参拾壱
敵部隊への狙撃は中止し、自分の矢を射墜とした者が居るだろう場所へ向かって真っ直ぐに駆ける。
脇目も振らず、真っ直ぐ。
一歩、前に進む毎に弾む。
“同系の強者(弓使い)”が其処に居ると思うだけで、歓喜が湧き上がる。
一歩、近く度に高鳴る。
恋焦がれる乙女の様に。
恋人の訪れを待ちながら、逸る鼓動の様に。
一歩、遠ざかる程に。
下らない柵から解放され、心が軽くなるのが判る。
それが如何に、この状況に対する不満を懐いていたか物語っている。
遣る気など無いに等しく。
“これも仕事だ”と。
自らを納得させていた。
ただそれだけの事。
だからこそ、今は思う。
心から、歓迎する。
己が心を惹き付ける者が、其処に居る事を。
抑、今更に諸葛亮の策など気にしても無意味だ。
既に破綻したも同然。
また、それを絶対に遂行し成功させなくては為らない理由など此方等には無い。
取るべき責任も無いのだ。
ならば、ここからは自分の好きに遣らせて貰う。
「──っ!」
──と、そんな中で。
耳が捉えるのは風切り音。
弓を使う者ならではの敏感だと言えるだろう。
視界の外から唐突に出現し迫って来る四本の矢。
互いに向かっている以上、回避は間に合わない。
致命傷を避け、防御する。
それが最善手だろう。
──普通であれば。
迎撃される可能性は十分に考えられる状況。
ならば、備えて然り。
何より、こういう状況でも対応が出来るだけの術を。
自分は身に付けている。
だから、問題など無い。
走りながら矢を番えていた弓を構えると即座に放つ。
矢に威力は不要。
精度も当たれば十分。
重要なのは射る速さ。
迫り来る四本の矢を弾き、互いに力尽きると地面へと墜ちてゆく八矢。
矢は砕け、花弁が舞う様に降ってくる。
その間を潜る様にして。
「──哈あぁあっ!!」
二つの人影が激突する。
──ギギィンッ!!、と鳴る金属音は“弓使い”からは想像し難い事だろう。
だが、此処は何処か。
そう、此処は戦場だ。
ならば、“矢が尽きたから戦えません”は通じない。
そう言って降伏したとして助かる保証など無い。
寧ろ、戦果(被害)を出していたなら最悪だ。
自分ではなく、味方側でも関係無い。
その結末がどうなるかなど想像に難くない。
であるならば、遣るべきは一つしかない。
矢が尽きた時に戦える術を身に付けておく。
それしかないだろう。
…逃げて、逃げ切れるなら全然構わないのだが。
見逃してくれる様な優しい敵なんて滅多に居ない。
──それ故に、思う。
「──嬉しく思うぞ!
曹魏の勇士よっ!」
思わず出てしまう本音。
だが、仕方が無い。
こんな状況で燃えぬなど、武人として有り得ない。
こんな奇跡の様な逢遇を、喜ばぬ理由が無い。
これ程までに高い技量の、弓使いは稀なのだから。
互いに手にしているのは、珍しくもない直剣。
ただ、一般的に兵士の使う規格と比べると異なる点を有している。
身幅こそ同じだが、全長は大体四分の三といった所。
短剣程に短くはないが。
それには理由が有る。
自分達が主要とする得物は弓である以上、弓を棄てるという行為は避けたい。
しかしだ、状況によっては弓を使えない場合は嫌でも存在している。
其処で、弓を棄てずとも、問題無く扱える様に。
弓を扱う際に邪魔に為らぬ様にと考えての工夫。
それが誰の思案によるかは関係無い。
自他に関係無く意見を聞き取り入れる事が出来るのは飽く無き向上心が故。
満足する事無く。
更なる高みを目指して。
そういった意識が有る証拠なのだからな。
…尤も、あの高順が居て、刺激を受けぬ訳が無い。
少なくとも、曹魏の将師は“本物”じゃろうからな。
それは兎も角として。
ギリッ…ギリギッ…と。
擦れ合い、耳障りな悲鳴に似た音を上げる双刃。
