弐
緊張で口が渇く様に。
塞き止められている瀘水は夏の日差しの下に干上がり普段は見る事の無い水底を眼前に曝している。
如何に干上がってはいても綺麗だとは限らない。
長年の堆積した汚泥等が、濃い黒と茶と緑の混ざった曲線を大地に引いている。
“境界線”とも受け取れる其れを挟む形で対峙する。
天と地を別つ、三色の帯。
今、空から見下ろしたなら宛ら花畑の様にも見えるのかもしれない。
群生している花々。
色とりどりに、といった訳ではないのだけれど。
所謂、人文字等の様に。
それは一つの芸術性を持つ景色だと言えるだろう。
…まあ、現実的には横広に並んで展開しているので、そういうのは想像の域から出ないんだけど。
その辺りは知っている故の気分的な物だろうな。
そういう事でも考えないと呑まれてしまいそうだから考えているだけで。
其処に深い意味は無い。
(…しかし、予想外だな
まさか曹魏の出す兵数が、こんなに少ないなんて…)
視線の先に有る紫紺の帯。
その数は宅よりは多いが、劉備軍よりは少ない。
少数精鋭なんだと考えれば一応は納得出来るが。
それにしても、少ない。
確かに曹魏の兵の質なら、十倍の兵数が相手だろうが戦えるとは思うけど。
やはり、少ないと思う。
(…これって、多分だけど五万も居ないよな?…)
下手をすると、それ以下の可能性も有るだろう。
あまり前線に出ない様にと言われているから、全体を見渡す事は難しいけど。
正直、決戦に対して当てる兵数だとは思えない。
──とは言え、可笑しいと言う訳ではない。
視界に映る曹魏軍は本隊で有りながらも“囮”という可能性は十分に考えられるのだからな。
何故なら曹魏にしてみれば態々無駄な野戦に付き合う必要は無いのだから。
適当に往なしながら下がり白堊の巨壁の中に戻る事が出来ればいい。
その間に“別動隊”が相手領地に侵攻して要所要所を陥落させてしまえば容易く戦力を殺ぐ事が出来る。
圧倒的な戦力差・兵力差が存在すればこそだ。
(…けど、それが目的なら曹魏は疾っくに侵攻して、天下統一を果たしてる筈だ
そう為ってはいない以上、曹魏の真意は他に有る…)
それは何なのか。
未だに答えは見えない。
しかし、それも今の内だけでしかない。
整然と並ぶ三軍の中から、一つずつ人影が動く。
劉備軍からは劉備が。
宅からは雪蓮が。
そして、曹魏からは曹操が自身の愛馬に跨がり、前に進み出て来ている。
三頭の蹄が鳴らす地面と、河原特有の砂利の音色。
聞き慣れている筈なのに。
その一歩一歩が大きく長く響いている様に感じる。
それに負けない位に自分の鼓動も大きく聴こえる。
唾を、息を飲む音が響く。
自分の物か、誰かの物かも判らない位に高まる緊張。
その中で、足音が止んだ。
誰一人、喉を鳴らす事さえ出来無くなる緊張感。
先程まで草木を撫でていた微風ですら逃げるかの様に止んでしまった。
ただただ、静寂が有る。
重く、張り詰めた空気が、この場を包んでいる。
今、三人が向き合っている距離は意外な程に近い。
舌戦自体は何度か目にする機会が有ったけど。
大抵は声を張り上げる分、距離は取っている物。
でも、今は違っている。
愛馬を走らせれば二十歩と掛からずに接近出来る。
それ位に近い状況。
緊張感も割り増しになる。
「孫策、それに…劉備ね
随分と久し振りになるわね
暫く見ない内に身代に加え性根まで腐った(変わった)のかしら?」
『────っっ!!!!』
沈黙を破ったのは曹操。
その一言に、雪蓮と劉備は小さく息を飲んでいた。
声は音だけで、文字的には判らない筈なのに。
今は、曹操の皮肉った事が手に取る様に理解出来た。
──が、それは全員という訳ではなさそうだ。
チラッ…と視線を左右へと向けてはみたが、今の中の皮肉に気付いた様子の者は見当たらなかった。
しかし、当然だが雪蓮達は理解している。
それだけに不可思議だ。
故に疑問を懐くけど、今は考え込む暇は無い。
だから、思考の隅へ置いて話へと意識を集中させる。
「当然、この様な巫山戯た真似をしてくれたのだから説明は有るのでしょう?
