刻綴三國史 17
「──くっ…はあぁーっ!」
「その意気や良し──が、足元が御留守だ」
「──ぅきゃあっ!?」
意外にも可愛い悲鳴を上げ空中で綺麗に一回転し、俺の腕に横抱きにされる格好で受け止められたのは得物である木剣を落とした夏侯惇。
悲鳴の前に小さく「ぅ」と入っている辺りが彼女が色気に欠ける部分かもしれないな。
本当に小さな事だが、それで猿みたいに聴こえて、素直に可愛いのでなく、面白可笑しくなっている。
まるで、芸人の遣るリアクションの様に。
それを差し引けば、反射的に身を強張らせていたり吃驚している表情は可愛らしいと言える。
此処に受け止めた拍子に夏侯惇の胸や御尻に触れる所謂“ラッキースケベ”な展開が加味されたなら、大抵の男は夏侯惇を異性として意識する事だろう。
まあ、そんな凡ミスは生憎と俺は遣らないが。
自力では立てない夏侯惇を、既に脱落し休んでいる孫策と華雄の側に下ろし、手拭いと水筒を置く。
此方の水筒は竹筒に水を入れただけの物だが、宅の水筒は保温機能は勿論、継続して一定に冷却出来る機能を備えた無駄に高性能な水筒だったりする。
勿論、今は持ち込んではいないが。
“影”の中には常に十本ストックされています。
空も合わせると三十本は有りますかね。
まあ、こういう所は性分ですから。
「剣術の技量は高いが基礎体術が出来ていないな
だから、剣の間合いの内外に置かれる状況に為ると途端に打つ手が無くなって脆さが露呈する
元譲の力量なら大概の相手には遅れは取らないし、気にも為らない事だろうが…
少なくとも妙才が相手では勝ち目は無いぞ」
「…はあっ、はぁっ……っ……そ、そうですか…」
乱れた呼吸を整えようとしながら返事をする姿勢に彼女の真っ直ぐさと素直さが窺える。
孫策なんか拗ねる様に睨んでいたからな。
少しは華雄や夏侯惇の謙虚さを見倣え。
自分から望んで参加した事を忘れないで欲しい。
「宅は軍将だけではなく軍師も基礎体術を修める
向き不向きや要不要に関する意見は有るだろうが、基本的には健康管理と備えの意味でだ
今の状況では、宅の軍師が襲撃される様な事は先ず有り得無い事だが…絶対と言う訳ではない
何かが起きてから後悔しない為の備えだ
──と言えば、当然の様に聞こえるだろうが…
現実的には軍師の武の鍛練など後回しの筆頭だ
文和達、孫家の軍師陣の中で武の鍛練を日課とし、欠かさずに行っている者が居るか?」
そう問えば、孫策達は少し考えて首を横に振る。
それは何も可笑しな事ではない。
決して孫家だけの話ではないのだから。
そう、基本的に軍師が、文官が武の鍛練をする事は余程の暇を持て余さない限りは有り得無い。
冥琳達とて俺が日課になる様にしていたからだ。
そうでなければ、其処までは取り組まない。
加入当時の桂花が判り易い例だと言える。
病床に伏している生活をしていた結に体力で負けるという思わず天を仰ぎたくなる現実を見たしな。
体力作り・健康管理という意味で適度に運動をする者は居ない訳ではないが、その程度までだ。
元来、軍師や文官の仕事は“頭を使う事”だとか、書き仕事だと思っている者が多い。
当事者達も、周囲の者達もだ。
だから、軍師や文官の武の力量は極端に低い。
勿論、一部には例外も確かに居るが。
基本的には「人を使う事が仕事だ」と考える傾向が顕著な為、自らを鍛える必要性を考えない。
その結果、鍛練を習慣化する事は極めて稀な事。
勿論、冥琳の様に武を嗜む者も確かには居るが。
それは圧倒的少数派だと言える。
「「鍛練を遣る余裕が無い」や「鍛練に割く時間が有るなら知識の吸収や仕事に当てる」といった事を言う可能性が高いだろうが…
勿論、その言い分も間違いだとは言わない
ただ、それは“害する相手が居なければ”の話だ
現実問題、御前達には少なからず先ず気を許せない厄介な隣人が居るだろう?」
「……確かに…そうですね」
「暗殺の類いを画策する刺客への警戒は高くても、人質を取る等の手段で脅した民を使い暗殺を企てて実行に移されたとして、御前や軍将は大丈夫だが…果たして小野寺や軍師達は、どうだろうな…」
『……………』
「旧漢王朝の領土は今や三つの勢力が分け治める
その中で最も明確な弱者は?
