弐
祐哉と姿を消したくなった誘惑を堪え、遣るべき事を先ずは済ませる為に二人で天幕へと向かった。
「祭っ、おかえりなさい!
無事で良かったわ…」
天幕に入ると顔を見るなり抱き付いてきた策殿。
それはまるで、幼子が母や姉に甘えるかの様に。
他者の目も気にせずに。
儂を抱き締めてくる。
普段は見せぬ意地っ張りなやんちゃ娘の素顔。
その姿を愛しく思う。
その一方で、冷静な自分は心底安堵している様子に、先の偵察戦が如何に危険な物だったのか。
改めて思い知らされる。
…当事者達の方が意外にも楽観的だった事は、皆には言えぬなと思った。
まあ、待つ身である皆との心境の違いは、ある意味で仕方無いのじゃろうがな。
戦場で、しかも曹魏を相手にして臆していては戦う事など出来はせんからのぅ。
楽観的──とまでは流石に言わんが、臆さずに相手に立ち向かえる気概を持って臨む事は当然と言えよう。
故に、その状況の違いから心境が異なる事は可笑しな事ではないと言える。
「安心なされよ、策殿
儂以外の皆も無事じゃ」
「そう…良かったわ…」
抱き締めてくる策殿の背をポンポンッ…と右手で軽くあやす様に叩きながら儂は皆の無事を伝える。
流石に先程の様子を儂から伝える事はせんがのぅ。
今の策殿の気持ちは判る。
堅殿──母を亡くした事が今でも心の奥に悲哀を刻み恐怖心を生じさせる。
それ故に策殿は出来る限り自分が戦場に立つ事を望み戦ってきた。
勿論、全てとは言えぬが、厳しいと思える戦場な程に自らを置いてきた。
それは儂等の事を危険から遠ざける為ではない。
策殿とて戦場が死に溢れた場所であると解っている。
なればこそ、本当に大切な存在を守る為に自分の手が届く様にしておきたい。
何も出来ずに死なせる様な後悔はしたくないから。
そういう意識から来ておるのじゃろうからな。
(しかし、堅殿との死別が策殿を強くした事もまた、確かな事じゃろうな…)
其処は複雑な気分じゃ。
堅殿の死無くして、現在の策殿は有り得ない事を。
儂は理解しておる故にな。
出来る事なら、堅殿が在り策殿の成長を見て喜び。
策殿には見えぬ所で儂等に嬉しそうに笑顔で惚気る。
そんな姿を見てみたかったという気持ちが有る事は、紛れも無い事実。
叶えられぬ願いじゃ。
そんな事を考えている内に策殿は気持ちを切り替えて儂から身体を離す。
その際、儂の着ている服が拭い損ねた左の目尻に輝く一滴を右手を伸ばし親指の腹で少しだけ乱暴に奪い、小さく笑い掛ける。
一瞬だけ、恥ずかしそうに顔を俯かせた策殿。
それを見て、思う。
祐哉にだけ見せる顔とは、違うのじゃろうが。
これは逆に祐哉には見せぬ顔じゃろうな、と。
“まだまだ子供じゃな”と胸中で苦笑する。
他者から見れば、微笑だと言われるかもしれぬが。
誰にも判らぬ事。
照れ隠しのつもりなのか、一つ咳払いをして、策殿はいつもの顔に戻る。
孫家の当主、呉の主君の、その顔へと。
「疲れているでしょうけど話を聞かせて頂戴」
天幕の中に有る椅子に座り此方を見て言う策殿。
それを見て一緒に来ている祐哉を始め、天幕内に居た穏・雛里・詠が真剣な顔に変わってゆく。
それだけで、自分達の得た情報が如何に重要なのか。
嫌でも理解させられる。
同時に、今此処に居るのが自分だけで良かった、と。
疲弊し切った春蘭達の姿を思い浮かべて思った。
「では、先ずは結果から…
此方等の完敗じゃった」
頭では割り切ってはいても実際に口にするとなると、如何に事実でも抵抗が有る“敗北”という一言。
武人として、“敗れて尚、生きている”という現実が悔しさを増幅させる。
それ故に、思わず漏れ出た溜め息には偽らざる自分の感情が滲んでいた。
