参拾肆
──であるならば。
戯れようではないか。
後先も、彼是も、無しに。
ただただ、童の如く。
心の赴くままに。
本能の命ずるままに。
楽しみ──愉しもうぞ。
(貴女が、儂にそう在れと仰有るのであれば…
是非も無いですからのぅ)
もしも、此処に居たなら、“馬鹿ね、他人(私)の事を一々気にしないの”と。
言ったとしたら呆れられるかもしれないが。
仕方が無い事だと思う。
自分にとっての憧憬。
追い掛け続けた背中。
見詰め続けていた姿。
しかし、無情にも儂等から奪い去ってしまった。
去り逝きし、その背中を、その姿を残像(幻)として、目蓋に刻み付けたまま。
叶わぬ願いと化した。
──だが、越えてみせた。
その背中を、その姿を。
同じ様に追い掛けていた。
一人の者が、越えたのだ。
それを知った時、己が心に祝福する気持ちは有った。
しかし、それ以上に嫉妬の情炎が燃え盛っていた。
“何故、儂ではない?!”と叫びたかった。
笑顔で、祝福しながらも、嫉妬に狂いそうな程に。
彼女が妬ましかった。
彼女が羨ましかった。
彼女が疎ましかった。
自身には叶えられないまま潰える事も出来ぬまま燻る悲願(願い)を叶えた。
彼女の存在その物が。
“娘だから”では納得など出来ぬ程に。
強く、強く!、強くっ!。
激しく、昏く、歪に。
鈍く輝く、感情の刃が。
殺意にも等しく。
自他を傷付け様とする。
だから、蓋をした。
己が心を殺す様に。
叶わぬ悲願(願い)を忘れ、今の願いを叶える為に。
けれど、運命は皮肉だ。
無慈悲に唐突に奪いながら今になって与えてくる。
手を伸ばせば、届く、と。
本能的に理解出来た。
この闘いは自分にとっての最初で最後の機会。
二度と得られぬ幸運。
掴まぬ理由は無い。
(…感謝するぞ、黄忠よ
お主が居なくては儂は心に抱えたままじゃったろう…
主従の忠誠を違いながらも受け入れられぬ想いを懐き生きてゆくしかなかった…
それを、終わらせる機会を儂に与えてくるのだ…
感謝しても、し足りんわ)
その想いに嘘偽りは無い。
だが、それはそれ。
負けるつもりは全く無い。
負けてなどなるものか。
これは唯一無二の闘い。
儂に許された、一度きりの機会なのだ。
悔いの残る様な事にだけは絶対にしない。
してなるものか。
(儂は器ではない…
だが、儂が望み続けたのは“其処”ではない…)
それは異なるのだ。
儂の目指す場所とは。
彼女の至った場所は。
我が望みは、求道の果ては其処とは違う。
それは、別離を経たが故に知り得た事でもある。
…皮肉な物だがな。
心の中で、追い掛け続けた憧憬(背中)が振り返る。
“さあ、見せて頂戴”と。
“黄公覆(貴女)の思い描く己の理想(姿)を”と。
文台様(貴女)は笑う。
童女の様に無邪気に。
心から、儂を信じて。
背中を押す。
言うは易し、為すは難し。
遣る気になったは良いが、事は簡単ではない。
…まあ、当然なんじゃが。
短期決着とは行かぬ。
相手が黄忠という事は勿論有るのじゃが。
問題なのは、儂等の闘いの性質が、じゃからのぅ。
一旦岩陰に身を隠し乱れた呼吸を整える。
儂等は人間じゃ。
霞を食うて生きるとか言う仙人ではない。
何より酒の無い生活なぞ、色の無い世界と同じじゃ。
酒が飲めぬなら仙人になぞ成れるとしても成らん。
絶対に御断りじゃ。
“そうですな、堅殿?”と心の中で問い掛ければ。
“ええ、勿論よ”と。
子供の儂に酒の味を教えた張本人は屈託無く笑う。
そう思った瞬間じゃった。
背筋に悪寒が走る。
同時に思い浮かぶのは腕を組み仁王立ちする祐哉。
笑顔なんじゃが…笑っとる様には見えんな。
と言うか、いつの間にか、文台様は消えておる。
こういう事の経験も含め、勘の良さは策殿以上じゃと思い知らされるのぅ。
…それは兎も角として。
人である以上、当然ながらその体力や精神力に限界は存在しておる。
良い闘いをする為に休息は必要不可欠じゃ。
(…と言うか、休みも無く動き続けられるか…)
胸中で愚痴りながら一連の攻防を思い返す。
互いに探り合いをしている部分は否めない。
勿論、隙を見逃す様な事は有りはせんがのぅ。
黄忠の成長は想像以上。
駆け引きの上手さは儂より上かもしれん。
…いや、あの高順が居って駆け引きが下手というのは有り得んじゃろうな。
もし、下手じゃったら余程頭を使うのが苦手な輩か、学習せん愚か者じゃろう。
…いや、春蘭は違うぞ。
思い浮かびはしたがな。
彼奴は武に関してだけは、優秀じゃからな。
…もう少し指揮面で考える事が出来れば…のぅ。
春蘭の事は捨て置いて。
“何だとーっ?!”と怒鳴る春蘭を思考から退場させ、黄忠を呼び出す。
“あらあら、私を御指名?
