刻綴三國史 16
──九月二十二日。
現在、他所様の屋敷、その一室で過ごしているとは思えない位に寛いだ朝を迎えている俺達。
一糸纏わぬ姿で俺に抱き付く格好で眠っているのは昨夜も当然の様に求め合った凪・流琉・葉香。
正直、別室を用意して貰っている意味が…ねぇ…。
自重すれば済む話かもしれないが、凪達にとっては三人で共有している形だが独占している訳だ。
それを「我慢しなさい」というのは難しい。
心地好い人肌は最高の布団だとも言えるしな。
三人を起こすと軽く身支度を整え、朝練を行う庭に出て見れば既に気合い十分な夏侯惇の姿が。
遠足等が楽しみで仕方の無かった子供の様に。
一目見ただけでテンションの高さを感じられる。
「曹純様!、皆様!、御早う御座いますっ!
本日は宜しく御願い致しますっ!!」
鶏の鳴き声の様に響く挨拶をした後、綺麗な直角の御辞儀をしてくる夏侯惇。
一人の武人として、曹魏の鍛練に参加出来る事への期待値が高い事は理解は出来る。
ただ、あまりのテンションの高さには少々引く。
凪は「その気持ち、判りますよ…」と言いたそうな感じで小さく何度も同意の首肯をしているが。
流琉は苦笑、葉香は欠伸をしている。
葉香に関しては一々ツッコム気にも為らないしな。
「ああ、御早う元譲、俺も妙才への土産話が増える事を楽しみにしている
──で?、御前達は何で此処に居る?」
「見学は邪魔ですけど、参加なら許容範囲内、と…
そういった様な事を仰有っていたと聞きましたから駄目元で引っ付いて来てみました」
「右に同じです」
そう笑顔で言ったのは孫策と華雄。
華雄に関しては、孫策に話を持ち掛けられて本当に駄目元で参加しているのだろう。
打算で勝手な真似は遣らないだろうからな。
だが、孫策の方は間違い無く確信犯だ。
ある意味、「言質は取って有るわよね?」と。
したり顔の笑顔が、雄弁に物語っている。
「…一応聞いて置くが、小野寺や文和の同意は?」
「有りません、抑、話していませんから」
そう臆せず言い切る辺りは、孫策らしいと言える。
蓮華が居れば即説教が始まっている所だろう。
自由過ぎる当主の良し悪し、という事だが。
…さて、どうして遣ろうか。
華雄も居る事だし、朝練への参加自体は構わない。
ただ、孫策に無条件で許可するのは面白くない。
──と言うか、これで調子に乗られるのは鬱陶しいとしか言えないからな。
「…まあ、折角起きて準備している事だ
朝練に参加する事は許可しよう」
「有難う御座います」
「──が、只で、というのも何だからな
少しばかり、俺と賭けをしよう」
「………賭け、で御座いますか?」
「何、「負ければ命を差し出せ」みたいな戯言等を言ったりはしない
公堅、御前が此処に居るのは伯符の誘いだな?」
「はい、雪蓮様に昨夜「一緒に行ってみない?」と誘われましたので、来てみました」
華雄の言葉に、「ちょっ!?、何で言うのよっ?!」と抗議の視線を向ける孫策。
当然だが、非は御前に有るからな?。
まあ、それでも家臣として「それは駄目です」等と諌めるべき所では有るが…そう言いそうな張遼には声を掛けていない辺りが孫策の強かさだろう。
華雄なら話に乗る可能性が高い。
それはつまり、共犯者を獲られるという事だ。
「だって、貴女も反対しなかったじゃないの」と。
自分一人の責任ではないのだと。
止めなかった華雄にも同等の責任が有るのだと。
そう言い訳が出来る様に。
華雄の性格等を理解した上で、話を持ち掛けた。
そんな一連の考えが透けて見えるからな。
「つまり、元譲は俺が声を掛け、公堅は伯符が、だ
だから伯符、御前が賭けを受けるなら、それだけで御前達の参加を許可しよう」
「……賭けを受けるだけ、という事ですが、賭けと仰有れる以上、別に何かが有る訳ですよね?」
「それは勿論だな、でなければ面白くない
