肆
一度理解をしてしまうと、同じ疑問を懐く事は無い。
違う疑問を懐かないという訳ではないので、気になる事は存在するんだけど。
それらは一旦置いておく。
それよりも大事な事を今は訊かなくてはならない。
「雪蓮、孫権が曹魏に居て本気で戦える?」
自分の発した言葉により、場の空気が張り詰めた。
別に弛緩していた、という訳ではないのだが。
大きな疑問が解けた事で、思考が一息吐き休んでいた状態だった。
其処に、再び大きな問題を放り込まれたのだから緊張してしまうのも当然だ。
尤も、祭さんだけは予想をしていたんだろうな。
平然として、雪蓮の反応を見詰めているから。
そんな雪蓮はと言うと。
小さく苦笑を浮かべる。
“…まあ、祐哉なら訊いてくるでしょうけどね〜”と眼差しが語り掛ける。
…ちょっと照れ臭いけど、今は反応しない様に堪えて真剣な表情を維持する。
いや、本当に大事な事で、真面目な質問だから。
其処は間違い無いから。
「そうね…個人的な意見を──飽く迄も私の気持ちを言えば、困っちゃうわね
姉妹で殺し合いだなんて、冗談でも笑えないし…」
そう言って、肩を竦めると一つ深く息を吐く。
それは溜め息とは違う。
“決意”を伴う物だ。
「──でもね、その一方で凄く楽しみでも有るの
最後に会った時には私よりまだまだ“下”だった…
けど、その精神は私の知るあの娘よりも、ずっと強く逞しく成長して見えたわ
あの日から時は流れて…
あの娘が何れだけ成長して何処まで至ったのか…
私は確かめて見たいのよ
あの日、あの娘を送り出し“手離した事”が、本当に正しかったのかどうかを」
そう言った雪蓮の眼差しは強く、真っ直ぐだった。
“手離した事”というのがどういう意味なのか。
それは特定し難い。
孫家の当主としてなのか。
孫権の姉としてなのか。
一人の武人としてなのか。
一人の女としてなのか。
前提とする条件次第で色々違ってくるのだから。
質問すれば済む話だけど、訊ける雰囲気ではない。
──と言うか、その辺りは察するべき事だろう。
何でもかんでも訊けば良いという物ではない。
ただ、雪蓮の言葉の最後に“私自身がね”と続く様に思ってしまったのは、多分俺だけではないと思う。
それは“誰にも譲らない”という意志でも有るけど、“他の者に任せる事なんて出来無い”という意味でも有るんだと思う。
もし、孫権と戦うのなら、それは“自分の役目だ”と雪蓮は言っている。
誰かに背負わせはしない。
その戦いの全てを背負って生きていくのは自分だと。
そう、俺達に告げている。
「大丈夫、迷いは無いわ」
そして、更に明確に。
覚悟を口にする。
それを見て、俺は、俺達は自然と笑みを浮かべる。
それで良い。
己の思うが侭に真っ直ぐに突き進めば良い。
それを支えるのが自分達の役目なんだから。
その上で、雪蓮には方針を決定して貰わなくては。
此処から先の、俺達が進む道は何れなのかを。
「それで、どうする?」
“何を”なんて今更改めて言う必要など無い。
此処までの話の流れから、求められている事が何かは雪蓮も理解している。
と言うか、それが判らないのであれば、勢力の主君は務まらないだろう。
あの劉備でさえ、その辺は判っている……筈…多分。
…いや、うん、あれだな。
他所様の事だから、ほら。
気にしても無駄からね。
忘れよう、うん。
思考と気持ちを切り替え、雪蓮の言葉を待つ。
目蓋を閉じ、右手の指先を口元に当てて考え込む。
暫くして、目蓋を開けると雪蓮が口を開く。
「このままで行くわ」
“このまま”という事は、劉備との協力関係のままで曹魏と戦うという事。
それが雪蓮の選択(意思)。
だったら、俺達の遣る事は現状のままって訳だ。
大きな変更が無いって事は混乱も起きないから良い事ではあるな。
「…それで良いのね?」
古参──“黄巾の乱”以前から居る面子の中で、唯一反董卓連合以降に加わった面子である詠が雪蓮に対し確認をする。
同じ様に雪蓮を支える事を決意していても、共に有る時間の長さの違いからか。
こういう時に念を押す様に確認が出来る詠の存在は、実は重要だったりする。
高まった感情に流されずに一旦冷静になる事により、見える事が有るから。
