伍拾弐
━━時は遡り。
“この世界”から“外”に弾き出された直後の事。
気絶するかの様に遠退き、深淵へと沈んで行く意識。
同時に、一瞬の浮遊感。
それは“転移”をする際の感覚に似ていた。
だから、瞬間的にとは言え“懐かしい感覚”に自然と口元が緩んでしまう。
有れば便利なんだよな。
転移術っていうのは。
…まあ、術者によっては、飛行機代等の交通費よりも術の施行の為の必要な材料等の関係で高く付くので、超緊急及び最終手段でしか用いられないのが現実。
うん、生々しくて懐事情が痛々しく寒々しく、浪漫の欠片も無い懐かしさだ。
そんな感想を懐きながら、感覚に身を委ねていると、足の裏に感じる“着地”。
それを合図に一旦強制的に遮断されていた外部情報に対する五感が戻る。
転移時の条件反射によって当然の様に閉じられていた目蓋をゆっくりと開く。
若干の眩しさを感じる。
だが、警戒心は皆無。
その必要が無いという事を俺は察しているから。
…まあ、華琳に言わせれば“敵の術を態と受けたのに無警戒って何なのよ?”と切り返すのだろうが。
残念ながら、今は一人だ。
今!、俺は!、自由だっ!──なんて思わない。
うん、だって、絶賛色んな柵で雁字搦めなんで。
そういう意味では、自由に成る為にも来ている。
来ただけじゃ駄目だけど、それは今は考えない。
“なら、無駄だろ?”とか言うんじゃ有りません。
無駄な事なんて無い。
“無駄な事だ”と考えて、思う自分こそが駄目だ。
諦めるんじゃない。
──と、それは兎も角だ。
「…お〜、懐かしいな…」
視界に映る景色。
それは、虹彩色の雲の様な不思議な靄が立ち込める、現実味の薄い景色。
しかし、知っている。
忘れる筈なんて出来無い。
出来る訳が無い。
“此処”は俺達にとっての始まりの場所なのだから。
そう、華琳(最愛の女)と、己が宿命と出逢いし地。
今は遥かに遠く届かない、夢と現の交わる処。
そう、あの“狭界”だ。
少し視界を移動させても、やはりと言うべきか。
辺り一面、同じ様な景色が広がっているだけ。
地平の彼方までも果て無く続いていそうで有りながら見え難いだけで壁に囲まれ隔離された空間でも有ると何方等にも思える。
それ程に曖昧なんだろう。
しかし、それで有りながら確かな事でもある。
それ故に、判断に困る。
「…まあ、“此処”に来る事になるんだろうな、とは思っていたんだが…
今度は“話せる”よな?」
小さく苦笑した後、思考を切り替えると、俺は眼前の虚空を見詰めながら静かにそう訊ね掛ける。
すると──声ではないが、確かに“肯定”する意思を感じ取る事が出来た。
それは曾ては感じる事さえ適わなかった事。
それが出来ている事。
その事に笑みを浮かべる。
何故なら、俺自身の考えが間違ってはいなかった事が証明されたのだから。
あの時、まだ幼く、未熟で“資格”の無かった俺には理解が出来無かった。
だが、可能性としてならば考えなかった訳ではない。
ただ、その確証を得る事は先ず適わなかった。
だから、“不明”なままで放置するしかなかった。
華琳や軍師陣ではないが。
俺自身も“理屈屋”だ。
だから、可能性の有る限り理解が出来る事に対しては理解しようと考える。
己の知識欲・知的好奇心を満たしたいと望む。
その為に──行動する。
だから、華琳も折れた。
もし、華琳が俺の立場で、俺と同じ様に“そうする”事が出来る手段を持つなら──遣っているから。
勿論、俺が華琳の立場なら同じ様に怒っただろう。
“そんな事”の為に、自ら存在を危険に晒すんだ。
心配しない訳が無い。
ただまあ、判ってはいても遣りたくはなるんだよ。
ああ、“これ”じゃなくて黙ってて、急に告げるって笑えない冗談で、煽る様に揶揄うという真似を、だ。
似た者夫婦なんでね。
お互いに困らせたりして、見たいんだよ。
どういう反応をするのか。
──っと、そんな惚気話は置いておくとして。
「先ず率直に訊くが…
“此処”は自然発生により出来た場所じゃない
“基点世界(お前)”により造り出された場所だな?」
驚きからか、逡巡からか、僅かにだが間を置いてから肯定の意思を伝える。
それを感じながら胸中では“…ああでも、これって、俺以外には感じ取れても、奇妙な感覚なんだろうな”なんて思ってしまう。
だってほら、別に目の前に話し相手が居るって訳じゃないんだから。
