参拾伍
疾駆し、黄忠の背中(姿)を追い掛けながら考える。
短期決着、と言いながらも即座には決しない。
それが弓士の闘い。
故に、場所等を活かす事も必要不可欠な技能。
その駆け引きの一部は既に始まっておるがのぅ。
さて、儂から提案をした、この十射勝負じゃが。
肝となるのは“十本”勝負ではなく、“十射”である点だったりする訳だ。
それは文字通りの意味。
十回の射撃での勝負。
十回だけしか射てない。
だが、一回の射撃に対する矢の使用制限は無い。
本数は無関係な勝負。
唯一有る規定が、矢の射撃回数の制限という物。
つまり、連射すれば即座に回数が減ってしまう。
一方、一度に射る本数には制限は付いてはいない為、多射が出来るなら特に問題無い事ではある。
儂等を知る者からしたら、儂に有利な条件に思っても可笑しくはない。
儂が多射を得意としておる事は有名じゃからのぅ。
しかし、今の黄忠であれば特に問題は無い条件。
多射を得意としておる儂と同等の事が出来る技量まで達しておると。
儂は確信しておる。
勿論、嘗ての儂と比べても今の方が上ではあるが。
黄忠もまた成長しておる。
元々得意としておった事に他の技量も高まっている。
不利な条件ではない。
その自信が有るからこそ。
黄忠自身も応じたのだ。
互角以上に闘える。
そう考えられるが故にな。
(小癪な…と言いたいが、最早彼奴は小娘ではない
紛れもない、本物じゃ…
ならば、儂も相応に認め、相対さねばのぅ…)
嘗ては、下に見ていた。
それは仕方が無い事。
年齢の問題ではない。
単純に経験の差だ。
まだまだ若く、未熟。
それ故に、才器は稀有でも蕾にも満たぬ状態。
なれば、“見下す”意識は無かったとしても。
格下という事実は存在し、変えられぬ事。
しかし、今は違う。
時は流れ、経験を積み重ね蕾へと至り、咲いておる。
それを認めぬ理由は無い。
それを喜ばぬ理由は無い。
それを楽しまぬ理由など、有る訳が無い。
(随分と待たされたのぅ…という訳ではないが…
気分的には近いかのぅ…)
嘗て、確かに彼奴の成長を楽しみにしておった。
どの様に成るのか、と。
孰れ、儂の前に立つ、と。
我が切望を叶える者、と。
期待を懐いておった。
一度は自ら封じた事。
しかし、今、再び目覚め、成就の時を迎える。
この今の気持ちを、心境を表すとすれば。
待ち侘びた、と。
漸く、その時が来た、と。
そう言う他に無い。
軍師の様に、語彙が豊富な訳ではないしのぅ。
仰々しく飾り立てる必要も儂は感じんしな。
こういうのは単純明快に、感じたままで良い。
楽しいなら楽しい、と。
嬉しいなら嬉しい、と。
それで十分。
万の言葉を並び立て様とも本気の一撃には届かん。
武人の闘り(語り)合いとはそういう物じゃからな。
言葉よりも心刃で示すのみよ。
先程に見た限りでは黄忠は複数の矢を番えていた。
それも当然と言うべきか。
この勝負は一射目で決めるという事は厳しい。
決め切れる状況に至るまで何手で詰められるか。
無駄を如何に省けるか。
如何に相手を上回るか。
それに掛かっている。
自身も番えている矢の数は七と多かったりする。
だが、この一射だけで決め様などとは思っていない。
決めれるとも思わない。
(…最低でも七は越えるか
順当に行けば…恐らくは、相手の十射目を凌いだ方が勝ちになるじゃろうな…)
勝負を制限する条件であり決定付ける条件でもある。
言い換えれば、相手からの攻撃を十回凌ぎ切れれば、一回でも射撃回数を残した方が勝ちという事になる。
つまり、逃げに徹した方が有利だと言えよう。
尤も、そんなつもりなど、互いに微塵も無いがな。
抑、短期決着を望みながら逃げに徹してしまう事自体長期化を招いてしまう。
──と言うよりも、勝負の意味自体が無くなる。
攻めて、決めて、勝つ。
その為の条件なのだ。
逃げに徹しては抑の意味が無くなってしまう。
それは勝負を受けた黄忠も同じだと言えよう。
倒さねば──互いに全力で出し尽くした、その上で。
勝つ事に意味が有る。
その勝利しか求めない。
それ故に、一つだけ確かな事が有る。
