拾伍
other side──
コツッ…コツッ…コッ…。
静寂の中に鳴り響いていた唯一の音が鳴り止んだ。
微かな光すら存在出来無い深い深い暗黒の世界。
右を見ても、左を見ても、上にも下にも、全てが。
ただただ無限に広がる様な深い闇に覆われている。
其処に何が有るのかも。
其処に誰が居るのかも。
一切、知る事は出来無い。
全てを飲み込む闇だけが、其処に存在している。
──とは言え、その闇とて自然の域を出はしない。
もし松明の一つでも手元に有れば最低限の範囲だが、視界を確保する事は然程は難しい事ではない。
だが、火を点ける様な事は迂闊には出来無い。
それは“盗掘”等に対する防衛策──要は様々な罠が仕掛けられている可能性が考えられるからである。
また可燃性の気体が内部に溜まっているという場合も十分に考えられるだろう。
前者だけを考えるのならば明かりは欠かせない。
見えない事には罠の有無は掛かってからしか知る事が出来無い訳なのだから。
事前に回避するという事も勿論だが、事後に回避する為にも、視界が良好である事は重要だと言える。
しかし、後者を考えるなら火気を伴う道具等は可能な限り用いるべきではない。
場合によっては静電気でも発火してしまうのだ。
尤も、その辺りの可能性は知識が有って初めて可能が出来る事である。
但し、其処まで詳細な事は解らずとも、危険性だけは理解する事は出来る。
古来より、未踏の洞窟等で入って行った者の所持する松明等が原因で、大炎上や大爆発が起きたという話は意外と多かったりする。
ただ、“常識”に為る程に知られてはいない、というだけの話でだ。
──ただ、そういった話も“常人の範疇では”と前に付けなくては為らない。
「…フン、警戒心が強く、不老不死や蘇生等といった幻想に対する妄執を死して尚、懐き続けるか…
熟、人間とは愚かよな…」
闇の中、全てが見えているかの様な余裕の有る口調で呟かれた声が響く。
──否、実際に闇の中でも視えているのだ。
その双眸には闇に埋もれた周囲の景色の全てが。
それは何等、特別な能力で可能という訳ではない。
人間には無理でも水の中で魚等が生きている様に。
土竜や蚯蚓等が土の中でも生きていけいる様に。
その闇の中を見通す能力は“適応した結果”として、身に付いたというだけ。
ただそれだけの事で。
決して、特別な事を遣って身に付けた技能という様な事ではないのだ。
ただ、常人からして見れば十分に“凄い!”と言える能力であるのも事実。
そう、常人からは、だ。
それを“必然(普通)”だと捉えている者からすれば、何も可笑しくはない。
そう在る事が然るべき形、姿なのだから。
故に疑問を懐く事は愚か、考える事すらしない。
そういう事なのだから。
闇の中、明かりは無くとも視界には何等問題は無い。
罠も回避する事が出来る。
しかし、一つだけ。
生物として厄介となる事が存在している。
それは、呼吸である。
如何に引火を避けようとも呼吸を阻害する状況ならば関係無いのだ。
息が出来無くなれば、当然生物は窒息死してしまう。
明かりだ罠だと言う以前の最重要な問題と言えよう。
では、その現状はどうか。
闇の中に有り、平気そうに一人で呟いているのだ。
当然、平気なのだろう。
だが、それは普通の者には真似する事は出来無い。
何故なら、今、闇の中には致死性の毒素が膨大な量で充満しているのだ。
もし、此処の場所に普通の人間を放り込んだとすれば1分と持たないだろう。
運良く持っていたとしても──それは“不運にも”と言わなくてはならない。
それは、ただ単に運が悪く死に切れず、もがき苦しむ時間だけが延びている事に他為らないのだから。
当然、そんな場所で平気な様子でいる以上、その者は普通ではない。
「よくもまあ、これだけの量を掻き集めたものだ…
人の欲というのは愚かしく理解し難い物だが…
その異常なまでの行動力に繋がる所は利点だろう
上手く使えば、だがな」
そう呆れた様にも聞こえる呟きが静かに響く。
その視界には、闇の中でもはっきりと今も見えている白い輝きを纏う銀の流れが映っていた。
ただただ観ているだけなら素晴らしい光景だと。
大体の人間は言うだろう。
ある者は“幻想的だ”と。
ある者は“信じられない、現実なのか…”と。
ある者は“絶景だ”と。
ある者は“この世の物とは思えない”と。
ある者は“神秘というのは此の為有るのだ”と。
口々に賛辞を述べる様子が手に取る様に判る。
