漆
暫しの間、桃香様と朱里が無言のまま見詰め合う。
その沈黙は端から見る者に重く感じられ、否応無しに緊張感を跳ね上げる。
客観的に観ていたならば、恐らくは大体の者が現状を“沈黙したままでいるのは言い難い事が有る証拠”と捉える事だろう。
無論、それは正しい。
しかし、それは既に朱里が“何かが遇った”と自らの発言にて示している以上、今更だと言えよう。
つまり、二人の沈黙の間に存在する理由は話す事への逡巡や詰問ではない。
では、それは何なのか。
何の為の沈黙なのか。
それは確認に他為らない。
朱里からすれば、桃香様へ“これから私の御話しする事を信じられますか?”。
桃香様からすれば、朱里に“私は朱里ちゃんを信じて話を聞くよ”、と。
その確認の為の間。
口に出しての確認ではないからこそ、側で見守る私や主からは睨み合っていると思える位の緊張感が有る。
その雰囲気に耐える様に、思わず主が息を飲んだ音が天幕の中に響いた。
それを合図にしたかの様に朱里が話し始める。
「…曹魏の将師は明確には何人居たのか判りません
ただ、全く相手が誰なのか確認が出来無かったという訳では有りません」
先ず、其処から始める。
そうする事により、鈴々が暴走してしまった理由を、そう為ってしまった必然を桃香様に伝え、理解を得る事が出来れば鈴々に対する処罰は軽くなる筈だ。
勿論、全く無いのであればそれが一番良いのだが。
その辺りは難しい所だ。
曹操や孫策であれば確実に処罰するのだろうがな。
少なくとも、以前の桃香様であったなら、鈴々を処罰するとは思わない。
今の桃香様は…判らない。
だからこそ、しっかりと、経緯を伝えなくてはな。
一つ呼吸を挟み、間を置き朱里は続きを話す。
「確認が取れたのは軍師の荀或さん、軍将の楽進さん──それに関羽さんです」
「──っ!」
その名が朱里の口から出た瞬間だった。
傍観している主の顔にすら驚きと動揺が浮かんだ。
それ程までに関羽の存在は桃香様達、古参の面々には大きな傷と為っている。
恐らくは、直接的に武力で自分達を壊滅する寸前まで追い込んだ華雄よりも。
深く、重い傷として。
「関羽さんが居る事を知り鈴々ちゃんが指示を無視し単独行動に走ってしまい、その結果、予定をしていた作戦行動は出来無いまま、乱戦状態に突入しました
其処から先は兵の質の差が出てしまいました
分断・包囲してから、各個撃破という形に持ち込める可能性は…僅かな物ですが残っていたとは思います
ただ、それは曹魏の戦力が私達の想定の範疇だったらという前提条件の上で、と言わざるを得ません
…正直な所、私達は曹魏を甘く見過ぎていました
それが最大の敗因です
…桃香様、本当に、申し訳御座いませんでした」
事実を述べ、再び桃香様に対して、朱里は深々と頭を下げて見せる。
赦しを請う為ではない。
己が責任とする為だ。
鈴々に非が無くはないが、自分達の見通しの甘さこそ最大の敗因だと。
そう言い切った。
それにより、鈴々を責める前に自分へと責任の追及を向ける事が出来る。
鈴々の事は自分の次だと。
処罰を受けるのは、先ずは自分からだと示す。
勿論、桃香様が受け入れる事が前提の話ではあるが。
其処は大丈夫だろう。
鈴々だけを責める様な事は桃香様はしない筈だ。
ただ、朱里を処罰するなら私も朱里と同じ責任を負う身として口を挟まねばな。
今は朱里が“代表して”、話をしているだけだ。
“朱里一人の責任だ”とは言っていないからな。
其処は、事前に話し合って決めていた通りだ。
桃香様は朱里の姿を見詰め──大きく息を吐き出すと椅子の背凭れに深く身体を預ける様に寄り掛かる。
そのまま顔を俯かせた為、表情を窺う事は出来無い。
それは私達には判断材料を一つ失った事に為る訳で。
若干、焦りが生まれる。
ギィッ…と、軋んだ音から見てはいなくとも朱里なら桃香様の体勢が変わったと察してはいるだろう。
その辺りから、ある程度は状況を予測出来ている筈。
だとすれば、朱里も迂闊に動く事はしないだろう。
つまり、桃香様待ちだ。
私達が動けない以上、今は桃香様の次の言動を静かに待つ事しか出来無い。
…主に期待?、無い無い。
この状況で口を挟めるなら桃香様の暴走を疾うに主が止めているだろうからな。