始まれば、決着するまでは大して時間は掛からない。
それは溢れ出て流れて行く水の様に、止まらない。
一射目から六・七射目まで既に組み上げている。
黄忠の方も、だろう。
勿論、相手の出方によって選択肢は分岐していくが。
其処までは用意してある。
残りの射撃回数は予備。
失敗した時の、ではない。
途中、想定外の事が起きた場合に対処する為の。
途切れさせてしまったら、その時点で己が敗北したも同然なのだからな。
繋げられるかが重要だ。
(こういう勝負は想像した事も無かったが…
中々に面白い物じゃな)
短期決着に持ち込む為の、咄嗟の思い付きだったが。
こうして遣ってみると結構奥が深いと言える。
敢えて制限を設ける事で、質と密度を高められる。
鍛練にも取り入れれば兵の質の向上も期待出来る。
ただ、自分の成長の為には相手が居ないだろう。
目の前の黄忠か──或いは厳顔位だろう。
…後は春蘭の妹も弓を使うらしいからな。
その力量が黄忠に並ぶなら期待は出来るが。
普段から“手合い”を頼む事が出来る相手ではない。
将来的には判らぬが。
現状では、厳しいしのぅ。
大局では負けても。
闘い(ここ)では勝たねば。
それを望む事も出来ぬ。
(…負けられんのぅ)
更に負けられない理由が。
必ず勝たなくてはならない理由が増える。
しかし、重圧は無い。
全く感じない訳ではないが程好い緊張感を生む程度。
寧ろ、心地好い位だ。
其処は経験の差。
積み重ねた物が己が血肉と成っていると実感する。
走り始めてから暫し。
周囲の景色が変化する。
土色の多い岩山から。
緑が支配する森林へ。
(…随分と離されたか?
…いや、そうではないな
確か、この辺りに一部だけ森林になっている所が有るという話だった筈…
恐らく其処じゃろうな…)
だとすれば、杞憂。
多少は離れてしまったが、戻るまでの時間は思うより短くて済む筈。
今は、互いに牽制等を含む行動の為に、移動に時間を要してはいるが。
真っ直ぐに向かえば短時間になる筈じゃからな。
…儂が勘違いをしておらん限りは、じゃがのぅ。
そう考え、息を吐いた。
その一瞬の事だった。
決して黄忠を見失ったり、侮った訳ではない。
瞬きを自然にする様な物。
しかし、確かに生じた隙に間違いは無かった。
「──っ!?」
視認していた筈の黄忠。
その背中が消えていた。
代わりに交わる視線。
真っ直ぐに、標的(自分)を見据えている。
“しまった!”と思うが、即座には動けない。
疾駆しているが故に身体は勢いに逆らえない。
剣や槍とは違う。
特に多射が出来る者を前に致命的だと言える。
一撃を躱せば次撃までには時間を要する、という事は無いのだからな。
全てを射たず、一部だけを射ち放てば次撃への動作を一部省略し速められる。
加えて、速射は黄忠の方が元々得意とする領分。
精度に関してもじゃ。
一矢、残して置けば。
二射目で黄忠が儂を射抜く可能性は高いと言える。
勿論、簡単に殺られる気は更々無いがのぅ。
簡単に諦めはせんよ。
泥臭く足掻くまでよ。
──と、次の瞬間。
黄忠が視線を逸らした。
黄忠から見て左、儂からは右に向かって。
同時に弦を引き、構える。
それ自体、有り得ない事。
故に“邪魔者か?”という思考が生まれてしまう。
そして、自然と其方等へと視線を向けてしまう。
次の瞬間、風が鳴る。
視界に入らぬ矢の姿。
しかし、音から位置を知る事は儂等には難しくない。
顔を上げ──空に向かって昇り行く矢影を見付けた。
その状況に、疑問が生じ、思考が行動を阻害する。
当然の事だった。
それだけに、自分の反応に疑問は懐かない。
致命的な状況ながらも。
「──っ!」
だが、ゾワッ!、と背筋を撫でる様に走る悪寒が儂の意識を引き戻す。
それは、あの母娘の物とは別物である。
積み重ねた経験から来る、幾多の死線が語り掛ける、危機回避本能。
即座に視線を黄忠へと戻す──が、既に其処には姿は無かった。
当然の事だろう。
相手が我に返るのを待って攻撃をする理由が無い。
自分でも、同じ様にする。
──ならば、その次は?