しかし、それを観る為には己の人生・命を対価として支払わなくてはならないと知らされたなら。
果たして、世の中の何人が“死んでも構わないから、それを観てみたい”と。
高が景色一つに支払う事を決意するだろうか。
恐らく、そんな事をしても構わないと思う者は居る。
生きる事が苦痛に為ったり生き甲斐や意味を見失って絶望していたり、寿命的に或いは病気等で死期が近いという様な者であれば。
“それなら最後に…”と。
その様に考えて、観る事を決意する事も有り得る。
勿論、亡骸を拾ってくれる命知らずな馬鹿な人間など居はしないので、そのまま放置される事に為るが。
そういった事を考える者は死後の事は気にしない。
気にする者は、自殺同然の愚かな決意はしない。
家族(他者)に迷惑を掛ける事など考えないのだから。
ただただ自分の事だけしか考えないのだから。
だから、出来るのだ。
自分さえ良ければ後の事はどうなろうとも。
自分の欲求(決意)に従って他者への影響を考えない。
無責任な言動という物が。
そんな対価を支払ってでも観たいと考える人間が居る景色を目の当たりにして。
その者に感動している様な気配は一切見られない。
“だから何だと言うのだ?人間とは下らないな”等と吐き捨てそうな態度のまま銀流の上へと足を進める。
中へ、ではない。
文字通り、“上”を歩き、進んで行っている。
地面を歩くのと変わらない様子で、水面の様に波打ち揺れている銀流の上を。
その光景を何も知らぬ者が見たのならば、“もしや、貴方は仙人ですか?”等と見当違いな事を訊ねていたかもしれない。
…いや、ある意味で言えば的を射た質問だと言えない事も無いのだろうな。
まあ、その辺りは質問者の価値観次第だろうが。
銀流を遡る様に辿りながら歩き続けて行くと。
軈て、流れ下って注ぎ込む海の様に広い、銀色の湖が目の前に姿を現した。
もしも、星空の下であれば嘸や美しい事だろう。
幻想的、神秘的という様な表現自体が陳腐であると。
言葉にして言い表す事自体冒涜に等しいと。
そう思える程の光景が。
其処には広がっている。
尤も、そう感じられるなら少しでも歩みを止めている所なのだろうが。
生憎と、その様な感性等は持ち合わせていないのか。
足を止めている事は無い。
風も無い、深い闇の中。
その者の歩みが広がる様に銀の水面は波打つ。
ゆらゆら、グネグネ。
蛇が蠢いているかの様に。
銀の水面は揺れ動く。
珍妙で奇怪で有りながらも何故か面白い印象も同時に懐けてしまうのだが。
それを気にする事も無く、迷わず湖の中央に向かって足を進めてゆく。
そして、中央に小島の様に鎮座している綺麗な円形の祭壇に到着する。
九段に重ねられた円の縁は階段の様に為っている。
其処を警戒する様子も無く一段、また一段と上がる。
最上段となる台座の中央に円柱が立っている。
天井までは届かない高さ。
だが、一般的な大人の男の背の倍は有るだろう。
太さは、抱き付いたとして三人が手を繋ぎ合わせて、漸くという程である。
その表面には豪華な装飾を施されており、好事家なら全財産を叩いてでも何とか己が手に入れようと考える──かもしれない。
それ程に豪華絢爛な円柱、その一ヶ所に。
何かしらの碑の様に文字が刻まれている。
「こんな事をしても無意味なのだがな…
だがまあ、貴様の死して尚懐き続けている欲望(願い)を叶えてやろう…」
そう呟きながら、伸ばした右手を円柱に触れさせる。
直後、円柱を侵食する様に辺りの闇より更に深い黒が飲み込んでゆく。
その外観に“無価値”だと唾を吐き掛ける様に。
黒は円柱の中へと染み込み──半分に割れて開く。
「おはよう、我が僕よ
さあ、存分に望んだ現世で暴れる(舞う)がいい…」
闇の中に、狂喜を潜ませた笑い声が響いていた。
──side out。
貂蝉side──
━━曹魏国境付近。
高々と聳え立つ白堊の壁。
それを遠目に眺めながら、青空の下に佇む。
草木も生えぬ程に荒れ果て人々に捨てられた岩山。
ひっそりと、しかし逞しく其処に咲くのは愛らしくも可憐な一輪の漢女。
──そう、私っ!。
「…………暇ねぇん…」
ヒュゥウゥゥ…と、静かに風だけが過ぎ去ってゆく。
晴れてて、夏場で、十分に暑い筈なのに。
冷たい風が吹いてるなんて──思ってるより、此処は高地なのかしら。
それは兎も角として。
ビシッ!、と決めてみても見せる相手が居ない。
折角の“漢女の決めポーズ(※御主人様命名)”でも、相手が居ないと練習にすら為らないわよ。
(──違うわぁん!