人の姿を──いや、其処に存在していると判る様な、視認出来るのなら、少しは違うのだとは思うが。
例えば、光の珠が浮いてる──とかみたいに。
…これは慣れだよなぁ。
そう思うしかない。
さて、肯定を得て確信し、一つ安堵する。
自信は有ったが、絶対とは言えなかったから。
大前提が崩れてしまっては仮説は成り立たないから。
それが成立したんだから、安心もしますって。
“此処”が“基点世界”の創造した場所であるという事自体は、あの試練の途中華琳と別行動中だった時に粗間違い無いと思った。
あの試練の空間も確信へと繋がる要因の一つでも有り重要な存在だったが。
抑、この場所を当時の様に“夢と現の狭間の世界”と称するには無理が有る事を実は当時から感じていた。
華琳には言えなかったが。
勿論、最初からではなく、別離を迎える少し前辺りの逢瀬の頃から、だ。
だからこそ真名という楔を打ち込む事を考えた訳だ。
…まあ、それが引き寄せる事に繋がったのかを問えば──うん、明かさない方が幸せな事って有るよね。
“綺麗な思い出”のまま、それはそっとして置く事が夫婦円満に繋がる筈。
…此処だけの話。
あの時の楔の必要性って…無かったんだよね、うん。
華琳も追及しないし、多分薄々気付いてるかもな。
態々自ら荒らす必要の無い思い出の園は、綺麗なまま思い出にしてしまおう。
そう考えて、切り替える。
「俺達が──正確に言えば孟徳が俺を選んだ、選ぶに至る存在だったのは本当に偶然だったんだろ?
幾ら何でも、自分から干渉はしないだろうからな」
そう訊けば、肯定の意思を伝えて返してくる。
それを受け、胸中で華琳に感謝しつつ、苦笑もする。
“世界”の予想すら超えて唯一人、己の道を歩もうと決意していた幼女に。
変わらぬ──いや、増した負けず嫌いな性格に。
限り無い愛しさを懐く。
「…俺に目を付けたのは、母が俺を身籠った時だな?
龍族と人間の混血児という有り得ない奇跡(存在)…
だが、それもまた人間故の可能性の成せる結果だ
お前は、それに懸けた
だから母が亡くなった時、お前は“死後理解”という本当は存在しないが人間が妄想する“たられば”話を利用して、母へと意図的に“見せた”んだろ?
“大事な鍵命(俺)”を消滅させない様に世界(自分)の秩序(影響下)から届かない“分離した世界(場所)”へ弾き(送り)出す為に」
僅かに間を開けて、肯定の意思を伝えてくる。
其処に、罪悪感が混じった様に感じたのは…恐らく、気のせいではない。
本来、不干渉である自分が干渉してしまった訳だ。
己に課した禁を破ってまで俺を必要(守ろう)とした。
それ相応の理由は有る、と考えて然るべきだろう。
「お前は──いや、大抵の“世界(意志)”は人を軸に置く事で変化を望む…
それは繁栄も滅亡も含んだ変化では有るが…
お前にとって、“災厄”の存在は想定外だった
だから、全ての人間が死に絶えてしまったとしても、その先に再び人間を置いて新しく始め直す為に、俺を“彼方”に置いた訳だ
つまり、仮に孟徳が選んだ相手が俺でなく、今の世が終わったとしても、お前は俺を招くつもりだった…
龍族には無理であっても、お前には容易いからな」
そう言うと、直ぐに肯定の意思を伝えてきた。
開き直りではない。
そうする事が、“世界”の本質でも有るからだ。
何しろ、自殺しようなんて考えはしないからな。
だから、“先”を見据えて動いていた。
ただそれだけの話だ。
順番に整理すれば判る。
最初に“基点世界”の方で俺は誕生する前に死に掛け──両親(二人)の手により“分岐世界”へ移された。
そして、新たに両親を得て“小鳥遊 純和”としての生を受ける事になる。
その間の時間の経過は実は大した問題ではない。
俺の存在が重要だからだ。
優先すべきは俺の誕生。
それ以外は些細な事だったという訳なんだろう。
その後、“基点世界”にて華琳が“願い石”を手にし願った結果──華琳と俺は結ばれる事になる訳だが…当然、それは意図されての事ではない。
本当に、偶然だろう。
しかし、必然でもある。
華琳の、俺の、両親達の、龍族の、全ての意志が。
一つに繋がるという奇跡。
だから、考えた。
この奇跡は、放置するには惜し過ぎる絶好機だと。
「孟徳と俺が“結われた”事を知って、お前は俺達を“狭界(此処)”に呼んだ
それは、“世界(自分)”を守らせる為に?