期待などする訳が無い。
少しだけ静寂が訪れた後、桃香様が口を開かれる。
「…朱里ちゃん、星ちゃん
鈴々ちゃんは大丈夫?」
そう訊ねられる桃香様に、朱里は小さく身体を揺らし反射的に答え掛ける。
しかし、それをギリギリで堪えて沈黙を貫く。
何故なら、今の朱里は己の責任の有無を桃香様に問い判断を待っている身だ。
如何に桃香様からの問いと言っても、其処で軽々しい態度を取っては為らない。
しかも、今の場合で言えば朱里と私を指名している。
朱里だけに対して訊かれた訳ではないなら答えられる私に任せるべきだろう。
そう判断したからだ。
尤も、朱里が答えようとも桃香様が朱里を責めるとは思ってはいない。
それは朱里も同じだろう。
ただ少しでも真摯な態度を見せる事で、己の本気さと鈴々への理解を求める意を示し伝えようとしている。
その為の沈黙なのだ。
だから、私が朱里に代わり桃香様に御伝えする。
「はい、それはもう…
私は鈴々と共に関羽と対峙していましたが…
今の鈴々は、“憑き物”が落ちた様に見えます
戦いの間に何が有ったのか詳しくは解りませんが…
鈴々が暴走する事は二度と無いでしょう」
本当に詳しい事は私達には判らないのだ。
鈴々が話そうとしたいのも理由の一つでは有るのだが下手に訊いて、鈴々が長く懐いていた物を思い出させ再び懐かせては意味が無いだろうと考えた為だ。
何より、今の鈴々の表情は以前は有った翳りが無い。
私達の知る、“あの頃”の鈴々と同じ様に──いや、それ以上に、だろうな。
晴れやかな笑顔をしているのだから。
それを私達が曇らせる様な真似は出来無い。
只でさえ、曹魏に敗北し、自分達の愚かさを痛感して凹んでいるのだから。
更に傷を抉る様な真似などしたくはない。
…ただまあ、今回の話だと桃香様を刺激しそうだから内心では戦々恐々。
桃香様が“どの様に”話を受け取るのか判らない。
故に、反応が怖いのだ。
「…そっか…なら、下手に訊かない方が良いよね…」
『──っ!!』
それは、独り言の様な呟きだったけれど。
私達は聞き逃す事は無く、しっかりと聞き取った。
今、桃香様は鈴々の事を、その心を心配されていたと受け取れる発言をされた。
それはつまり、先の朱里に対してした質問の真意とは鈴々の暴走の追及ではなく単純に今の鈴々を心配して訊ねられていただけ、と。
そういう事になる。
それは間違い無く好材料と言う事が出来る。
勿論、私達が気を抜くにはまだ早いのだが。
それでも、良い方向に傾く気配を感じている。
重苦しかった筈の雰囲気が今の一言で一変したと。
そう言える程度には。
「朱里ちゃん、頭を上げて
私は朱里ちゃん達の事も、鈴々ちゃんの事も責めようなんて思ってないから
さっきも言ったけど私には皆が無事に帰ってきた事の方が大事なんだから」
「…有難う御座います」
顔を上げた桃香様の口から私達や鈴々の事を不問とし赦すという言葉が出た事で朱里は今一度頭を下げると感謝を口にし、ゆっくりと顔を上げて姿勢を正す。
笑顔を浮かべる桃香様へと朱里も笑顔を返す。
主も自然と安堵から笑顔に為っている。
私は気を抜かないがな。
ただ、朱里の小さな身体が私には大きく見えた。
…まあ、気を抜いた途端に逆に普段以上に小さくなり可愛らしく為るのだろうと頭の中で想像してしまって口元が緩み掛けるが。
其処は気合いで堪える。
兎に角だ、私達にとっての一番の懸念だった問題が、片付いた事になる。
それには、一安心する。
(此処で鈴々を欠く事も、朱里や私が権限を失う事も絶対に避けなくてならない最重要課題だったからな…
朱里よ、頑張ってくれたな
本当に、良く遣ったぞ…)
此処では口には出せない為胸中での称賛になるが。
話し合いが終わったら直に感動を伝えよう。
序でに揶揄って弄り倒して緊張と焦燥で疲弊した心を癒すとしよう。
「それで実際に戦ってみて朱里ちゃん達は曹魏の事をどう見てるの?」
特に可笑しな様子も無く、桃香様は普通に曹魏の事を私達に訊ねてくる。
これは将師各々の立場での意見を求めての事だろう。
その言動を見る限りでは、曹魏の話をしても桃香様は平常心を保ったままだ。
(…もしかして私達の方が警戒し過ぎているのか?