そんな自分とは違い、儂の言葉を聞いた面々は驚きを隠せないでいる。
声こそ発しはしないものの表情は今の心境を物語る。
“まさか、そんな…”と。
声が聴こえそうな程に。
「…祭、数としては?」
「此方は儂等と、隠さずに将師として出ていた劉備の将師達以外は…全滅じゃ
ただ、彼奴等が用意をした兵力は彼方の領内の賊徒や何等かの罪を犯した罪人を集めておった物じゃからな
全滅しても痛くもない所か色々手間が省けて助かる、という状況じゃったわ」
“全滅”と聞いて、表情を険しくしておった穏達も、用意されておった兵士達がどういった者達であるか。
それを聞いて表情を変え、軍師として感心を見せる。
「…成る程、上手い手ね
領内に抱えている犯罪者を最初から“捨て駒”として前線に送り込み、偵察戦に利用した訳ね」
「先の戦いの為に主戦力は温存しつつ〜、偵察戦でも問題無く使えますしね〜」
「同時に将来的に領内での争乱の火種となるでしょう存在を一網打尽に出来て、本番の際に留守を襲われる心配も無くなりますし…
良く考えられた手です」
そして、口々に賛辞と受け取れる言葉を述べる。
特に、同門で友人でもある雛里は感心しただけでなく立案者──恐らくは諸葛亮なんじゃろうが──に対し対抗心を燃やしておる様に儂の目には見えた。
まあ、微笑ましい、という感じなのは雛里には凄みが足りんからじゃろうな。
…詠の様に成られては儂も困るから言わんがな。
「…祭さん、その具体的な兵数って何れ位なの?」
「諸葛亮の話では兵は凡そ一万三千という事じゃな
実際、それ位は居ったから間違いではなかろう」
「…それを何れ位の時間で全滅させた訳?」
「正確には判らんが…
少なくとも開戦から二刻と経ってはおぬ内に此方等は軍としての機能は失って、彼方等は掃討戦に近い形に入っておったのぅ…」
「二刻で瓦解、か…」
「凄まじいわね…」
思わず漏れた策殿の感想に全員が溜め息を吐いた。
“勝てる訳、それに?”と愚痴を吐きたくなる。
そんな戦力だと言えよう。
「…祭、相手の数は?」
「分断された戦場と乱戦、更には地形の影響も有ってはっきりとは…
多くなかった、というのが諸葛亮達の見解じゃな
多くても四千程、と…
ただ、個人的な見解ならば恐らくは多くても二千程、それ以下じゃろうと…」
そう言うと言葉に成らない騒めきが生まれた。
皆の動揺する気持ちも。
既に経験しておるからこそ理解する事が出来る。
簡単には信じられぬ故に、仕方が無い事じゃな。
その中で、策殿だけは儂を真っ直ぐに見詰めたまま、双眸を僅かに細める。
まるで戦の最中に居る様な剣呑さを奥に宿して。
「その根拠は?」
「兵の質の圧倒的な差…
その一言に尽きるのぅ…」
そう言って目蓋を閉じる。
思い浮かぶのは、あの日の戦場の風景に他ならない。
春蘭達とは違い、誰よりも全体を俯瞰し易い場所へと布陣していたが故に。
自分だけが、見えていた。
曹魏の兵の戦いを。
静かに目蓋を開けば策殿と視線が交わる。
言外に伝わってくる。
“それで?”と続きを促す策殿の信頼が。
「はっきり言って儂等には“屈指の精鋭”に見えた
じゃが、もしも、その考え自体が間違っておるなら…
曹魏の兵は、宅では儂等の副官以上じゃと言えよう
それが“基準”であれば、一万三千も数が居ようとも烏合の衆でしかない今回の全滅は当然の事じゃろう」
「そう…」
そう策殿は一言だけ呟くと背凭れに深く寄り掛かり、静かに瞑目した。
長い間、共に戦場に立ち、生き抜いてきたが故に。
策殿には儂の言葉の重みが理解出来たと言えよう。
「ちょっ、ちょっと!
“そう…”って一言だけで片付けられる様な軽過ぎる話じゃないわよ!
