陸
一度話が纏まってしまえば動き出すのは早い。
特に今回の場合、最初から一番難しい事前準備が全て整えられている状況。
会談予定の日までは僅かな時間しかないけど。
特に遣るべき事は無い。
普通なら、相手に関しての情報を集めて、その交渉を成功させる為に考えたり、対策を用意するけど。
今回は必要は無い。
必要なのは私が向き合って意思を示すだけ。
それ以外に方法は無い。
だから、準備するとしたら私の気持ちの準備だけ。
「桃香、頑張ってな」
「うん、ご主人様も此方の事はお願いね」
「ああ、判ってる
桃香達が居ない間も準備は俺が進めておくよ」
そう笑顔で話す。
会談に向け出立する私達をご主人様が見送りに来てる状況だったりする。
私に同行するのは彼方との面識が有る金名さん。
朱里ちゃんの代理として、交渉の詳細を纏め、決める為に王累さん。
この二人だけ。
勿論、護衛の兵は居るけど会談の場には入れない。
まあ、当然なんだけどね。
ご主人様が残るのは私達が揃って抜けてしまうと後が危ういから。
本当なら王累さんが残って指揮を執ってくれるのが、一番安心なんだけど。
私とご主人様だけだと色々不安でしかない。
朱里ちゃんが居ないから。
金名さんが協力してくれる可能性は無くはないけど、基本的には中立の立場。
だから、場を設けた以上は何方等にも肩入れ出来無いというのが実情。
勿論、金名さんとしては、私達に交渉を纏めて貰った方が利を生むんだけど。
今回は流石に下手な真似は出来無い相手だから。
中立を保つんだとか。
其処は仕方が無いよね。
──で、王累さんが一緒に来る以上、ご主人様が後に残らないといけない。
僅か三日程の事なんだけど油断出来無いのが、私達の内情でもあるから。
後ね、ご主人様は感情的に為り易いから。
“交渉には向かない”って金名さんに言われてたし。
ご主人様が落ち込んだから励ましたけど。
…正直に言うと、実は私も納得していたりする。
“天の御遣い”の名を使う事が出来る──通じるなら是が非でも居て貰うけど。
今は意味が無いから。
だから、今回は我慢して、待っていて貰う。
ご主人様が私から隣に居る金名さんに顔を向けた。
「…金名、心配は無いとは思うけど…頼むぞ?」
「はい、勿論ですとも
どうぞ、御安心下さい」
ご主人様の真面目な言葉に笑顔で答える金名さん。
それを見て、眉根を顰めるご主人様の顔には“お前の何に安心しろと?”という疑念が浮かんでいる。
…私も、商人の金名さんの“御安心下さい”を信じる気には為らない。
尤も、利益(目的)が明確な分だけ気持ちは楽だけど。
これがもし、私達を支持し“助力したいから”という理由だけだったら、交渉に集中出来無かったと思う。
目の前の相手よりも自分の背後に居る者の方が怪しく不気味だと思うから。
会談の地となる街に無事に到着し、一夜を過ごす。
“緊張して眠れないかも”なんて思っていたけど。
意外と、ぐっすりと眠れた自分に驚いている。
良い事だから気にする事は無いんだけどね。
そのお陰で、今日の会談に集中して臨めるから。
泊まっている宿を出ると、金名さんの案内で街外れに立つ一軒の屋敷に着く。
訊けば金名さんの所有する屋敷の一つなんだとか。
官吏等の屋敷に比べれば、小規模ではあるが。
庶民的な規模でもない。
小さ過ぎず、大き過ぎず。
庶民には親い憧れを。
権力者には分を弁える事で優越感を与える。
そんな印象を受ける屋敷は金名さんの商人としての、心掛けている意識が見える様な気がした。
金名さんに促され屋敷内に入って行く。
そのまま、私達は一室へと通される。
「予め早めに来ましたので此方で暫し御待ち下さい
私は先方の御出迎えの為に席を外しますが何か御用が有れば遠慮無く屋敷の者に御申し付け下さい」
「判りました」
「では、失礼致します」
そう言って金名さんは私と王累さんを残して部屋から出て行ってしまった。
けど、それも仕方が無い。
今回は、私達よりも相手の方が立場的には上だ。
金名さんの仲介によって、会談に応じてくれた相手を重んじるのは当然の事。
そういう意味では、私達も言動には気を付ける必要が有るんだと思う。