御前が勝てば……そうだな、俺個人に出来る範疇で何でも一つ、望みを叶えて遣る」
『──っっ!!!!!!』
俺の予期せぬ一言に孫策達は驚愕する。
何しろ、私的な場とは言え、その叶えられる望みに公私に対する条件は付随されてはいない。
つまり、公的な要求をする事も可能ではある。
勿論、飽く迄も俺個人に限られる内容では有る為、孫家を王族として呉の建国を認める、という望みは当然ながら該当しないのだが。
それでも、その権利は使い方次第だとも言える。
賈駆達なら、有用な使い方を思い付くだろう。
そんな破格の対価を目の前に振ら下げられながらも孫策は一人冷静な眼差しへと変わる。
思わず御馳走に眼を眩ませられて飛び付いてしまう場面だが、踏み止まれる危機察知能力。
その精度の高さには素直に大した物だと思う。
「…非常に素晴らしい御話なのですが、私が負けた場面には一体どの様な事を?」
「俺としては、同じ内容でも構わないが…それでは御前からしたら不安だろうな
…そうだな、なら、こういうのはどうだ
負けたら一週間、俺の専属の侍女をする、と」
「…っ……侍女、ですか?」
「ああ、勿論、今日明日という話ではない
御互いに忙しい身だ、都合等も有るだろうからな
その辺りは後日、という形になるだろうがな
──で、どうする?、賭けを受けるか?」
「……………………判りました、私も自分で蒔いた種は自分で刈り取ります
その賭け、御受け致します」
「良い覚悟だ、それでこそ虎の当主だ」
そう言いながら鍛練用に用意して貰っていた木棍を手に取って地面に直径2m程の円を描く。
直径1mでも構わないが…一応、気を遣う。
凪達が「あー…」という憐れみの雰囲気を孫策達に気付かれない様に滲ませているが、当然だろう。
何しろ、凪達は勿論、華琳でさえ、この条件下での俺との勝負に勝ったのは再会してからも鍛練を続け一年以上経ってからだったからな。
俄では到底勝ち目は無い。
要するに、完全な“無理ゲー”という奴だ。
懐に右手を入れ──“影”から砂時計を取り出し、持っていたかの様に孫策達に見せる。
「小野寺から時間の話は聞いているか?」
「えっと……分とか秒の事ですか?」
「ああ、それで間違い無い
これは砂時計と言って一定時間を計る事が出来る
これを逆にすると砂が上から下に落ち、落ち切ると丁度三十分が経過する様に作ってある
勝負の内容は単純
開始の合図と共に砂時計を動かし砂が落ち切るまで──三十分以内に、この円の中から俺を外に出せば御前の勝ちだ
手足は勿論、髪や衣服が円の外側の地面等に触れた時点で御前の勝ちになる
逆に時間に達成出来無ければ俺の勝ちだ
武器の使用・交換は自由だし、反則も特に無い
勿論、この勝負は一対一でが原則だからな
元譲達には悪いが勝負が着くまで待って居てくれ」
「はい!、全然構いません!」
「──という訳だが…準備は良いか?」
「ええ、何時でも始められるわ」
意識が臨戦態勢に入ったからか、孫策の言葉遣いが素に戻ってしまっているが…指摘はしない。
凪に砂時計を手渡し、号令と審判を任せる。
尚、俺に有利に為る様な行為はしません。
そんな下らない忖度は遣りませんから。
俺も開始位置となる円の中央に立ち、正面の孫家の宝剣・南海覇王を抜き構える孫策を見詰める。
抑えているが、その眼差しは獰猛な虎その物。
遊ぶ気など一切無い、本気の闘気が心地好い。
「…それでは──────始めっ!」
「哈あぁああぁぁっ!!」
凪の号令と共に最短距離を疾駆する孫策。
その迫力は確かで、大抵の者は畏怖するだろう。
そうでなくても、瞬間的に身構えてしまう。
そういう本能的な危機感を懐かせる迫力・威圧感を孫策は持っているし、上手く使っている。
まあ、本人は無意識かもしれないが。
そんな孫策に対し、俺は打ち合う事も無く、軽々と突進を避け、孫策と入れ替わる。
「────っ!?」
「何を遣っているんだ雪蓮っ!、よく狙えーっ!」
