漆
一つ、小さく息を吐く。
そうして、落ち着く。
「はい、勿論です
ただ、現状では我が領内に貴男方を迎え入れる事は、出来ません」
そう私は高定さん達に対し真っ直ぐに見て答える。
その中で童開さんは此方を睨み付けてくる。
“アアァ?、おい、手前ぇ舐めてんのか?”と今にも言い出しそうな凄く剣呑な気配がしている。
現状、直視している相手は高定さんだけだけど。
…ちょっと視線を合わせる気には慣れないかな。
だって、怖いし。
猊乱さんは…うん、不明。
正直、何を考えているのか全然判らない。
そういう意味では、此方も違う意味で怖いかな。
不気味、というか…ね。
そんな状況で、高定さんは静かに私を見詰める。
好好爺の様な雰囲気を纏う少年の様な笑顔を浮かべ。
だけど、その見た目に対し場の空気は張り詰めている状態だったりする。
勿論、重要な会談中だから緊張感が有って当然。
宅の、顔見知りだけで遣る会議とは違うのだから。
「ふむ…その言葉を儂等がどう受け止めるのか…
それを理解した上での物と思ってもえぇんかのぉ?」
此方の反応を窺うかの様に少し回りくどい言い方をし私を試してくる高定さんを怯む事無く見詰め返す。
そう返されるだろう事は、私も予想していた。
だって、私自身、意図的に誤解されても可笑しくない言い方をしたのだから。
この結果は想定の範囲内。
今、この場で重要なのは、“話を聞いて貰う”事。
そうする事で話の主導権を握る事が出来るから。
最初から話を纏めようとは考えてはいけない。
相手側に話を聞かせる事が何よりも重要になる。
そう王累さんからも事前に言われているから。
「はい、私が何を言っても理解しようとして頂けない様なら意味は有りません
話し合いにも為らない事は言うまでも有りませんし」
「──手前ぇっ!、っ!?、チッ!…」
“話しも出来無い愚か者と話をしても意味なんて全く有りませんよね?”という意図を言外に含む挑発的な言葉を聞き、座る椅子から反射的に腰を浮かせると、掴み掛かる勢いで卓越しに巨腕を伸ばそうとしてきた童開さんだけど、真横から無言のまま伸ばされてきた高定さんの右腕に阻まれ、動きを止めると高定さんをチラッと見て、一つ舌打ちをして渋々といった感じで静かに椅子に座り直した。
ドカッ!、と座らない辺り不興を買わない為なのかもしれない。
…内心、ちょっと動揺して焦ったのは内緒。
そして、安心した事もね。
流石に見せてしまったら、色々と拙いから。
頑張って平静を装う。
こういった駆け引きをした事が無いから不安だけど。
王累さんが居てくれる分、“失敗しても大丈夫!”と気持ちを楽にしてくれる。
ご主人様には悪いんだけどこういう時には頼りにする事は出来無いもんね。
ご主人様も私と一緒。
失敗する方だから。
其処は仕方が無いよね。
「…成る程のぉ
なら、“本題”を聞かせて貰えるかのぉ?」
少しだけ間を置いて。
高定さんは、私を見詰めて言外に“私の話を聞く”と意思を含めて言う。
それを聞いて、取り敢えず第一関門を突破した事実に胸中で安堵する。
この状況を作れなければ、話は進められない。
進んだとしても、主導権は此方には無いのだから。
高定さんの言葉に、小さく頷きながら、息を吐く。
緊張感を切らさない様に、気を付けながら。
「私達は今、曹魏との戦う為の準備を進めています
その戦いに際し戦力として協力して貰いたい…
そう思って、今日の会談に私は臨んでいます
その事は貴男方も御承知の事だとは思いますが」
「…ふむ、そうじゃのぉ
儂等を望む理由が何かは、判っておったのぉ…」
曹魏と私達は特に表立って対立してはいない。
飽く迄も私の意思であり、公的にな事ではない。
しかし、予想は出来る。
領地の大部分と接するのは曹魏ではなく、孫策さんの治めている領地。
北よりも東の方が私達には警戒するべき脅威。
武陵蛮の童開さんが居れば相手が孫策さんの可能性も考えられると思う。