強引にでも頭を振り抜けば頭突きが出来る距離。
そんな間近で交わる視線は雄弁に語っている。
自分達は“同じ”だと。
目の前に居る相手に対して懐く感情は深い。
それは有る種の劣情。
異性を求める情欲にも似た滾る感情の波なのだと。
抑えるのが大変だと。
眼差しで語り合う。
其処へ思い出したかの様に花弁の如く降ってくるのは砕けた矢の残骸。
それが、地面に落ちるのと同時に互いに飛び退く。
別に自分達の身体に当たる様な事は無い。
残骸は周辺に落ちる事を、互いに理解している。
では、何の為なのか。
その理由は単純だ。
今のは単なる“挨拶”だ。
だから、仕切り直す為に。
互いに距離を取った。
ただそれだけの話。
お楽しみ(本番)は、まだ。
これからなのだから。
「──にしても、驚いたぞ
まさか、お主とはな…
…いや、寧ろ、今の時代にお主の名が挙がらぬ事こそ不自然じゃろうな…
遣ってくれるわ…」
「………」
その様に話し掛けてみるが彼方は黙ったまま。
しかし、抜いていた直剣を構えてはいない。
まあ、納めてもおらんし、そういった意味では彼方も儂と“闘る気”は有る証拠なんじゃがな。
真面目な奴よのぅ。
「見せ掛けの小細工程度は出来ても、既知であるなら大した意味を為しはせんと思わぬか?
その身が語っておるぞ?
のぅ──黄忠よ?」
そう言ってやると、彼方は暫し沈黙した後に、盛大に溜め息を吐きおった。
そして、口元を覆っていた黒布を外してみせる。
其処に有ったのは見知った予想通りの顔。
“蜂穿”の黄忠だった。
「…はぁ〜…それは貴女も同じ事なのでは?
そうでしょう?、黄蓋」
「ぬ…まあ、否定は出来ぬ事では有るかのぅ…」
そう返しながら此方も頭に被っていた頭巾を外す。
正直、慣れておらんから、鬱陶しくて仕方無かったし清々するわ。
数年振りの再会。
それが、この様な形に為るとは思いもせなんだが。
まあ、これも時代の流れ。
巡り合わせなんじゃろう。
気にしても仕方無いわ。
それはさて置き。
黄忠を見て気になった事を口にしてみる。
「久し振りではあるが…
お主、また育ったのぅ…」
別に他意は無い。
単純に以前に会ってからはそれなりの時が経った。
当時からは然程変わらない──大人であった自分とは違い、黄忠の方はまだ若く成長の余地が有ったのだ。
気になってしまうのは別に可笑しな事ではない。
当時──まだ十代だったが見事な物を持っておった。
儂も小さくは無いがのぅ。
ただ、彼奴は儂とは違って身長も有ったからのぅ。
同性の儂から見ても将来が気になる美人だったのだ。
どの様に成長したのか。
訊いてみたくなるのは女の本能という物じゃろう。
しかも、それがパッと見で儂よりも上と来れば。
気に為らぬ筈が無い。
変装したとしても、身体の線までは誤魔化し難い。
高順の様に全身を包み隠す鎧でも着れば別だが。
それでは動き難い。
あれは、動く事が出来て、初めて意味を持つのだ。
姿形だけを真似たとしても動けずに隙を作るだけ。
硬い守りとなる筈が。
逆に致命的な隙を作り出す事に為るのだからな。
そういう意味では、儂等の様に女の身には適さぬな。
…繋迦や季衣ならば出来る気がせんでもないが。
実用的ではないじゃろう。
飽く迄、着て動ける。
その程度じゃろうな。
──とか考えておると。
そんな儂を見詰めながら、黄忠は眉根を顰める。
そして再び溜め息を吐く。
呆れを含んだ。
残念な者を見る眼差しで。
「何じゃ、失礼な奴じゃな
ちょっと気になったから、訊いただけではないか
減る物ではなかろうが…」
「訊く訊かないという問題ではないのだけれど?
貴女に自覚は無い事だから仕方が無いけれど…
若かった私にとって貴女は憧れであり、目標…
そういう存在だったのよ?