──ねぇ、劉備?」
「……っ…」
明らかな挑発だ。
冷静に為ると最初の一言を言った時から挑発していた事に気付く事が出来る。
雪蓮の“序でに”居た事に気付いたかの様な言動。
加えて、“この様な馬鹿な真似を遣るのは劉備(貴女)位しか居ないでしょ?”と言わんばかりの名指し。
勿論、確信している上での事なんだろうし、事実には違い無いんだから。
はっきり言ってしまうと…曹操、超弩級のドSだわ。
恐ろしい娘…なんてレベル超越しちゃってるって。
“劉備のライフは0よっ!
もう止めてあげてっ!!”と叫びそうになる位に。
まあ、劉備が可哀想だとは微塵も思わないんだけど。
で、当の劉備はと言うと、あれだけ固執していた筈の曹操から視線を外したまま俯いてしまっている。
それがもし、“騙す為の”演技だとしたら俺は素直に“大した物だ”と感嘆し、称賛を送ろう。
そんな事が出来る程に器用だとは思ってはいないが。
「貴女、言ってたわよね?
“私は、この大陸を誰もが笑顔で過ごせる様な平和な国にしたい”、と…
それとも、もう昔の事など覚えていないのかしら?」
「…いえ、覚えています」
劉備っぽい台詞だ。
何時、何処で、どんな形で言ったのかは判らない。
“原作”的に考えるのなら“黄巾の乱”の最中に有る邂逅イベント時だろうか。
確か、俺達と会うより前に曹操と劉備は顔を合わせた様な事を言ってたし。
その時の事かもしれない。
「そう…それなら、貴女は自らの意思で平和に暮らす民達を戦乱へと巻き込み、無意味な犠牲者を出したいという訳ね」
「ち、違いますっ!
私はそんな事は──」
「──思ってはいない?
だとしたら、何故、貴女は軍勢を率いて我が国に対し攻撃を仕掛けたのかしら?
その意図が無いと言うなら私一人だけでなく曹魏の民全てが納得の出来る説明を聞かせて貰えるのね?」
「──っ、………」
曹操の言葉の前に、劉備は反論出来ずに黙り込む。
反論なんて出来る筈が無い事は最初から判っている。
判り切っていた事だ。
この戦いは劉備のエゴから起きているんだから。
其処に正義や大義なんて、欠片も存在していない。
完全な“自己満足(悪行)”でしかないんだ。
曹魏の全ての民は勿論で、曹操一人を納得させられる説明なんて出来やしない。
それを承知で劉備は俺達に戦う意思を見せた。
“ただ、曹操に勝ちたい”という子供染みた理由から戦争を起こしたんだろ。
それなのに、何なんだ。
この下らない遣り取りは。
何を今更躊躇うのか。
何を今更取り繕うのか。
曹操と、劉備(お前)とでは才器を比べるまでもない。
曹操の圧勝なんだよ。
お前は曹操に勝ちたい為に英傑の、王の、人としての大事にしなきゃいけない物全部を自分で捨てたんだ。
それを今更求めるなよ。
曹操の言葉に俯くばかりの劉備を睨み付けながら俺は胸中で暴れ渦巻く苛立ちを必死になって抑え込む。
何処ぞの馬鹿な政治家達の無意味な罵詈雑言みたいに野次れるなら野次りたい。
“巫山戯んなっ!!”と叫び殴って遣りたい。
勿論、グーパンで。
俺の熱い拳が唸りを上げる──気がする位に。
「…劉備、巫山戯るのなら他所で勝手にして頂戴
私達はね、忙しいのよ
貴女達みたいに、下らない妄想(夢)に現を抜かして、現実が見えないまま中身の無い虚言(理想)を語り合う様な暇は無いの
私達は、曹魏の民の未来を背負い、担っているわ
貴女達の様な、民を自分の欲望を満たす為だけの道具として使う真似をしている愚者とは違うのよ
だから──全ての民の為に自害したらどう?