それが本当なら……っ…」
動揺しながらも否定したい不安(気持ち)に押し負けて声を荒げた詠。
しかし、想像しただけで、二の句を継げずに押し黙り静かに息を飲んだ。
無理も無いじゃろう。
声を出せただけでも十分に胆力を称賛出来る。
そういう話じゃからな。
「一対一で戦うとなれば、宅で曹魏の兵に勝てる者は儂等軍将を除いては恐らく十人にも満たんじゃろう…
康拳・丐志を含めてのぅ
しかも、勝負に為るのが、という前提でじゃ
当然、勝敗は別の話…
一対多で戦えば宅の兵にも勝ち目は有るじゃろうが、見た限り対多戦闘や乱戦も上手いと見える…
となれば、宅は最低でも、今の質を下げぬまま曹魏の十倍の兵数を揃える…
それが出来ぬのならば先ず勝ち目は無いのぅ…」
誰かが口にせねば為らぬ。
その状況故に、儂が話す。
あまりにも過酷な現状と、不可能と言える現実を。
重い、沈黙が支配する。
実質的に不可能である以上“無意味な戦い”と言える曹魏との一戦。
それを目前にしているのが今の我等の状況じゃ。
ただ、今なら引き返せる。
そういう状況でもある。
勿論、此方等が劉備の所と関わっている事は偵察戦で曹魏にしられている以上、何かしら不利益を被る事は避けられぬじゃろう。
しかし、曹魏と戦うのなら被害は不利益の比ではなく孫家が、呉が、終わる。
その結末を覚悟しなくては為らぬじゃろうな。
それを考えれば、退く方が選択肢としては正しいと。
そう思えるじゃろう。
最終的に決めるのは策殿に変わりはないが。
意見する事は出来る。
それでも言葉を発せぬのは簡単な話ではないから。
何より、曹魏の目指す所が我等には不明な為。
計り知れぬが故に、悩む。
その事を理解しておるから皆、黙ってしまった。
そして、暫しの沈黙の後、策殿が目蓋を開く。
「祭、劉備の所から出てた将師は誰なの?」
「軍師は諸葛亮、軍将には張飛・趙雲・于禁じゃ」
「そう…まあ、今の劉備に出せる戦力としては全てに近いと言えるわね…
飽く迄、私達が把握してる戦力の内では、だけど」
「そうじゃろうな」
話題を逸らす様に見えて、実は更に過酷な事実に向け話は進んでおる。
策殿は察しておるが故に、既に覚悟は出来ておるが…果たして祐哉達は如何様な反応をするのか。
想像…はしたくないのぅ。
まあ、祐哉達は聞いている事しか出来ぬか。
想像を上回る事じゃから。
「──で?、曹魏の将師は誰が出て来たの?
雑兵一万三千なら、高順か呂布が一人で出てれば楽に片付く範疇でしょうしね
今更驚く事じゃないわ
兵が居る時点で二人の様な存在の単騎でないのなら、其処に居た筈よね?
貴女達を打ち負かした上に態と“見逃した”者達が」
容赦無く、しかも、儂等の真新しい傷口を抉る策殿に思わず苦笑してしまう。
そんな儂を見て笑う策殿は“その位で凹んで終わる程脆弱ではないでしょ?”と挑発的な眼差しを向ける。
“やれやれ…”と思いつつ自分が生涯仕える主君は、この方しか居らぬ、と。
そう改めて思わされる。
「曹魏の軍師は荀或のみ、軍将は関羽のみ──という表向きな状況で、諸葛亮が儂等を扮装させて兵の中に紛れ込ませた様に、曹魏も兵の中に紛れ込ませる事で儂等に打付けてきよったわ
一対一にし春蘭に夏侯淵、季衣に典韋、真桜に楽進、蒲公英に馬超、儂に黄忠と相応しい相手をのぅ」
「なっ!?、馬超に黄忠っ?!
あの二人が曹魏にっ?!」
「あ、あら〜…それはまた豪華な布陣ですね〜…」
「す、凄過ぎます…」
詠達、軍師陣は驚きながら口々に感想を漏らす。
別に儂に訊ねているという訳ではない。
本当に、素直な感想。
それに過ぎない。
そんな中、策殿も儂も何も言わない一人へと眼差しを自然と向けていた。
「驚かないのね、祐哉は」
そう策殿が言った瞬間に、詠達の視線も祐哉に向かい注目する格好になる。
普通なら動揺している筈の祐哉なのに、今は動揺する様子は見られない。
普通に落ち着いている。
「…まあ、世に名も実力も知られている二人が今まで表に出て来ない上に劉備の所にも居ないとなると…
曹魏しか無いからなぁ…
正直、外れてて欲しいとは思ってたけど…
劉備に仕えるっていうのが想像出来無かったからね
寧ろ、そういう意味でなら物凄く納得が出来る
全然、違和感もないしな」
「あ〜…確かにね〜…」