いいや、そうじゃない
お前は俺達を試したんだ
より正確には孟徳を、だ
お前にとって、欠かせない鍵命(俺)を任せるに足るか否かを見極める為にな
そして、お前の想定以上に孟徳は俺に相応しかった
…いや、少し違うな
一人(俺)だけでは足りないという事に気付いたんだ
可能性を引き出す為には、欠かせないのだと…
文字通りに俺には孟徳が、孟徳には俺が不可欠であり必要なんだ、と
だから、お前は通常よりも早い時期に俺を招いた
全ては、生命を繋ぐ為に
未来を途絶えさせない為に
お前は、“外に居る俺に”干渉したんだろ?
“世界(自分達)”の禁の、穴を突く格好でな」
そう断言してみせる。
誤魔化そうと思えば簡単に誤魔化す事は出来る。
否定すればいいだけだ。
否定をしたからと言って、俺が背負った事を放り出す可能性は皆無だ。
仮に、俺が口では言っても実際には放棄しないという事を理解している筈だ。
何しろ、俺自身が今言って聞かせたんだから。
“俺には華琳が必要だ”とはっきりと。
それなのに華琳を見捨てる様な真似はしない事を。
そして、だからこそ俺にも嘘偽りの無い意思を伝えるという事を。
俺は確信している。
その考えを裏切る事無く、明確な肯定の意思を示す。
真っ直ぐに俺と向かう事。
それが出来ているからこそ“世界(此奴)”は狡い。
敵には出来無いからな。
遣った事自体は詐欺に近い裏技だと言える。
“基点世界(自分)”の方で俺達への干渉は歪みを生む危険性が高い。
如何に代行者である龍族の術であっても下手な干渉は如何様な影響を及ぼすのか解らないからだ。
しかし、逆に言えば自分の“分岐世界(外)”でなら、或いは何方等にも属さない“狭界(中立地帯)”でなら影響は出ない。
其処を利用した訳だ。
華琳を試す為に。
俺を一足早く喚ぶ為に。
“世界(自分)”の特権を、躊躇無く行使した。
それが疑問の正体だ。
ただ、それとは別に一つ。
残った疑問も有る。
「…“災厄(奴)”の歪みはお前の干渉した結果か?」
そう、あの存在の事だ。
アレはあまりにも秩序から外れ過ぎている。
人間が堕ちたというだけの末路には思えない。
だから、訊いておく。
最初で最後の機会だから。
そんな俺に、初めて否定の意思を伝えてきた。
隠してはいない。
つまり奴は人間の可能性が悪い方に生んだ奇跡。
そういう事になる。
何とも言えない事実だ。
だが、止めはしない。
決して、譲りはしない。
俺達は誓ったのだから。
例え、“世界”が相手でも俺達を引き裂こうとするのであれば、容赦はしない。
全力で、抗うと。
必ず、掴み取ると。
絶対に、離さないと。
そう、誓ったからな。
「…最後に一つだけ訊く
お前は、人間(愚か者達)を愛しているか?」
そう問えば、驚いた様に、けれど、嬉しそうに。
微笑む様な温かくて優しい意思を以て、肯定する。
それを受け、俺も返す。
俺達の答えを。
「なら、信じて見届けろ
俺達が示して見せてやる
紡ぎ、繋ぎ、継ぎ、尽きぬ“意志”こそが人間の持つ最大の可能性だと
遥かな時の彼方にまでも」




