弐
何とも言えない緊張の中、丐志は一つ息を吐く。
それだけで、普段通りの、感情の読み難い丐志の姿に戻っている辺り、見事だと言わざるを得ない。
まあ、丐志が康拳みたいに感情的に為るのは私自身も想像し難いんだけどね。
素直じゃない、という点は二人とも一緒だけど。
「まあ、そんな事は兎も角としてです…
私達が話したかった事とは此処からになります」
“そんな事って…今のでも十分に驚いたわよ?”とは思っても口には出さない。
勿論、丐志にだけは私達も言外(視線)で伝えるけど。
それを、さらっと流すのも丐志なのよね。
気にしても無駄な事だから私達も何も言わないけど。
「その夢の中には、私達のお互い以外にも、もう一人登場する人物が居ます
勿論、二人共に共通して」
さらっと、そう言う丐志。
けれど、その内容は簡単に“あら、そうなの?”とは返せない類いの物。
何しろ、過去(記憶)の無い二人に夢でも共通している人物となれば、その人物は明らかに二人に関係の深い存在という事になる。
当然、現状でも無視なんて出来無いわよ。
しかも、“此処に来て…”という形だしね。
私の“勘”も密かに警鐘を鳴らしている。
「燃え盛り逆巻く焔の中、その人物は佇んだままで、私達を見下ろしています
ですが、何かを言うという事は有りませんでした…
ただ…そう、ただ静かに、私達を見詰めているだけで話し掛ける事も無く…
手を差し伸べる事も無く…
ただただ、その人物は佇み其処に居るだけで…」
そう言って、静かに目蓋を閉じる丐志。
康拳も静かなまま。
暫し、場に沈黙が生じる。
丐志の話を聞きながら私は場景を想像してみた。
場面自体の想像は容易い。
幸か不幸か私は今の乱世に生を受け、育った。
そういった話や実体験には事欠かない時代に。
だから、想像する事だけは難しい事ではない。
しかし、二人の夢の中にて佇み見下ろしている人物の眼差しや表情までは私には想像出来無い。
だから、理解をしたくても出来無いもどかしさだけが胸中に残ってしまう。
ただ、考える事は出来る。
二人が自分を“悪”という捉え方をしているのなら、その人物は二人の前に立ち二人を止めた。
二人の“意志(悪)”を打ち負かしたのでは、と。
そう思えてしまう。
しかし、そうだとするなら丐志の言った表現に対して違和感を感じてしまう。
関わろうとはしない。
その姿勢に対して。
「…その人物って?」
沈黙を破ったのは祐哉。
微妙な空気に耐え兼ねて、という訳ではない。
こういう時に、踏み込める祐哉は凄いと思う。
普通は躊躇うもの。
問う自分に対して悪印象や悪感情を向けられたくないという理由からね。
静かに目蓋を開けた丐志は私達を正面から真っ直ぐに見詰めてくる。
鋭さを宿す強い眼差しで。
「その人物とは──曹純
魏王・曹操の夫です」
『────なっ!?』
祐哉と一緒に驚く。
驚くしかなかった。
そして、言葉を失う。
当然と言えば当然の事。
まさか…本当に、まさかの展開だと言えるでしょう。
誰が、その名が此処で出て来ると予想していようか。
──いいえ、抑の話として曹魏の関係者の名前が出るとは思わなかった。
考えようともしなかった。
意図的に誘導されていた。
そう事ではない。
それは単純な話だから。
そんな事を曹魏がするとは考え難いから。
だから、可能性から自然と外してしまっていた。
ただそれだけの事で。
別に可笑しな話ではない。
恐らくは、祐哉も宅の皆も私と同じ様に考える筈よ。
それ程に意外な話だわ。
(…曹純…確かに私自身も彼を只者だなんて思ってもいないんだけど…
でも、だとしら、二人とはどういう関係なの?)
知り合い──いえ、そんな生易しい関係な筈が無い。
対立する敵だったとすれば曹純は勿論、曹操が絶対に見逃す筈が無い。
まあ、可能性としては全く無いとは言わないけど。
“殺す価値すら無い”とか“更なる大物を釣り上げる為の誘い罠(餌)”とか。
そういう場合になら、ね。
(…もしかしたら、劉備を助長させる為に?