「ええ、基本的には現状の準備を進めて頂戴」
「“基本的には”って事は何か変える点が?」
雪蓮の言った言葉の一部に引っ掛かりを感じて直ぐに確認し返す。
詠が確認する方向に空気を作ってくれたから気付いた事を迷わずに口に出来る。
この遣り取りの有無により作戦の精密さ等が違うので本当に大きかったりする。
「兵数は四分の一にして、残りは領内に返すわ
但し、その半分は益州との境界の砦や要所に回して
連れて行く兵は足の速さを優先して選抜して頂戴」
そう答えた雪蓮の言葉に、訊いた俺だけではなく皆が驚きを見せ──次の瞬間、納得してしまった。
“益州との境界”への兵の配置を指示する雪蓮が何を考えているのか。
何と無く見えたから。
「はぁ…それも“勘”?」
呆れた様に訊く詠だけど、悪感情は懐いていない。
軍師としては理不尽に思う能力なんだろうけどね。
頼りになるんだよ、本当。
勿論、過信し過ぎちゃうと危ういんだけどさ。
信じ過ぎなきゃ優秀過ぎる能力だからな〜…簡単には否定も出来無いんだよね。
「それも無くはないけど…何方かって言うと個人的な“用心”でしょうね」
「…判ったわ、直ぐに兵の選抜に入らせるわ」
“勘”頼みではない。
雪蓮の“読み”も加えての指示である事を受けて詠は穏達と頷き合って、雪蓮の決定を受け入れる。
もう後手は踏めない。
──side out。
趙雲side──
──七月二十二日。
黄蓋達と別れ、無理をせず身体を休めながら桃香様達本隊との合流予定地点へと向かい──到着する。
太陽が中天に差し掛かり、一層陽射しが強くなる中。
首筋を伝う汗を拭いながら構築された陣の中を歩く。
忙しく行き交う兵士達。
その姿だけを見たならば、賑わう街の大通りだとさえ言えなくもない。
それ程に活気に溢れている光景が広がっている。
勿論、それに相応しい数が動員されているからだが。
それは態々口に出して言う事でもないだろう。
(…陣中の雰囲気は決して悪くはない…今は、な…)
途中擦れ違う兵士達からは普段通りに挨拶をされるが士気の違いが判る。
少なくとも、自分達が先の偵察戦に出る前より士気は高まっている。
その要因が自分達ではない事だけは間違い無いが。
現状では詳細は不明だ。
ただ、悪い事ではない。
曹魏という桁違いの強さを誇る相手に対して無謀にも挑もうというのだ。
僅かでも恐怖心を懐けば、それは疫病の様に伝染して士気を殺ぐだけではなく、兵力その物を奪い去る事は目に見えている。
そういう意味では高いのは間違い無く好材料だ。
(こうなると、しっかりと休みを取って行動したのは正解だったな…)
此処に到着するまでの事が間違っていなかったと判り僅かに胸中に有った不安が払拭されてゆく。
目が覚めた鈴々は、直ぐに自分を見付けると抱き着き身体を擽った程に撫で回し痛い位に叩いてきた。
あまりにしつこいので私も怒ってしまったが。
“死んだ”と思っていたのだから無理も無い。
私自身、あの瞬間は確かに死を覚悟したのだからな。
だが、私は生きていた。
…まあ、目が覚めた時には血塗れだった為、己が身に何が起きたのか理解出来ず混乱してしまったが。
解ってしまえば単純な事。
あの血は私の物ではなく、此方の兵の血だろう。
それを私に掛け、私の血に見せていた、という訳だ。
…どう遣って、かまでは、解らなかったがな。
ただ、私の事も鈴々の事も関羽は殺す気は無かったと理解する事も出来た。
目が覚めた後の鈴々からは気を失う前には感じていた“危うさ”が消えていた。
問うた所で、関羽が素直に答えるとは思えぬが。
あの戦いは…恐らくは。
“義姉”から“義妹”への最後の教えだったのだと。
そう思えてならない。
尤も、呆気無い程に完敗し敗北してしまった沙和は、気が付いたら一人で憤慨し敵対心を燃やしていたが。
…まあ、仕方無い事だな。
そういった事情も有った為心身を落ち着かせる意味も含めて無理はしなかった。
その結果、疲れを見せたり敗北を感じさせる様な姿を晒さずに済んでいるのだ。
好判断だったと言えよう。
途中で鈴々と沙和とは別れ朱里と二人で桃香様の居る天幕を目指して歩く。
…二人はいいのか?