そして、そんな連中が手段を選ぶと思うか?」
そう言えば孫策達は静かに俯いた。
決して、劉備達を甘く見てはいない。
だが、大局としては、はっきりとした優劣が見える現状というのは意外と危うかったりもする。
最終決戦と言うべき戦いの終わった後でも有る。
少なからず、気の緩みというのは生じて当然。
宅の中にも無い事ではない。
ただ、宅の場合は俺や華琳が居るから引き締める。
しかし、孫家には其処までの意識を持っている者は現時点では見当たらないのが現実だ。
だからこそ、その隙を潰して置く事が必要。
孫家の誰かが犠牲に為ってからでは遅いからな。
…まあ、そう為ったら為ったで両者の間には永久に埋まらず、消えない断崖絶壁が生じるだけで。
曹魏にとっては大して影響は無いが。
一応、孫家には宅の身内が多い。
当たり所が悪ければ、だからな。
避けられる悪影響は避けるに限る、という事。
その為の啓発活動の様な物だ。
「いきなり今日の様な鍛練を遣れと強いても反感や嫌悪感を懐かせるだけだ
出来る所から、己を知る所から徐々に始める事だ
御前達も最初から現在している様な鍛練をしていたという訳ではないだろう?
その辺りを間違いさえしなければ、鍛練を継続させ習慣化する事は然して難しい事ではない」
「……そうですね、真剣に取り組んでみます」
「寧ろ、一番飽き性なのが当主だからな
其処さえ大丈夫なら、他は問題無いだろう」
「ぅぐっ……御尤もです…」
そして、最後にチクッ、と一刺し。
本当にな、一番の心配の種が孫策だからな。
夏侯惇辺りは小難しい事を遣らせると孫策と同様に放り出す可能性は高い。
だが、鍛練の様な習慣化すれば気に為らない類いの事に関しては飽きて止めるという可能性は低い。
全く無いとは言い切れない辺りは仕方が無いが。
それでも地味な事でも真面目に遣れる質ではある。
そういう意味でも孫策や妹の孫尚香は飽き易い。
ただ、孫尚香は未熟な分、その初期段階でも鍛練の成果を実感し易いだろうから継続もし易いだろう。
一方で孫策は今から習慣化するには忍耐が必須。
単純に我慢するのではなく、継続する忍耐がだ。
それが、ある意味では最大の課題だと言える。
まあ、その事を自覚出来る辺りは成長の証だろう。
少し前の孫策なら言い訳している所だろうからな。
「さてと、汗を流してから朝食だな
御前達も汗を拭くだけではなく着替える様にな
面倒臭がると風邪を引いたりする原因にもなる
そういった部分までも含めての鍛練だと思え」
「はい、判りました」
孫策の返事を受け、俺は凪達と風呂場へ向かう。
湯を沸かす必要は無いが、場所を借りないと辺りが水浸しに為るからな。
勿論、氣を使えば簡単に対処は出来る訳だが。
あまり他所様の家で遣り過ぎるのは避けたい。
そういう訳で風呂場に幾らか水を汲んで置いといて貰う様に、予め初日に文和に頼んで置いた。
水さえ有れば、こっそり氣で微温湯に出来ますし、大して室温も上がりませんからバレ難いので。
「三人と手合わせしてみた感想は?」
「孫策殿と夏侯惇さんは兎も角、やはり華雄さんは惜しい人材だと言わざるを得ませんね
人柄や指導力も含め、稀有な人材でしょう」
「尤も、それ故に手放さざるを得ない方ですが
孫家を支え、基盤を築き上げる為には必要不可欠な人材な訳ですからね」
「そうですね、そういう方は稀有ですしね…」
「加えて、女性である事も大きな要素だからな
次代以降は男性当主が望ましいが、現時点で初代は女性当主である方が色々と都合が良い
そういう意味でも華雄は孫家にとって大事だ」
公孫賛と田豫の様な場合は除くとしても。
基本的には小野寺の血を引く、小野寺との子供達が孫家を支え、繋いで行く柱になる事は確かだ。
