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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
740/915

         拾


失意の中、自分の仕事へと戻る足取りは重い。

お嬢様との久し振りの触れ合いだったというのに。

上がりに上がった気持ちの遣り場を失った今、何処に向ければ良いのか。



(んー…此処で八つ当たりとして麗羽様に手を出すと猪々子さんだけではなく、彼方此方から不評を買ってしまいますよね〜…)



折角此処まで大人しくして入り込んだのだから。

それを、一度の気晴らしで台無しにしてしまうのは、勿体無い所ではない。

それこそ馬鹿ですよね。


となると、此処は大人しく我慢して仕事に打ち込む。

それが最善ですかね〜。



「…ん?、ああ、七乃か」



一人で通路を進んでいたら曲がり角を曲がった所で、御主人様と鉢合わせする。

私を見た瞬間、一瞬驚いて顔を強張らせていましたが直ぐに気を抜いた様に顔を弛緩させた。

…ちょ〜っと失礼な態度な気がしなくもないですが、御主人様にとっての私とは“気を抜いても大丈夫”な程度には信頼を得ている。

そう考えれば、悪い事とは言えないんですけどね。

気分的には面白くはないんですよ、特に今は。


だから、でしょうかね。

気晴らしを兼ねて、此処は意地悪をしてしまいます。



「私なんか、ですよ〜」


「へ?、…あっ!、違っ、俺は別に、そんなつもりで言ったんじゃないって!」



慌てて否定する様に答える御主人様の態度は、決して主君らしくはない。

寧ろ、かなり庶民的。

威張り散らす事はしないし命令する様な事も無い。

勿論、必要な状況下でなら命令はしていますが。

基本的に命令している姿は見ませんね。

何方等かと言えば命令より“お願い”をしている、と言った方がしっくりくると個人的には思います。


だから、こういう場面での遣り取りも“上から目線”ではないんですよね。

慣れてしまうと気安くて、好感を持てるのだけれど。

主君としては微妙です。

だって──付け入る隙が、多過ぎますからね。

怖くて表に出す様な真似は私だったら出来ませんよ。

どんな問題を生み出すのか判りませんから。

そういう意味では桃香様や朱里ちゃん達は懐が深いと言ってもいいでしょうね。



「ふーん…御主人様?

それって“どんなつもり”なんですか〜?」


「えっ?、あ、え〜と…」



咄嗟に否定してしまったが実際には“何が”問題かを理解出来ずに困惑している御主人様の姿を見ながら、ふと、思い付く。



(…あれ?、これってば、意外と好機ですよね?)



お嬢様との逢瀬を邪魔され不満なのか確かですけど、“今後の事”を考えたなら今の状況は悪くない。

勿論、私次第ですが。

相手は、百戦錬磨と名高い御主人様ですしね。

不快感は少ないでしょう。

私個人としても御主人様に嫌悪感は無いですし。

…うん、悪くないですね。



「御主人様?、もし本当に悪いと思っているのなら…

一つ、“お願い”をしてもいいですか?」





御主人様と約束を交わし、先ずは片付けるべき自分の仕事へと戻る。


幸いにも、と言うべきか。

未だに警戒されている為に重要な仕事を抱えていない状況は、こういった時には有難く思えてしまう。

彼方には、皮肉な結果だと言わざるを得ないが。

そんな事は私にとっては、どうでもいい事ですけど。

──あっ、でも、丁度良い揶揄いのネタに出来るので悪くはないですね。


そんな事を考えつつ机上に広げている竹簡に走らせる筆は止めない。

伊達に袁家で様々な仕事を熟してきてはいない。

この程度なら余裕です。


尤も、自分から好き好んで忙しく働きたいとは微塵も思いませんけどね。

出来る事なら、楽をして、でも権力は握りたいです。

あ、大陸制覇とかには私は興味は有りませんから。

お嬢様が望むのなら、私は叶える為に頑張りますが。

自分の考えで遣ろうなんて全く思いませんよ。

面倒臭いだけですから。


それは兎も角として。

先程の偶然は私にとっては本当に天佑だと言えます。



(流石に其処まで意図して無いでしょうからね〜)