実際の所、桃香様は私達が思っている程に暴走してはいないのだろうか?
…いや、今は違っていても可能性が無い訳ではない
此処で気を抜くのは危険…
疑う位で丁度良いか…)
主君の意志を疑い、それに備えなくては為らない。
こんな状況を、関係を。
私は、私達は、望んでいた訳ではないのだがな。
…そんな甘ったれた弱音を言ってはいられない。
私達の背負う命は、数百・数千で足りはしない。
領民だけではないのだ。
この戦に巻き込んでしまう“無辜の民(命)”の数は。
その重さを感じ取りながら私は朱里と視線を交わすと“先に話す”と伝える。
状況によっては話さないと決めていた“悪い話”だ。
それは軍師の朱里からより軍将の私からした方が後の影響が抑えられる為であり話す順番と話し手の立場が重要に為ってくる。
出来れば、話さないままで進めるべきなのだが。
其処は私達の賭けだ。
“もしかしたら…”という僅かな可能性に期待しての分の悪過ぎる賭け。
それを今から遣る訳だ。
緊張しない筈が無い。
見せないだけでな。
「率直に申し上げますが…
現状の我等の戦力では先ず曹魏と戦っても、勝ち目は有りませぬ
本の僅かにも、です
百回戦えば百回敗北する
それ程に差が有ります」
「なっ!?」
私の発言に対し驚きの声を上げたのは主だ。
こういう状況では今の様に隠さしたりせず素直な反応をしてくれる主の様な者が居るというのは助かる。
桃香様から自然に主の方に視線を向けられるからだ。
その上で話を客観的な形で桃香様に聞かせられる。
その意味は大きいのだ。
「先程、名を挙げた将師は我等が直接会った者だけに限られております
ですが、今回の偵察戦には孫策殿の所から参加をした黄蓋達が居ました
当然ながら、彼女達が兵に劣る訳が有りません
だとすれば、乱戦となった状況で彼女達が戦い敗れた相手とは間違い無く曹魏の軍将でしょう…
彼女達は“誰かを確かめる余裕は無かった”と言っていましたが、本当かどうか我等には判りません
勿論、沙和が戦ったという楽進が兵に扮し紛れていたという事も有り、確認する事が出来無ったというのは十分に考えられます
或いは、顔は見たものの、知らないから判らない…
そういう事も有るでしょう
しかし、彼女達が意図的に曹魏の情報を隠している…
その可能性が有ります」
それは黄蓋達と別れた後で私と朱里が気付いた事。
また、内容が内容なだけに鈴々と沙和には一切話してはいなかったりする。
下手に漏らされでもしたら孫策陣営との関係に大きな亀裂を生じさせ兼ねない話だからな。
此処で話すのは桃香様には絶対に話しておかなくては為らないからだ。
後で問題に為らない様に。
「そんな…どうしてだ?
孫策は協力関係を締結して偵察戦にも軍将を複数貸し出してくれたんだろ?
それなのに…何で曹魏側の情報を隠すんだ?」
そう訊いてくる主。
本当に此方が言いたい事を話し易い様な質問を自然にしてくれるので助かる。
意図して出来れば凄いが、自然でも十分。
実に有難い。
「隠す理由は判りませぬが少なくとも孫策陣営の方は我等に自軍の戦力を隠して置きたいのは確かですな
今回、参戦していた人物は黄蓋を含め五人でしたが、その顔と名を明かしたのは黄蓋以外は沙和の友である李典だけでした」