勿論、下手に出過ぎるのは駄目なんだけど。
高圧的な態度も駄目。
その辺りが難しい。
「貴女ならば大丈夫です
普段通りの劉備様でしたら何方等にも傾く事は無く、程良い感じになります」
そう言う王累さん。
まるで此方の心を読む様に笑みを浮かべ穏やかな声で励ましてくれる。
背中を押してくれる。
知らず知らず懐いた不安に押し潰されそうになるけど誰かが支えてくれる。
その“誰か”が居る事を。
独りではない事を。
本当に頼もしく思う。
私は幸せだと思う。
「うん、ありがとう♪」
然り気無い気遣い。
だけど、それは確かに私の心を軽くしてくれる。
卓上に出されている茶杯を両手で持ち上げ、一口。
熱過ぎず、温過ぎず。
丁度良い、その加減。
城で働いている侍女の人も優秀だけど、商家に仕える使用人の人は違った意味で優秀だと思う。
勿論、全ての商家が此処と同じではないんだろうとは思うんだけどね。
何て言うか、気を配る所が微妙に違うと感じる。
口では説明出来無いけど。
それは兎も角として。
時間が有るなら、念の為に相手の事を訊いて置こう。
「ねえ、王累さん
今日これから会う人達ってどんな人達なの?
その人柄とかだけ、簡単に教えて貰えるかな?」
「それは構いませんが…
私の場合、立場的な理由で“敵視”している観点での評価に為りますが?」
「うん、大丈夫
飽く迄も、参考だから」
「判りました」
そうして声が掛かるまでの時間は過ぎてゆき。
使用人の人に案内されて、私達は別の部屋に通される事に為った。
踏み入れた部屋の中には、金名さんが座って居た。
私達を見ると立ち上がって此方に歩み寄り、席の方に私達を案内する。
使用人ではなく、この家の主である金名さんが、自ら案内する事で、この部屋の中に居る全ての人に対して“私は中立の立場です”と示しているんだと思う。
それは多分、必要な事。
もし、金名さんが私達へと肩入れしている様に相手に見えてしまったら。
“仕組まれている”様にも思えてしまうだろうから。
それが判っているからか、王累さんは何も言わないし反応も見せない。
そのお陰で私も落ち着いて臨む事が出来る。
縦長の卓を挟んだ格好で、私と王累さんは交渉相手の対面の席へと座る。
金名さんは両者を見る様に卓の端側に座っている。
まあ、此処では金名さんは気にしない様にする。
彼は飽く迄でも仲介役。
それ以上でも、以下でも、以外でもないのだから。
私は対面の相手に集中し、自分から口を開く。
「皆さん、初めまして
私は此処、益州を領地とし治めている劉玄徳です
此方は、私の家臣で──」
「王公及と申します」
王累さんは私の紹介の声に淀み無く続き、一礼する。
立場上、挨拶でも私が頭を下げる真似は出来無い。
これは日常の会話ではなく交渉なのだから。
そんな私達の様子を見て、目の前に座る三人は各々の反応を見せている。
最初に反応したのは対面の真ん中に座っている人。
糸目で、赤茶色の短い髪はお猿さんみたい。
三人の中で一番小柄でありご主人様よりも細身。
歳は…ちょっと判らない。
見た目には十二〜三才位の少年に見えるから。
だけど、此処に居る以上は見た目通りの人物ではない事は間違い無い。
「ホホッ…これはこれは、御丁寧な挨拶じゃのぉ…
儂は叟族が長・高公申じゃ
宜しゅうのぉ、玄徳嬢」
叟族の長・高定さん。
お爺ちゃんみたいな口調と温厚そうな笑顔を見ると、警戒心を薄れさせてしまいそうになる。
然り気無く、字で呼ぶ辺り踏み込んできている様にも感じるけど、不快感の有る話し方ではない。
ただ、それが逆に怖いと、私は感じてしまう。
「フンッ…この様な小娘が益州を獲ったとはな…
ったく、世も末だな…」
高定さんに続き、次に口を開いたのは私達から見て、高定さんの左側に腕を組み座っている巨躰の男性。
貂蝉さんよりも深い褐色の筋肉隆々な身体は大きさも私の倍は有ると思う。
高定さんと比べると三倍は有るんじゃないかな。
だから、自然と上から私を見下ろしてくる。
威圧感は凄く有るんだけど貂蝉さん達を見ている分、恐怖感は無いかな。
「これ、その様な事を態々言う為に、此処まで来たんではないじゃろ?