悪いが、会議に向いているとは言えぬからな。
居ない方が楽な位だ。
では、何処に行ったのか。
下手に放し飼いにするのも困った物ではあるが、今はその心配は無い。
疲れているからでもなく、寝ている訳でもない。
当然、自重しているなんて有り得ない事だが。
今だけは、放置出来る。
その理由は陣に有る。
兵の数が数だけに陣自体は巨大な街が移動していると思えなくもない。
そういう規模だ。
当然、軍だけでは維持する事は不可能である。
其処で、主の発案を採用し商人達に呼び掛けたのだ。
陣の中に“出店を出して、商売をしないか?”と。
勿論、足下を見て高値での商売は赦さないが。
この方法、よくよく考えて想像してみると実はかなり有意義だったりする。
先ず、商人達が陣内に居て商売する事で物質に対する不安が大きく減る。
無理に徴収するのではなく商売である為、利益が出て商人達には旨味が有る。
対して、軍は護衛を兼ねて行動するので、通常よりも安くさせられる。
加えて、食事等が偏らず、色々と楽しめるというのも士気を高め、維持する事に一役買っている。
商人達は安全に移動出来、道中に利益も出せる。
互いに利点が多い訳だ。
商人達が同行するのは決戦予定地に最も近い街までと決まってはいるが。
其処からは移動自体は一日掛からない距離だ。
士気の低下の懸念は少なく良い状態で臨める。
尤も、この方法は自分達にある程度の広い支配領地が有るから出来る事で。
以前では考えても実行する事は厳しかっただろう。
治安の問題も有ったしな。
そんな訳で、二人は陣内の出店に行っている。
…迷惑を掛けていないかが心配では有るがな。
「…朱里、どう思う?…」
歩きながら朱里の耳にだけ聴こえる程度の声で訊く。
自分達から離れてしまえば三歩も行けば周囲の喧騒に呑み込まれて消える様な、その程度の強さで。
視線は朱里には向けずに、足も止める事無く。
「…やはり、正直に言う事だけは出来無いかと…」
「…そうだろうな…」
陣の雰囲気は私から見ても過去最高だと言えよう。
勿論、曹魏や孫策の陣営がどうなのかは判らぬが。
私の知る限りでは、今より良い状態は見た事が無い。
それ位に良い状態だ。
だからこそ、この雰囲気を壊してしまう可能性の有る自分達の得た情報を正直に伝える事は憚られる。
少なくとも公に出来る様な“良い情報”ではない。
その逆に当たるのだから。
「…だが、桃香様達にまで隠す事は出来まい?…」
「…其処なんですよね…」
朱里を責めている、という訳ではない。
事実を伝えても、桃香様が考え直す事は無い、と。
そう判っているからこそ。
“伝えない方が良い”と。
そう考えているのだ。
“伝えても無駄”とは少し意味が違う。
そういう気持ち無いという訳ではないが。
もし、事実を伝えた場合。
桃香様が今以上に被害等を考えずに暴走してしまう。
その可能性が高いのだ。
追い詰められ、追い込まれ──その果てに狂った。
否、一線を越えたのだ。
越えては為らない一線を、狂気(想い)によって。
「…今の桃香様には民など見えてはいません…
…見えているのは…」
「…曹操だけ、か…」
視線は向けずとも、自分の言葉に朱里が小さく頷いた姿が見えている。
それ位に私達は同じ認識を懐いている。
今の中で“最善”を尽くし繋げる為に。