黄忠の手を読む。
一射を使った完璧な誘導。
その場に居ないのなら。
まだ残っている矢を確実に当てようとするなら。
自分であれば──左へ。
左足が地を捉えた瞬間に、視線を、意識を、身体を、右側へと向ける。
其処に、黄忠は居た。
既に弦を引き、番えている矢を放つ寸前。
再び交わった視線。
“さあ、どうする?”と。
黄忠の視線が語る。
同時に放たれた矢。
視界に捉えた数は、八。
直線ではない。
円でもない。
回避の為に動けば、其処を最低でも二矢が襲う。
広範囲を狙った一射。
“見事じゃ!”と。
素直に称賛を送ろう。
しかし、負けはせぬ。
右足で地を蹴り、後方へと低く飛び退く。
そのまま空中で弦を引いて構えると番えていた六矢を黄忠に向かって放つ。
その内の三矢が黄忠の矢を射ち墜とした。
「──っ!」
今度は黄忠が驚く。
黄忠は確実に当てる為に、距離を詰めて射った。
矢は此方に向っている為、短距離な程に速くなる。
だから自ら後ろに跳ぶ事で僅かに時間を作る。
空中での射撃は簡単だとは言えないが、不可能という訳ではない。
弓を遣っていれば判るが、膂力ではない。
弓で大事なのは正確さ。
射撃精度ではない。
姿勢こそが弓の基礎にして最も重要となる事。
それが出来ていれば空中で矢を射る事も可能。
…まあ、相応の積み重ねは必要となるがのぅ。
反撃を受け、黄忠は考えて──前に出る。
更に距離を詰める。
突っ込めば、残った三矢は擦り抜けられるからだ。
その選択をした勇敢さに。
再び称賛を送る。
だが、“甘いぞ”とも。
此方の回避を封じる為の、広範囲を狙った一手は見事だったと言える。
だが、脅威が最低で二矢は儂相手には少ない。
足りぬと言っても良い。
回避される事を覚悟の上で中央を厚くすべきだ。
そうすれば、儂に射撃する機を与えなかった。
その違いは、大きい。
一射目を放ったと同時に。
右手は勢いのまま腰裏へと回り込んで、箙から木鏃の矢を掴み上げる。
そして、空中に有る内に。
二射目の準備が整う。
「──っ!!??」
これは流石に黄忠も予想外だったらしい。
その表情を強張らせた。
多射は得意としていても、一射毎に時間が掛かるなら技術としては意味が無い。
それならば、部隊を指揮し斉射した方が良いからだ。
一定以上の速度での連射が可能と為って初めて実戦で価値を持つのだ。
だから、一つの技術に別の技術を組み合わせる事は、ある程度は可能。
これも、その一つだ。
右手を離せば、翔る矢。
自ら前に出ている黄忠との距離は倍の速度で縮まる。
加えて、先程よりも範囲を狭く絞り込んである。
距離が短い分、回避出来る可能性は低くなる。
それは自ら虎口に飛び込む様な物だと言えよう。
だが、気は抜かない。
普通であれば、決まる。
回避など不可能だ。
しかし、目の前に居るのは一体誰なのか。
世に“蜂穿”の二つ名にて知られた若き才媛。
曹操に認められた女傑。
天下に轟く曹魏の軍将。
──儂が認める好敵手だ。
此処で終わる筈が無い。
空中に有る状態から黄忠は突如上半身を逸らした。
その瞬間、確かに前方へと向かっていた身体が停止。
まるで、見えない縄にでも上半身を引っ張られた様に勢いが残る下半身が空中を駆け上がる様に舞う。
その回転している間に儂の放った矢は全てが通過。
黄忠は回避して見せた。
──と、同時に。
着地と共に再び前へ。
儂も左足を地に付くと共に蹴って前へ出る。
互いに振り抜いた右腕。
火花を散らし交差するのは例の直剣。
そして、互いの眼差し。