「………?…」
躱されるとは思っていなかった──いや、その躱す動きさえ、把握出来無かった事に驚く孫策。
急に俺が消えた様に見えた事だろう。
そのまま直進し、地面を滑る様にして減速し停止、方向転換して確認すれば俺は円の中に居る。
其処へ夏侯惇からの野次が飛ぶ。
「煩いわね!、ちょっと黙ってなさい!」と。
苛立ちながら叫びたそうな視線を一瞬だけ夏侯惇に向けるが、直ぐに側に居る凪を見て──俺に集中。
馬鹿な事を遣っている間にも時間は過ぎて行く。
そう考えられるなら、野次は無視するのが正論。
但し、それは余裕が無くなっている証拠。
状況を客観的に考えられる余裕が有るなら、小首を傾げている華雄に気付けただろう。
其処から見える事実という物も有る。
孫策の位置では突然俺の姿が消えた様に見えるが、夏侯惇達の位置からは俺が軽々と躱す様子が判る。
その意味では、夏侯惇の野次は可笑しくはない。
寧ろ、客観的な立場から観ているとは言え、初見で違和感を感じている華雄は大した物だ。
そんな華雄の様子に流琉と葉香も気付いたらしく、驚きと感嘆を僅かに覗かせている。
…まあ、流琉は目が合った瞬間に「意地悪です」と言う様に苦笑を見せている。
経験上、よく狙いが判っている証拠だな。
さて、件の孫策は一旦思考を放棄して、取り敢えず再度攻撃して確かめようとする。
敢えて違う遣り方をし、混乱させる事は容易いが…そんな孫策の意気込みを買おうか。
初撃と同様に最短距離を疾駆して来る孫策。
その眼差しは先程と同様に、しっかりと真っ直ぐに俺の姿を捉えている。
──では、何故、孫策は俺の姿を見失ったのか。
種明かしをすれば実に単純な事だったりする。
孫策の攻撃の間合い。
その本の僅か外に達した瞬間に、瞬きをする。
聞けば、「…え?、それだけ?」と思うだろう。
ただ、極度の集中状態に有り、相手の挙動を一つも見逃さない・見落とさない様に意識している中で、自然な瞬きに釣られる事は有る。
それは一秒にも満たない刹那の空白。
しかし、その瞬きと同時に回避行動をする俺の姿は孫策からすれば、消えた様に見えるだろう。
一方、客観的に観ている夏侯惇達は瞬きに気付かず簡単に躱された様に見えている訳だ。
その自他の認識の差が、思考に混乱を生じさせる。
特に普段から、「考えろ」と言われている宅の皆は陥り易く、負けず嫌いな分、狭窄化し易い。
まあ、それでも真っ先に気付いた華琳は流石だが。
それは兎も角として。
二度目の摩訶不思議を体験した孫策。
その警戒心は先程よりも更に引き上げられる。
ただ、それは悪循環でしかない。
俺の言動に、夏侯惇の野次に、己の常識に。
惑わされ、思考の泥沼に嵌まってしまう。
そんな俺の仕掛けだが。
実は孫策の様な本能的な性質の強い者に対しては、あまり相性が良く無かったりする。
宅で言えば、珀花や灯璃が華琳に次いで破ったし、恋は加入してから程無く破った。
まあ、華琳以外は理解し、論破した訳ではない。
彼是考える事を止め、感覚で動いた結果だ。
だが、それでも破ったという事には変わらない。
普段通り、肩の力が抜けている孫策なら。
此処で「…あーっ、もうっ!、面倒臭いわね!」と逆ギレ気味に苛立ち、考える事を止める所だ。
だが、それが現状では出来てはいない。
目の前に振ら下がる戦利品に。
眼が眩み、欲し過ぎて、冷静さを欠いている。
思考出来ているから、冷静な訳ではない。
自分を見失う事が、冷静さを欠くという事。
特に感情や欲望は陥り易くする原因だ。
尤も、それを然り気無く利用している俺は鬼畜。
人心を弄び、操り、陥れていく所業は正に外道。
だが、決して容赦はしない。
俺は勝てる勝負しかしないからな。
「どうした伯符?、時間は有限だぞ?」
「──くっ…判ってるわよ!」
そんな訳で、暫し遊ばせて貰うとしようか。
ゆっくりとな。