でも、御免なさい、私には夫が居ますから…”と笑う黄忠に向かい“儂にも夫は居るわっ!”と叫ぶ。
…現実では、恥ずかしくて絶対に言えんがな。
…いや、そうではなくて。
互いに狙いとして同じ。
それは“弓士の闘い”故に仕方が無い事じゃろう。
じゃが、其処に至るまでは互いに違っておる。
…いや、正確には読み合い上回るのだ。
概ね、同じじゃろう。
(無駄射ちは出来んか…
弓というのは融通の利かん武器じゃからのぅ…)
そう思いながらも、口元は自然と緩んでしまう。
だからこそ、面白いのだ。
剣や槍、体重とは違う。
自らの手を離れた後。
遣り直しも、修正も出来ず一射で決まる。
その博打に近い先に有る、成功した時の達成感。
興奮し、高揚し、滾る。
それを知ってしまったら、他の武器には戻れん。
武だけでは届かぬ高み。
智だけでは叶わぬ高み。
両を揃えて漸く、一歩目を踏み出せる領域。
だから、止められん。
(で…どうするかのぅ…)
気持ちを昂らせながらも、思考は冷静さを保つ。
感情的になっても良いのは“鍔迫り合い”が出来る、弓以外の武器に限る。
“弓士は常に狩人たれ”。
それが先人達の教え。
機を窺い待つ事は当然。
しかし、決して“守り”に入ってはならぬ。
そういう意味も含む。
(…劉備軍だけならば儂も無視するのじゃがな…
それは出来ぬからのぅ…)
短期決着は難しい。
しかし、短期で決着させる必要は有るのだ。
困難且つ面倒な事に。
「聞こえておるな、黄忠よ
少々儂から提案が有る」
岩陰に身を隠したままで、黄忠に話し掛ける。
どうせ、互いに居る位置は理解しているのだ。
話し掛けるなら、気にする必要は無い。
流石に顔や身体を晒して、という真似はせぬがな。
今は闘いの最中。
最低限の空気は読む。
「…何かしら?」
自分程大きな声ではないが黄忠の声は聞こえる。
まあ、他に誰が居るという訳でもないからのぅ。
聞こえ易くはあるか。
「正直に言えば、このままじっくりと闘り合いたい所なんじゃがな…
しかし、そうもいかんのが実情でのぅ…
どうせ、其方にはバレとる事じゃとは思うが…
宅の連中が居ってのぅ…」
「…ええ、知っているわ
相応の相手を此方としても当てさせて貰っているわ」
“相応の相手を”か。
確か、春蘭・季衣・真桜は曹魏に妹と朋友が居る筈。
恐らく其奴等じゃろうな。
儂の前には黄忠が。
蒲公英の奴は?…適当?、いや、待てよ。
確か、生き別れになったと言っておった筈の従姉──あの“呀狼”の娘が。
馬超が居った筈。
黄忠が今まで表には出ずに潜んでおった位じゃ。
色々と立場的な事も含めて話がややこしくなる馬超が表に出ずに曹魏に居っても可笑しくはないか。
…と言うより、こういった状況でこそ出して来そうな気がしてならん。
…本当に、底が知れぬな。
恐るべし、曹魏。
「…そういった事情でな
儂としては短期決着に持ち込みたい訳じゃ
しかし、お主の方は無理に短期決着に応じる理由など有りはせんじゃろう?