その意味でも側室の数は重要だと言える。
ただ、夏侯惇は兎も角、華雄は判らない。
張遼や馬岱辺りは満更でも無さそうだが。
正直、華雄に関しては読めない。
──と言うか、現状では恋愛意識を感じられない。
その辺りを含め、小野寺には頑張って欲しい所だ。
さて、それはそれとして。
孫策との勝負の結果だが、勝負は俺の勝ち。
孫策には悪いが、世の中、上手い話程に危ない事を身を以て知って貰わないと今後に関わるからな。
少々痛い目を見て経験して貰おう。
但し、結局はネタバラしはしていない。
孫策も最後まで見破れなかったしな。
教える事は簡単だが、それでは面白くないからな。
それに孫策自身が気付く事で成長の糧に成る。
今直ぐには解らずとも、悩み考え試行錯誤する。
その過程も成長に繋がる糧に成るのだから。
その機会を奪う真似はしない。
俺は親切な解説キャラではないのだから。
──とは言え、簡単ではないがな。
人が常にしている“無意識の瞬き”を意識する事は発想自体の着眼点を変えないと難しい。
特に、まだ医学や生物学の未発達な時代背景的にも理解するのは簡単だとは言えない。
まあ、勝負の場に小野寺が居て、見ていたなら。
気付いた可能性は否めないがな。
「まあ、現状で言えば柱は足りてはいるが…
欲を言えば、もう二~三本有っても構わない所か」
「…っ……劉備の麾下から、ですか?」
俺が何を言いたいのかを察し、凪が息を飲んだ。
その反応に対し、思わず口角が上がる。
但し、それは謀略者としての笑みではない。
昔の凪とは違い、そういう政治的に深い所まで見る事が出来る様になったのは成長している証拠だ。
その事実を嬉しく思ったが故の笑み。
それを理解しているから流琉と葉香は拗ね気味。
「狡いです…」と言いた気な態度に胸中で苦笑。
しかし、その反応が可愛らしく、愛しい。
まあ、面と向かって言ったりはしないが。
「宅が裏で謀る気は無いがな
ただ、そうなる可能性が無いという訳でもない
劉備と北郷、あの二人自身が蒔いた種だからな
流れ次第では、十分に有り得る事だ」
──とは言え、それは直ぐにという訳でもない。
勿論、そうなる可能性も無い訳ではないが。
少なくとも、先二~三年は情勢は動き難いだろう。
孫策達は建国と発展に、劉備達は立て直しに。
当面は注力しなくては為らないだろうからな。
…それでも、今の劉備は厄介だと言えるが。
失う物が無いから後先考えずに動くかもしれない。
加えて宅としても代替品が無いから、そう簡単には潰せない事から面倒臭いしな。
そういう意味では大人しくしていて欲しくは有る。
…こういう事を考えていると振りになりそうだが。
そう為った時は為った時。
気にし過ぎていては何も出来無いからな。
「それは兎も角、今日の午前中は別行動だったな
各々積もる話も有るだろうから、ゆっくりして来い
勿論、羽目を外し過ぎない程度に、だが」
そう言えば凪と流琉は苦笑する。
二人の脳裏に浮かんだのは李典・許緒の姿だろう。
何方等も普段は特に問題が無くても気を抜いた時は油断すれば一騒動起こし兼ねない人物だからな。
それを朋友として知っているが故に。
その情景が容易く思い浮かんでしまう訳だ。
一方、葉香は気にしてはいない。
何しろ、姉妹揃ってマイペースだからな。
羽目を外して騒ぎを起こす、という情景を想像する事でさえ難しいと言える。
──と言うか、陸姉妹の会話風景は想像し難い。
ある意味、天然×天然による未知の化学反応。
そう考えると、少々見たくも有るが。
…まあ、巻き込まれて事故りたくはないからな。
下手に好奇心で近付くのは止めて置こう。
俺は俺で、馬岱との会談が待っているからな。
さてと、どうなる事やら。