貴女達は害悪その物よ
そうする事こそが、貴女の掲げた理想の為に為るわ」
「──────黙れっ!!」
容赦の無い曹操の言葉に、“ああ、尤もだな”と思い頷いていたら、急に叫びを上げた者が居た。
一瞬、劉備陣営の誰かかと視線を向け掛けたが直ぐに声の主が誰だか気付く。
そう、他でもない。
曹操の正論攻めを受けて、ついに限界突破したのか。
漸く、正体を露にした。
いつぞやの、狂気を纏った醜悪で、傲慢で、愚図で、どうしようも無く不愉快な劉備が姿を現していた。
──side out。
孫策side──
同意以外にしようの無い、曹操の正論過ぎる正論。
まあ、“自害したら?”は言い過ぎな気もしないではないのだけど。
“自害しろ”と言っている訳ではない。
飽く迄も提案に過ぎない。
己の理想と現実に苦悩する劉備に対して提示をした、一つの考えでしかない。
ただ、何よりも。
それは事実だから。
今、劉備達が自害する事は文字通りに世の中の平和に直結している。
存在しなくなっても誰一人困る者なんていない。
だって──劉備達程度なら幾らでも“代わり”になる存在は居るんだから。
(…曹操達とは違うのよ
劉備、貴女達は漢王朝内に腐る程居た連中と同じ…
民を害する存在なのよ
その事に気付いてる?
貴女は自分が“不要”だと断じた連中と同じに為ってしまっている事に…)
嘗ての、“黄巾の乱”時の彼女達に教えられるのなら教えてあげたい。
“誰か”と比べる様な事は絶対に止めなさい。
貴女は、それに耐えられる精神(器)ではないの。
貴女はただ、馬鹿みたいにお人好しで、どんなに多く“騙されても”笑いながら“だって、信じ合えないと理解し合えないでしょ”と言える様な、どうしようも無い前向きな思考を持った仁徳で王道を歩める自分で在り続けるべきなのよ。
そう、心から思う。
(曹操に人生を狂わされた──なんて事を言うのは、単に自分の愚かさと過ちを認められないから…
そして、それが出来無い、何も判っていない様な者に民を導く事は出来無いわ)
出来る事は唯一つ。
民を破滅させる事だけ。
巻き込み、引き摺り込み、逃がさない様に絡め取って死と絶望の深淵へと。
共に沈んで逝く事だけ。
だから、曹操は正しい。
悪戯に、無意味に、不要な民の命を犠牲にする前に。
劉備達が自害するべき。
それが何よりも、世の為、人の為、後の為に為る。
もし、自害が出来無いなら私が介錯してあげるわ。
貴女を止められなかった、せめてもの償いに、ね。
「あら、何?、自分に少し都合が悪くなっただけで、人の話も聞けない訳?
まるで駄々を捏ねて愚図る子供みたいね
身体ばかり大きく成って、頭と心の中は成長してないだなんて…
袁紹(あの馬鹿)みたいね
ああいえ、まだアレの方が増しでしょうね
少なくとも、アレに民心を騙すだけの知性(悪知恵)は備わってはいないから
しかし…よくもまあ、その程度でしかない癖に大層な事を言っていたものだわ
まあ、単純に言うだけなら誰にでも出来る事だから、何も、特別な資質だなんて必要ではないもの
当たり障りの無い、曖昧で受けてが勝ってに良い様に解釈しそうな言葉を並べて適当に笑顔を浮かべて見せ“皆で頑張ろうね”なんて宣っていれば、弱った民の心に突け込めて簡単に騙す事が出来るものね
ええ、そういう意味でなら貴女は大した者だわ
後世、長く“歴史”に名を刻み込み、遺すでしょう
稀代の大毒婦としてね」
「──黙れ!、黙れっ!!、黙れ黙れ煩い煩い煩いっ!!
黙れ!、黙れ煩い黙れっ!
煩い煩い黙れ煩い黙れ黙れ黙れ黙れ煩い黙れ黙れ煩い煩い黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れえぇえぇぇっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
曹操の容赦無い罵倒を受け劉備は普段の穏やかさなど捨て去った様に叫んだ。
ただ、それは兎も角。
罵倒、とは言っても実際は的を射ている訳で。
反論の余地は無くて。
舌戦である以上、他の誰も口を挟めない訳で。
私には劉備を擁護する気は全く無い訳で。
劉備が、こんな風になる事は可笑しな事ではなくて。
それしか出来無い訳で。
私としては、唯一つ。
曹操と舌戦──口喧嘩とか口論の類いは遣らない事を強く心に誓うだけ。