それを…久し振り会って、しかも初めて交わした話の話題がそれって…
溜め息も吐きたくなるわ」
「む…それは……すまぬ」
「本当よ、全く…」
別に儂に非が有るとは全く思わないんじゃが。
何と無く、謝ってしまう。
それに深い意味は無い。
ただ、その様に言われて、“それはお主の勝手じゃ、儂に押し付けるでない”と言う事は憚られた。
儂とて、そういった感情に覚えが無い訳ではない。
それ故に、今の黄忠の懐く不満が如何なる物であるか想像出来てしまう。
“それはそうじゃな”と。
儂の中で、黄忠に同情する若かりし日の儂が頷く。
…自分なんじゃが、思わず殴り飛ばしたくなる顔で。
しかしまあ…何じゃな。
儂にとっての文台様。
それが、黄忠は儂だった。
そういう事なんじゃな。
…何か、照れるのぅ。
とは言え、気になる物は、やはり気になる。
だが、今の流れのままでは黄忠は喋るまいて。
ならば、此方から話を振り引き出すしたかないのぅ。
「じゃが、黄忠よ
儂が知っておる女の中でもお主は群を抜いておる
単純な大きさだけではなく女としての美しさも含め、御世辞ではなく美人じゃ
当然じゃが、男は放ってはおかんじゃろう?」
「…はぁ…そういう貴女はどうなのかしら?
貴女だって、老け込むには全然早いでしょう?
貴女の耳許に愛を囁く男は居るのではないの?」
「──っ…」
然り気無い話題のつもりが思わぬ切り返しを受ける。
反射的に息を飲む。
距離が有る為、聴こえてはおらんとは思うが。
…いや、思いたい。
しかし、それとは関係無く脳裏に甦る情景が多数。
激しく攻められ、求められ満たされてゆく。
黄忠の言った様に。
その腕に抱き締められて、耳許で愛を囁かれる。
それだけで生娘の様になる自分が其処には有る。
実際に生娘だった頃でさえ感じた事は無い感情。
単なる性欲ではない。
身体だけでは満たされず、心までも欲してしまう。
“自分だけの男にしたい”という独占欲と共に。
懐き、思い描いてしまう。
平凡で、何気無い。
普通の幸せという物を。
全てを忘れて。
ただただ、愛に包まれ。
ただただ、愛を抱いて。
只の女として微笑み掛ける自分の未来を。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ…」
それは己が意思を受けず、身体へと反映される。
頬が、耳が、顔が、身体が湯を沸かす様に熱くなる。
それが何を意味するのか。
判らない筈が無い。
もし、今居るのが戦場ではなかったとしたら。
一目散に逃げ出していると断言してもいい。
顔を隠して踞る様な真似は遣らない筈だ。
晒し者は御免だからな。
叶うなら、今の話題自体を無かった事にしたい。
黄忠の事は気になるが。
それよりも、己の羞恥心が遥かに勝っている。
別に、黄忠に対して何かを語った訳ではない。
黄忠の問いに対して勝手に想像──思い出したというだけなのだから。
決して、具体的な事などは何も話してはいない。
…話してはいないが。
其処は女同士だ。
その反応が何を意味するか見ただけで理解出来る。
出来てしまうのが女だ。
「…私が言うのも何だとは思うのだけど…
“お幸せに”ね、黄蓋」
「──くっ…」
“一思いに殺せ!”と。
男が相手で有ったなら儂は迷わずに言うだろう。
…いやまあ、抑の話として男には訊かないがな。
女同士──特に黄忠だから訊いたというだけで。
他の曹魏の将師に対しては訊かないと思う。
そう、黄忠だからだ。
「きっと、その方も貴女の魅力的な身体に満足──」
「──ええいっ!
言うな言うなあーっ!!」
「貴女が振ってきたのに、それは無いんじゃない?」
「ぅぐっ…」
尤もな黄忠の切り返し。
返す言葉も無い。
と言うか、何だこれは。
出来れば両手で耳を塞ぎ、強く目蓋を閉じたい。
それが許されない状況が、心底憎たらしい。
そして、迂闊な真似をした先程の自分自身も。
「…まあ、“彼”との仲が順調そうで何よりね」
黄忠の指す“彼”が誰か。
自分は判って当然。
しかし、黄忠は“誰”だと認識──断定したのか。
いや、それ以上に。
“何故、知っている?!”と叫びたくなる。
だが、答えは単純だ。
祐哉が自ら存在をバラしたからに他ならない。
それを思い出し。
羞恥心は更に増す。