寧ろ、一番可能性としては高い相手だと言える。
でも、そんな私達が会談し戦いの準備を始めたなら、戦う相手が誰なのか。
気付かない訳が無い。
だから、高定さんの言葉は何も不思議に思わない。
それ位は当然だから。
「当然ですが、戦いに勝ち曹魏を破ったなら、全ての領地とはいかないまでも、新たに領地を獲られます
その領地を貴男方に優先し譲渡します」
「ほぉ…」
驚きを見せる高定さん。
だけど、その口調とは違い眼差しに緩みは無い。
双眸の奥には、毒蛇の牙を思わせる不気味さが宿る。
一瞬でも隙を見せたなら、一噛みで致命傷となる。
そんな危険さを感じる。
その眼差しに気圧される。
外からは見えない背中を、冷たい汗が流れ落ちる。
心臓の音が喧しく煩わしく感じる程に大きくなる。
つい“静かにしてっ!”と叫びたくなる位に。
そして、急速に肥大化する“表情には出ていない?”“顔に汗は掻いてない?”“不自然な態度になったりしていないかな?”等々の不安が胸中に渦巻く。
平静を保ち、冷静でいたいとは思っているけど。
自分の状態が見えない事がこんなにも不安になるとは思いもしなかった。
経験の無さが、自分自身を追い詰めてゆく。
その緊張感と重圧感に私は押し潰されそうになる。
そして──耐え切れずに、息を飲んでしまった。
無意識の事だった。
でも、それが如何に危うく不味い事なのかを。
私は教えられている。
だから、喉が鳴った瞬間。
“遣ってしまった!”と。
後悔と自責が生じる。
「──勿論、貴男方が他の領地を望むのであれば考慮する用意も有ります
それは劉備様の一存というだけでは有りません」
「──っ!?」
「ふむ…」
高定さんは静かに納得した様な声を漏らす。
同じ様に声を出し掛けて、どうにか、堪える。
私の喉が鳴った音を隠し、此処までは一言も喋らずに話を聞いているだけだった王累さんが、此処で唐突に口を挟んできた。
その事には私も驚く。
同時に、その理由は私への気遣いである事にも気付き心から感謝する。
普通なら、怪しまれそうな唐突過ぎる事だけれど。
今回は、怪しまれない。
何故なら、私の言葉が単に“この場凌ぎ”ではないと強く印象付ける為の物。
王累さんが一言添える事で説得力を生み出していた。
単純な誤魔化しではなく、正当な発言として力を持つ言葉だったから。
それにそれだけじゃない。
加えて高定さん達の視線を瞬間的に自分の方へと奪い取っていた。
それまで黙っていただけに思わず王累さんを見るのは可笑しな事ではない。
そして、ずっと見ている訳ではない。
それは本当に僅かな時間。
だけど、それで十分。
私が冷静になるには十分な時間だったと言える。
一瞬だけでも高定さん達の意識から外れた事で、私は不安や重圧から解放され、緊張感を保ったままの良い状態で、思考を切り替える事に成功していた。
全ては王累さんのお陰。
本当に私の傍に居てくれて良かったと思う。
再び、視線が交わる。
高定さんを真っ直ぐに見て私は王累さんの話の続きを自らの口から語る。
「仮に、今の益州を領地に望むのであれば、戦いの後新しく獲た領地へと私達は移る事にします
ただ、童開さん達の一族が以前住んでいた地は私達の手には入りません
ですから、其処は私達から提示する事は出来ません」
金名さんが言っていた様に“行き場が無い”彼等には報酬としては最高の物。
彼等の領地を与える。
これが協力を勝ち得る上で最も強い手札になる。
そう私達は確信している。
しかし、その名が示す様に武陵の地は私達の一存ではどうする事も出来無い。
孫策さんの領地だから。
そう言うと判ってはいても事実に対して眉根を顰める童開さんの顔が視界の端にチラッ…と映った。
けど、言って置かなくては為らない事だから。
これは仕方が無い。
例え理解して貰えなくても構わないから。
きちんと話しておく事が、何よりも重要なだけで。