何だかんだで、お嬢様への私の忠誠心にばかり意識が傾いてくれている、と。

そう言えますからね。

曹魏という存在が常に頭に有る為に、それ以外に対し無意識な所で“手抜き”をしてるんですよ。

だから、一度納得したなら他の可能性を疑わないで、それだけだと思い込む。

今回の隙は、そうした中で生じた物ですからね。



(…でも、ちょっと怖くも有るんですよね〜…)



桃香様や朱里ちゃん達なら問題無いんですよ。

曹魏しか見えていないから全然怖くないですから。

流石に堂々と動けるまでに緩くは有りませんが。

遣る事さえ遣っていれば、勝手に警戒心を下げてくれ評価と信頼を上げてくれる人達ですからね。

その辺りは凄く楽ですから助かっています。


でも、王累さんは彼女達と違いますからね〜。

はっきり言ってしまうと、私の行動を見抜かれている可能性は棄て切れません。

事実、お嬢様に会いに行く事は見抜かれてましたし。

猪々子さんを上手く使って私を牽制していますから。

其処は怖い人ですよね。


ただ、この展開を読む事が出来ていたか否か。

其処は断定し難い事です。


読んでいたとしたら。

何も対応策を打っていない事が気になります。

少なくとも、御主人様には演技は無理でしょうし。

御主人様は何も知らないと考えるべきでしょう。

…誰かを監視に付けている可能性は否定出来ませんが今の所そういった気配とか視線は無いんですよね〜。



(油断はしませんけど…

楽観視は禁物ですね〜…)