いえ、それだったら二人が記憶喪失な時点で無意味…
抑、私達が二人を保護した時には既、に………っ!?)
記憶の糸を手繰り寄せ──ある可能性に行き着く。
それは自分達にとっては、最大級の“理由(火種)”と言っても過言ではない。
もしそうだったとしたら。
私達は曹魏に──いいえ、劉備にでさえ、戦争をする理由を与えてしまう。
私の考えが当たっていればという話だけれど。
しかし、可能性の一つ、と客観視も楽観視も出来無い状況だと言える。
(…もし、そうだとすれば二人は“あの日”──)
其処から先は考える事さえ億劫に為ってしまう。
出来れば、このまま頭から消し去ってしまいたい。
そう、心から思う。
しかし、現実は非情だ。
そして、向き合わなくては進む事は出来無い。
そう、“逃げ道”でさえも見付けられないのだから。
嫌でも向き合わなくては。
ただ、自分から踏み込める気力は湧かない。
出来れば避けたいのだ。
本当に、心の底から。
そんな私の心中を察して、丐志は自ら話を進める為に口を開いた。
それに対し素直に心の中で感謝を述べる。
「恐らくは…今、お考えの通りではないかと…」
そう言って、一旦切る。
私への気遣いでも有るし、祐哉に話を聞く事を促す。
その為の僅かな間。
そして、核心を語る。
「私達はあの日──洛陽が炎上したあの夜、あの地、あの場に居たのだと…
その様に思っています」
「──っ…」
部屋の中に響いた音。
息を飲む、小さな音。
普段は自分の物以外ならば聞こえ難い、それが今は、はっきりと聞こえた。
静寂の中に。
もしも、本当に、もしも。
それが本当だったとしたら丐志達が洛陽を燃やした、その下手人である可能性は非常に高くなる。
丐志達には記憶が無いが、二人が見たという夢の話とその印象を合わせたなら、筋は通ってしまう。
…嫌な筋だけれど。
其処に曹純という存在。
それを加えたなら、確かに丐志の言った通りの状況で曹魏が最悪に至る寸前にて最低限の所で止められた。
その可能性は、有り得るのかもしれない。
ただ、二人の目的なんかは判らないけれど。
其処は省いてしまっても、筋は通ってしまうから。
だから、質が悪い。
どうしようもなく、ね。
(…ちょっと待ちなさい
曹純が二人の事を見逃して利用しようとしたとして、実は、その対象が最初から私達だったとしたら?)
その理由は何なのか。
曹魏が宅を潰す手段なんて山の様に有る筈。
それを態々絡めに絡めての絡め手を取った?
…いえ、可笑しいわよ。
どう考えても記憶を失った二人では証人として使える気はしない。
──と言うか、そういった自分が不利に為る事を自ら認めるとは思わない。
誰だって、遣らない。
なら、二人の存在は単純に見逃されただけの偶然?