童開さんの気持ちは私達に一切関係無い。
どうでも良い事だから。
そういう意味では、彼等の主権を握っているのだろう人物が高定さん──叟族の長だった事は私達にとって好材料だと言える。
益州という私達の所有物を交渉の場に持ち出しても、何の問題も無いから。
だって、私の領地だもん。
どういう風に使ったって、全て私の自由だから。
だから、楽々と話を進める事が可能になる。
それは本当に大きい。
高定さんは会談が始まって初めて自分から目を外し、瞑目して考え込む。
童開さんは何も言わないで腕を組んでいる。
猊乱さんは…まだ動きすら見えない。
急に静かになった室内には異様な緊迫感が漂う。
ギリギリの、鋭利な刃物が首筋に当たっている様な、張り詰めている雰囲気とは全く違っている。
“喋ってはいけない”と。
まるで、祖父や長老さんを前にして説教をされている子供の様な感じかな。
相手の反応待ちって事。
ただ、そういった雰囲気に呑まれてはいけない。
だから、自分から退かない様にする為に高定さんから絶対に目を逸らさないで、頭の中では関係の無い事を適当に考えて待つ。
彼是と対処しようとすると想定外の時に戸惑う。
また相手を意識し過ぎると無意識の内に相手に対して主導権を渡してしまうので出来る限り意識しない。
そうして待つ事、暫し。
ゆっくりと目蓋を開けると高定さんは口を開く。
「…玄徳嬢や、その条件が本当ならば破格じゃが…
自分が言っとる事の意味は判っておるんじゃな?」
そう言った高定さんに対し私は真っ直ぐに見詰める。
決して感情は出さない。
作り笑顔では駄目だけど、余裕過ぎない程度の体で、笑みに近い、真剣な顔。
難しいけど練習した通りに気持ちを作って、入る。
“よし、食い付いた!”と胸中では歓喜しているのは絶対に内緒だけど。
それ程に、今の高定さんの一言は欲しかった物。
勿論、まだ交渉は纏まった訳ではないんだけど。
それでも、この交渉は既に七割方決まったと言っても間違いではない。
それ位今の一言には私達の優勢を物語っている。
だからこそ、落ち着く。
焦る必要は無い。
溜め過ぎては駄目だけど。
此処は自分の間で、口調で話す事が大事な所。
主導権を確実に握る為に。
「私達には、私達の考えが有っての言葉ですが…
もう少し具体的に、言って頂けると助かります」
その挑発的な言動に対して短気だろう童開さんは再び苛立ちを露にするけれど、一度高定さんに止められた事も有ってか、睨み付ける程度で我慢している。
高定さんは少しだけ双眸を細めて私を見据える。
その眼差しが語っている。
“儂等を試す気か?”と。
今までの視線の中で、最も強く威圧感を伴う。
はっきり言って、怖い。
だけど、もしも此処で私が退いてしまったら。
曹魏に、曹操さんに勝てる訳が無い。
そう思えば、そんな怖さは容易く払拭出来てしまう。
比べるまでも無いしね。
そんな私の気持ちの変化に気付く事無く、高定さんは“仕方が無い”と言う様に小さく息を吐いた。
「…お主の言う通りなら、儂等は戦いの間だけ協力し領地を貰う、と解釈出来るという訳じゃが…と、儂は訊いておるのじゃよ」
「そうですね
貴男方が、そう望むのなら私達としては、その条件で構いませんよ」
少しだけ苛立った様な体で高定さんは言う。
それが、態とだという事は私も判っているので特には気にしない。
“誘い”なのだから。
それに対して私は肯定する様な言い方で返す。
笑顔も忘れずに。
但し、“選択権”は彼等に委ねている事を強調。
また“必要なのは飽く迄も曹魏との戦いの間だけ”と見せておく為にも。
この辺りの事は王累さんとしっかりと事前に話し合い決めてから、今回の会談に臨んでいるしね。
動揺したりせずに、冷静に対応さえ出来れば。
問題無く出来る。
王累さんにも“劉備様なら大丈夫です”と言われたし自信を持っている。