違うわよぉん、貂蝉っ!
そうじゃないのよぉん!)
まるで、倦怠期に突入した恋人・夫婦の心境の様に、覚めた考えをしていた私に喝を入れる様に言い聞かせ拳を強く握り締める。
そう、そんな考えは大きな間違いでしかない。
観客は居ない?、馬鹿な。
ちゃんと其処に居るわ。
そう、大自然という観客が其処には居るのよ!。
大自然さえも魅了出来れば私の漢女道は更なる高みに昇る事が出来る筈よ。
そうすれば御主人様だってイチコロコロンよ。
「ウフッ…ウフフフッ♪」
脳内予行演習でならば既に何度も御主人様と肌を重ね突き合って来たわ。
それはもう熱く、激しく、狂おしい程に、情熱的に、猛々しく、荒々しいけど、時には優しく、緩やかに。
御主人様の熱が私を染めて染めて染み込まされて。
私の熱が御主人様を染めて染めて染み込ませて。
私が御主人様なのか。
御主人様が私なのか。
それすらも曖昧に為る程に私達は求め合い、融け合い──愛を確かめ合うの。
そう、それは愛という名の危険な御遊戯。
禁じられてしまう程に熱く激しく求めてしまう。
望んでしまうのよ。
全てはそう、愛故に。
──滾った肌を風に晒せば火照りを残して余韻に浸る心地好さが味わえる。
…私ったら、悪い御遊びを覚えちゃいそうで怖いわ。
「嗚呼っ、早く御主人様に会いたいわぁん〜っ!」
“まだまだ足りない!”と叫ぶ身体を両手で抱き締め一途に御主人様を想う。
嗚呼っ、私って健気ね!。
──と、唐突に脳天を貫く様な凄い衝撃が走った。
「…何をしておるんじゃ、この馬鹿者めがっ!」
「──痛ぁんっ!?
ちょぉっとぉん、いきなり何するのょおんっ!
私のスベスベぇんな御肌が傷付いちゃうかもしれないじゃないのょおんっ!」
「そんな事は知らんわ
それより、どうなんじゃ?
行けそうじゃったか?」
「もうっ…見た限りじゃあ無理そうねぇん…」
「やはり、か…」
卑弥呼と二人、白堊の壁を静かに見詰める。
鬱陶しい事この上無い程に完璧に曹魏の領地の全てを覆い囲んでくれている。
しかも、壁自体どう遣って造っているのか。
切れ目が全く無いのよ。
唯一それっぽく見えるのが関所を兼ねているのだろう巨大な門扉が有る場所。
でも、実際には建物自体の凹凸が有るだけで、壁面は他のと全く同じで登る事は不可能と言えるでしょう。
おまけに、この壁と来たら地上だけじゃなく地中にもしっかり延びてるのよ。
穴を掘って壁の下を潜って入り込む事も出来無いわ。
掘るのも掘られるのも私は御主人様だけだけどね。
…まあ、上も切りが有るし下にも切りが有るとは思うのだけど…何処まで掘れば行けるか判らないのよね。
遣りたくないわ。
はっきり言って、蟻一匹も入り込めないわね。
それ位に完璧な防御よ。
腹が立つ位にね。