…そうとは思えない。
(…いえ、待ちなさい…
もし、もしも本当に二人が洛陽に居たなら…
そして、曹魏が絡んでいたとしたなら……っ…)
それを考えた瞬間に背筋に悪寒が走った。
暑さに強い江東育ちの私が多量の汗を掻いてしまう。
冷たく、嫌な汗を。
二人を理由(火種)にする、たった一つの可能性。
そして、ある意味で言えば曹魏が意図的に誤認させる事が出来たであろう。
その筋書き通りに。
(…っ……まさか、実際に洛陽で董卓を利用していた本当の黒幕って…)
──二人だったならば。
それは、危険や火種という言葉では生温い。
旨いと思って飛び付いた、それが必死の猛毒だった。
それも、じわじわと時間を掛けて気付かれる事無く、染み渡り蝕んでいく。
最後に一気に牙を剥かれる瞬間まで気付けない。
そんな感じだろう。
(…そう考えると不自然に思ってた点にも納得出来る理由が出て来るわ…)
何故、董卓を獲ったのか。
呂布に関しては判る。
詠達を獲らなかった理由も決して可笑しくはない。
けれど、董卓を取る理由は明確には判っていない。
其処は隠されたまま。
その後の事も有って完全に有耶無耶にされた。
尤もらしい、董卓に対する救済(美談)を前にして。
私は納得してしまった。
“それなら心配は無い”と思い込まされたのなら。
私は、私達は、あの時。
とんでもない選択をしたと言ってもいいでしょう。
最悪過ぎる選択を。
そう、私達は洛陽の真実を知っている。
“悪漢(董卓)”は複数名の権力闘争(思惑)の全責任を背負って生け贄として生み出された存在で。
本当の董卓は洛陽の民から支持され、尊敬を集める。
善き官吏だったと。
私達は知っている。
だから、助けようと思い、行動を起こした。
切っ掛けは祐哉だったけど真実を知ってしまったら、私も同じ事を考えた筈。
…まあ、曹魏に協力を持ち掛けるなんて真似は私には出来無いでしょうけど。
もし、私達が動かないで、曹魏だけが動いたなら。
多分、董卓と呂布が曹魏に加わっただけ。
他の面々はバラバラになり“多勢力(何処か)”に所属していたと思う。
それだけの人材だから。
──だとすれば、よ。
もしも、“本当の黒幕”が後々に居ると判れば。
それが自分の所属している勢力だったとしたら。
董卓に忠誠を誓った者達はどうするのか。
曹魏が“今再び、私欲にて世を乱そうと目論む愚者を赦せるのかっ?!”だなんて言ったとしたら。
…動いてしまうでしょう。
抑えられないでしょう。
私だって、その立場なら、尽くす忠義は唯一つ。
董卓の為に、曹魏の為に、全て民の未来の為に。
此処で全ての禍根を滅ぼし尽くそうとする。
間違い無く、必ずね。
だから──
「……っ……ぇ……っ…」
だから、手遅れよね。
もう、私達の未来は──
「────雪蓮っっ!!!!」
「────っ!?」
肩を痛い程に強く掴まれ、目の前で叫ぶ祐哉。
祐哉を見た瞬間に今までの思考が全て吹き飛んだ。
頭が真っ白になる。
不安も、絶望も、全て。
何もかもを吹き飛ばして。
そして、吸い込まれる様に黒の双眸を見詰める。
夜天を思わせる青を帯びた漆黒は、あの夜の出逢いを想起させる。
其処に映る私が居る。
そう──私は此処に居る。
今、此処に居る。
だから、迷うな、進め。
恐れずに、前へと。
そう、私に教えてくれる。
いつもの様に。
視線を外し、その胸元へと顔を預ける。
衣服越しにでも感じられる温もりが頬を伝わる。
聞き慣れているのに何故か新鮮に思える鼓動(音色)。
私が私で在る理由。
私が私たる理由。
それは──此処に在る。
それだけで十分だった。
「…有難う、祐哉
もう大丈夫よ」
顔を上げ、祐哉を見詰めて真っ直ぐに伝える。
余計な言葉は要らない。
飾る必要なんてない。
本物の想いには。
だから、祐哉は笑顔を見せ小さく頷くだけ。
他に言葉は要らないから。
…あ、でも、愛の囁きなら場違いでも欲しいかも。
「どうですか、左慈?
折角ですから、私達も睦み合いましょうか?」
「一人で勝手に遣ってろ」
そんな声に笑みを溢しつつ二人の方へと向き直る。
平気そうな顔をした二人が私を見詰めてくる。
その瞳に滲む感情が何か、私は直ぐに理解する。
私を気遣っている。
自分達の不安を抑えてでも私の事を、私達の事を。
二人は考えてくれている。
そうだ、そうだった。
そんな二人だという事を。
私は、私達は他の誰よりも知っている。
過去(記憶)は無くても。
心は其処に在る。
共に過ごした時間は確かに多くはないでしょう。
それでも私達は過ごす中で二人を知っていった。
二人がどんな人物かを。
何を大事にするのかを。
確かに知っている。
だったら、何も迷う事など無かった。
ただ信じるだけ。
それだけで良かった。
見えない影に怯えてしまい見えている光を見失って、彷徨っていた。
けど、私は一人じゃない。
だから、私は大丈夫。
もう迷う事は無い。
怯えたりしない。