ちゃんと挨拶はせんか」
「チッ…判ってらぁ…
俺は武陵蛮の長・童玄狗だ
手前ぇ等と宜しくするか、どうかは判らねぇがな」
そう高定さんに言われて、ガシガシ…と右手で乱雑に灰色掛かった黒髪を掻き、“仕方が無い”という様に名乗ったのは武陵蛮の長・童開さん。
二人の遣り取りを見た感じ高定さんの方が歳上っぽい気がしてしまう。
実年齢が判らないから妙に違和感が強いけど。
気にしない事にする。
ただ、感じた限り、私達が思っていたよりも、彼等は親い関係かもしれない。
少なくとも、二人の関係は兄弟の様に感じられた。
二人が名乗ったので自然と残る一人──三人目である濮族の長・猊乱さんへと、私は顔を向ける。
顔の下半分は、赤黒い布で覆い隠されていて、額から上は動物の毛皮…みたいな感じの何かを被っている。
その為、目元しか私達には判らないんだけど、見える橙色の瞳と鋭い形の双眸。
だけど、それ以上に目立つ特徴が有ったりする。
(この人…物凄い猫背…)
私やご主人様も猫背だって言われてるけど。
それは人並みの範疇。
でも、目の前の猊乱さんは明らかに違う。
だって、首が上じゃなくて下に伸びてるんだもん。
それなのに頭は普通に前を向いてるんだから、きっと物凄く身体が柔らかい筈。
…下手をすると首から頭が外れて、ポロッ…と地面に落ちるんじゃないかなって思ってしまう。
それ位に凄い猫背。
美以ちゃん達でも此処まで猫背じゃないもんね。
「…濮族、長、猊反雉…」
「無口な奴じゃが…まあ、気にせんとってのぉ」
「ぁ、はい、大丈夫です」
ちょっと特徴が強過ぎて、戸惑ってしまうけど。
何とか平静を保つ。
うん、大丈夫、大丈夫。
個性的って意味だったら、宅も負けてないもんね。
一呼吸置く様に高定さんは出されている茶杯を取って口へと運ぶ。
それに合わせる形で、私も少しだけ口を潤す。
飲み過ぎると咄嗟に反応が出来無くなるので。
其処は朱里ちゃんから散々言われてきている。
此処で失敗はしない。
ゆっくりと飲んでいる姿を見詰めながら茶杯を置き、高定さんの動きを待つ。
…多分、だけど。
他の二人からは私に対して積極的に話し掛けてくる事はないと思う。
そんな私の考えを肯定する様に茶杯を置き高定さんが私を見て口を開いた。
「…さて、世間話をしても時間の無駄じゃからのぉ…
率直に訊こうかのぉ…
玄徳嬢よ、儂等を抱え込む覚悟は有るんじゃな?」
私を真っ直ぐに見詰めて、そう問い掛ける高定さん。
本当に率直だ。
それが素直な感想。
緊張が高まる。
“抱え込む覚悟”とは。
それがどういう意味なのか私は理解している。
この会談に於いて何よりも肝心となる事だから。
彼等は“異民族”である。
“漢民族”からしてみれば“人ではない者”とされる存在だったりする。
そんな彼等を受け入れれば確実に衝突が起きる。
劉璋さん一家の事件。
漢民族同士でさえ、悲劇は起きてしまった。
私達の、私の至らなさで。
避けられた筈の悲劇は。
起きてしまった。
もし、安易に彼等を領地に受け入れたなら、その先に生じるのは悲劇の繰り返しだけだと思う。
王累さんは何も言わないで会談を迎えている。
私を気遣って、と言うより私に委ねているのだと。
隣に座る王累さんの気配が私に語り掛けている。
その信頼が、嬉しい。
不安から弱気になりそうな気持ちを支え、奮い立たせ勇気付けてくれる。