まあ、お主も人妻であれば早く終わらせて夫の元へと戻りたいじゃろうがな」
「…否定はしないわ」
よし!、食い付いたな。
これ位しか交渉材料(餌)が思い付かなんだが。
自信は結構有ったぞ。
「其処でじゃな
十射勝負と行かんか?
それ以上は無しじゃ
口約束には為るが…互いに破る様な事は無かろう
…で、どうじゃ?」
「……いいでしょう
その勝負、受けましょう」
「恩に着るぞ、黄忠
…手加減は出来んがのぅ」
「それは此方も同じです
覚悟して下さいね」
軽口を叩きながら、勝負に向けて準備を始める。
感謝しとるのは本当じゃが負ける気は無い。
勝って、掴んでみせる。
右手に弦と矢を握り締め、番えた状態にする。
まだ引き絞りはしない。
他の動きが制限されるだけではなく、無駄な力を使い体力等消耗に繋がるので。
弓士の常識じゃがな。
頭の中で展開を予想。
読み合いは始まっている。
可能性は多々有りはするが長期戦よりは増し。
気持ち的にものぅ。
ゆっくりと深呼吸をし──岩陰から飛び出す。
『──っ!!』
互いの視線が重なる。
位置は察していた。
だから、可笑しくはない。
それだけを見れば。
だが、何処で再開させるか決めてはいない。
何方等かが先手を打って、それが開始の合図となる。
そういう状況だった。
だからこそ、提案した儂が先に動くつもりだった。
勿論、先に動いても黄忠の動く瞬間を狙い射ちにする気は無かった。
それでは意味が無い。
受けてくれた黄忠に対する礼儀でも有るからな。
何より──面白くない。
だから、遣らない。
それは兎も角として。
黄忠が先に動き出すとは、思わなかった。
可能性としては有るが。
それだけではないのだ。
黄忠もまた、開始際の儂を狙うつもりは無いらしく、引き絞ってはいない。
その事を互いに確認すると──笑みを浮かべ合う。
笑わずには居られない。
何方等も馬鹿正直。
戦争だと理解していながら“闘い”に拘るのだ。
馬鹿としか言えぬわ。
だが、それ故に嬉しい。
そんな馬鹿者同士の弓士が闘り(語り)合うのだ。
こんな事は先ず無い。
だからこそ、滾る。
相手の手が尽きるのを待つという気は更々無い。
必ず、自分が仕留める。
仕留めてみせる。
屈伏させてやろう。
熱く、激しく、昂り、猛り闘志が燃え上がる。
「黄公覆──」
「黄漢升──」
『──射ざ、穿たんっ!!』
互いに、走り出してからは距離を開けてゆく。
その状況に心中では驚きと戸惑いを禁じ得ない。
黄忠は儂より少し前に出て斜め後ろに此方を見る。
普通は有利な位置を取る。
当然ながら、後方であり、追走する方が楽だ。
射撃動作の上でも。
だが、一番安定する位置は並走している事。
相手を右に置くか、左かで違いは出てくるが。
最も対応し易いからだ。
それなのに、黄忠は儂より前に出ている。
しかも、黄忠は儂から見て左側に位置している。
互いに左弓右矢。
射ち易いのは左向き。
黄忠は自ら不利な状況へと身を投じているのだ。
驚かない訳が無い。
(動揺を誘う為の奇策か?
…いや、それだけならば、彼奴は遣るまいて…)
何かしらの意図が有って、遣っている事は確か。
それが何かは読めない。
常識を無視した戦い方だ。
それは当然だろう。
だが、それ故に面白い。
“何を遣ってくれるのか”期待してしまう。
様々な戦場を経験して尚、この様な未知に出会う事は滅多に無いのだから。
その様に思ってしまうのは仕方が無いと思う。
童心に返った様に。
憧憬(背中)を見ている様な気持ちになる。
(…やれやれじゃな…
…まさか、また追い掛ける身に為ろうとはのぅ…)
単に状況の事ではない。
それは心境的に。
そう、嘗て懐いた憧憬とは大部分が好奇心から。
覚悟など有ろう筈も無い。
世の中の情勢も政治も何も知らぬ小娘の身だ。
大志も野心も高が知れる。
それでも追い続けた。
その原動力は好奇心であり負けず嫌いな気の強さ。
意地と言ってもいい。
久しく忘れていた感覚に、心身は高揚する。
ただただ、純粋に。