此処は大きな分岐点。

直ぐに結果に直結するとは思いませんが、先々の事を考えたなら、決して方法は悪くはないでしょう。

お嬢様も、御主人様の事は気に入っていますし。

懐いていますからね。

悪い相手では有りません。




暗く、深い、闇に包まれた視界の中に、窓の隙間から僅かに射し込む月明かり。

それが少しずつ強くなり、部屋の中を照らし出す。


そのまま私の顔を、目蓋を横断する様に光の筋は伸び太さを増していった。

その月明かりに鬱陶しさを感じながら目蓋を閉じる。

眠気は…無くはない。

出来れば、このまま意識を眠りに沈めてしまいたい。

しかし、寝苦しさが眠気を掻き混ぜる様に薄れさせ、ぼんやりとしていた意識をはっきりとさせてゆく。

暫しの抵抗も虚しく。

眠気は何処かへ迷子に。

仕方無く目蓋を開ける。

そして身体を起こし寝台を降りると、左右に軽く頭を振りながら窓へと向かって歩いて行く。

窓に振れた右の掌。

自分の体温より冷たい木の感触が心地好い。

顔を擦り寄せ頬擦りしたくなってしまう位には。

勿論、遣りませんけどね。

左手も伸ばし、両手で窓を開け放てば、室内に籠った熱が外へと逃げ出す。

逆に、外の日中に比べると全然涼しい風が部屋の中に流れ込んでくる。


一糸纏わぬ自分の肢体を、月明かりが照らし闇の中に浮かび上がらせる。

それと共に、微風が優しく撫でて愛でてゆく。

見馴れている筈なのに。

自分の身体が妙に艶を帯び妖しく感じてしまう。

普段とは違う輝きを纏ったかの様に見えてしまう。

ちょっとした自己陶酔。

でも、嫌な気はしない。

女として自分を意識すると悪い気はしないから。


けれど、そんな余韻に浸る時間は僅かだった。



「…変な臭いですね〜…」



まるで自分達の行為の様に窓という点を介して空気が出入りしている。

その流れによる風に乗って漂ってくる生臭さが鼻腔を侵してくる。

事後の為、仕方が無いが、あまり好ましい匂いだとは思えなかった。

“世の女は平気なの?”と当然の様に疑問に思う。

まあ、自分の場合は初めてだった事も有りますから。

もしかしたら、馴れていく物なのかもしれませんが。

この匂いに自分が慣れる。

その未来を想像出来無い。

まあ、其処は演技をすれば済む話なんですけどね。



「…にしても、百戦錬磨と聞いていましたが…

あんなにも痛い物だなんて思いませんでしたね〜…」



はっきり言って、私の方は快感なんて皆無でしたし、ただただ痛かっただけ。

数多の女を虜にしてきたと聞いていた御主人様ですが今は嘘にしか思えません。

…ああいえ、ある意味では間違いという訳ではないのかもしれませんね。



「好きな人となら…つまり恋愛感情という名の媚薬が効いていれば、痛みさえも幸福に感じる、と…

そういう事でしょうね〜」



そう考えれば納得出来る。

生憎と、私には恋愛感情は一切無いですからね。

好感は有りますが。

それだけですから。

痛かっただけ、というのも当然なのかもしれません。




ググ〜ッ!、と両手を組み頭上に上げて身体を伸ばし肺に溜まった熱を吐き出し新鮮な空気を吸い込む。

…匂いは気にしないで。


でも、ふと気になったのは別の匂いだった。

自分の右腕を曲げて顔へと近付けて嗅げば──臭う。

汗の匂いがしている肌。

それも、自分とは違う汗の匂いがしている。



「…まあ、当然ですよね〜

肌を重ねていた訳ですから汗の匂いも移りますよね…

全然嬉しくないですけど」



やはり恋愛感情というのは重要な要因だと思う。

どうしても自分は不快感を懐いてしまうから。

嫌悪感ではない辺りは多分私が最初から理解している事が要因でしょうね。

抑、そうでなければ自分で自分の幸せを放棄する様な真似はしませんし。

私としては、結果的に私の幸せに繋がると思ったから実行した訳ですから。

普通は遣りませんよ。



「それにしても、念の為に娼婦の方に“上手く遣る”方法等を訊いておいたのは正解でしたね〜…」



色々と有りましたけど。

基本的には男性に任せて、自分からは仕掛けない。

自分から仕掛けていいのはある程度回数を重ねるか、関係が深くなってから。

若しくは、男性が此方等が経験豊富──とまでは言う訳ではなくても、ある程度経験の有る女だという事を知っている場合。

男性が明らかに自信が無く初めてである場合。

但し、男性に自信を持たせ意識出来る様にさする為に“演技する事”が大事。

兎に角、“健気な女性”を印象付けると男性は意外と気持ちが楽になる。

後は、男性が満足する様に頑張って堪えて凌ぐ。

女は演技力(愛嬌)と忍耐が大事、という事でした。


そういった事を踏まえて。

彼女達を尊敬しますね。

男性を悦ばせる。

それに関しては、私なんて遠く及びませんから。

想像以上に大変な事だって判りましたからね〜。




一夜が明け、また忙しくも暇でもない、それでも遣る仕事はそれなりに有る。

そんな一日が始まった。


ただ、私が思っていたより御主人様は一度内に入れた相手には甘い様ですね。

桃香様達が居ない事も有り欲望に正直ですし。



「…七乃、大丈夫か?」


「…心配する位でしたら、もう少し労って優しくして下さってもいいのでは?」


「うっ…御尤もです…」



チクッ…と一刺しする様に愚痴に近い一言を返せば、御主人様は自分のした行いを反省する様に項垂れる。

朝の内に片付けられる筈の仕事は残ったまま。

私は御主人様の腕の中。


揶揄い、苛めるだけなら、更に重ねる所ですが。

落として、上げる、という事が今は重要なんですよ。



「…でもまあ、偶になら、御主人様の逞しさを感じる事が出来ますからね…」



──とか言って見せながら上目遣いで、“貴男になら何をされても構いません”という風に錯覚をしそうな態度と眼差しを向ける。

これも駆け引きですね。

恋愛感情は皆無ですが。


その一言を聞き御主人様は顔を上げる。

お互いの身長差から私とは途中で視線を合わせる事に為るんですけど、ピタッと御主人様が動きを止める。

演技の出来無い方ですから一目で“見惚れている”と理解出来る訳です。

ですから、“重ね撃ち”も意外と容易くなります。



「御主人様、今宵も七乃にお情けを頂けますか?」


「──っ!!、七乃っ!!」


「あっ!?、御主人様っ!

またぁっ──」



盛りの付いた獣の様に。

再び私を押し倒す。

私の策は順調に。

積み重なってゆく。

…仕事は進みませんけど。



──side out。



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