、思考が追い付かないのは当然。
──とは言え、それを俺達が遣る訳ではない。
何しろ、俺達は氣が使えない。
だから、見付ける事も、調べる事も出来無い。
それ故に、困ってしまう。
「南嶺大玄蟻は一つの群れが凡そ千~二千匹だ
しかし、互いの縄張りが重ならない様に一つ一つの巣の間隔は約一里になる」
「一里って…」
「まあ、話だけ聞けば広範囲だと思うだろうな
ただ、元々の個体数も蟻としては然程多くはないし生息域も南嶺山脈全域という訳ではないからな
決して不可能な事ではない
今日一日では難しいが…そうだな、何事も無ければ明日には全ての調査が終わるだろう」
その言葉に雪蓮は安堵しているみたいだけど…。
うん、曹純様が一言も「下山する」とは言ってない事に気付いてるのかな?、雪蓮?。
それって、寒冷地で夜営するって。
そういう意味だと思うんだけど……あ、やっぱり。
曹純様が俺を見て「正解だ」って感じで頷いた。
…それはまあ…二人が一緒だから死ぬ様な事態には為らないとは判っていますけど…。
何と言うか…精神的には厳しいのは確かです。
雪蓮は勿論、俺も雪山で夜営の経験は有りません。
そして、「何事も経験だ」って話でもない。
当然、此処での否は不可能なんですが。
気持ち的には泣きたいです。
「子和様、どの様に動かれますか?」
「時間短縮の為にも今日は手分けして行おう
二人を連れて此処から西に進みながら調査を頼む
俺は東側を済ませてから合流する
日が暮れてから動くのは危ないからな
それまでには合流する
合流予定地点は──」
二人が遣り取りしているのを聞きながら隣の雪蓮を見れば軽く現実逃避──放心している。
そう出来れば、俺も楽なんだろうけどなぁ…。
詠じゃないけど、性分的に考えないのは難しい。
「損な性格だなぁ…」で済めば簡単なんだけど。
実際には、そうして考える事こそが大切だからね。
本当、世の中って儘ならないものだよなぁ…。
…兎に角、雪蓮以上に俺は典韋の足を引っ張らない様に気を付けないと。
──side out




