弐拾
真桜の突き出した槍の上を前方へと宙返りをしながら躱して──着地。
そのまま更に地面を蹴り、もう一回転して離れる。
一旦外した真桜の姿を再び視界に収めたのは、互いに距離を取って、追撃の無い事を確認し、一息吐いた時だったりする。
(…今のは危なかった…)
如何に無防備でも今の私が簡単に負傷する事など先ず無い事だとは言え。
勝負としては敗北寸前。
ギリギリの所で、どうにか踏み止まった。
そういう状況だった。
その為、回避以外の行動は一切出来無かった。
欲を言えば、反撃をしたい所では有ったのだが。
何しろ、先程のは想定外の回避だった。
その為に、先程の状況から反撃に繋げるだけの時間は私には無かった。
それを考える余裕もだ。
だから仕方が無い。
回避を踏まえた動きならば可能だったとは思う。
そういった繋げ方が出来る運び方をするから。
しかし、今のは違う。
抑、今の様な体勢も整わぬ不十分な状態からの急激な回転軸の変更というのは、遣るべきではない。
もしもだが、下手に回転に逆らってしまうと着地した際に足を取られてしまい、前に躓く様に為る。
だから、回転を続ける事で勢いを利用して距離を取る事を優先した。
そうでなければ態々連続で宙返りなどしない。
因みに、着地の体勢ですら不十分の場合には地面上を受け身を取りながら転がるというのは基本だ。
…不恰好だと?
そんな台詞は受け身をする必要の無い所まで至って、それから言うべきだ。
そう…地面を転がってでも回避せねば終わるのだ。
汚れる事など気にしている余裕など有る訳が無い。
……宅での話だがな。
それは兎も角として。
寧ろ、今は回避出来た事を素直に喜ぶべきだろう。
まだ終わってはいない。
まだ続闘中なのだから。
そう自分が望み。
そう結果が伴い。
現在に至ったのだから。
(…しかし、この様な形で役に立つとは…)
一息吐いた事で、真っ先に甦るのは先程の動作。
起死回生の一手となった、あの技──“胸当て”。
本来“胸当て”というのは回転中に用いる技術の事。
大体の回転軸は腰に有り、それを胸を張る様に当てて軸を変更するのだ。
技術的には高度なのだが、実用性という面では大して必要とはされない。
それもその筈。
基本的に、この技術は宙で回転している際に用いる為地に足を着いている状態、尚且つ武器を持っていると宙で回転する様な動き等は滅多に遣らない。
と言うよりも、そんな事を遣る必要が無いのだ。
大体、武器を持ちながらも宙で回転している場合には隙だらけであり、死角など山の様に出来てしまう。
余程の格下相手でも滅多に遣る事は無い。
もし遣るとしたら、兎に角技を派手に見せる為。
その為だけの“演出”。
その為、この技術は身軽な曲芸師でもなければ使う事自体が稀である。
では、何故その様な技術を私が習得しているのか。
それは私が体術を主体とし拳脚で戦う為である。
武器自体が拳脚甲な以上、当然ながら私の間合いとは超近接戦の物となる。
他の武器よりも狭い。
だが、その代わりに柔軟で死角の少なさが長所。
所謂、“間合いの内側”が殆んど存在しないのだ。
唯一の例外は同系。
つまりは相手も体術使いの場合にのみ、互いに内側が生じてしまうのだ。
これは体術の持つ間合いが“最内”である為。
より、内側を制した方が、勝者となるのだ。
とは言え、体術使い全てが同じという訳ではない。
俗に武は、“柔と剛”。
その様に分類される。
しかし、厳密に分けるなら柔の柔、柔の剛、不分凡、剛の柔、剛の剛。
その五種となる。
“不分凡”とは分ける事も届かない凡庸な物の総称。
…まあ、基準を定めたのが雷華様なので、抑の基準が如何に高いかは説明不要な事だとは思う。
何しろ、世の大半の体術が雷華様の基準では不分凡に入ってしまうのだから。
その中でも、私は柔の剛を得意としている。
柔の柔・剛の柔も出来るがまだまだ未熟だ。
剛の剛に関しては氣抜きで体現する事は不可能。
私の性質と異なる為だ。
柔の体術は、その文字通り柔軟性が重要となる。
身体の、だけではない。
思考や技法、戦い方。
様々な点に及び、含む。
軽量である私の場合には、地形を活かす戦い方を身に付けておくと役に立つ、と雷華様は仰有った。
その技術の内の一つとして身に付けたのが、胸当て。
…決して、下着ではない。
(…判らない物だな…)
正直、役に立つと今までに考えた事も無かった。
勿論、それを習得する際は真面目に真剣に取り組み、頑張ったのだが。
今まで戦闘で用いた事など只の一度も無かった。
だからこそ、驚きだ。
(…だが、これが無ければ私は終わっていた…
それは間違い無いな…)
…もしや、雷華様は何時かこの様になると見越して、私に習得をさせたのか。
……いや、流石にそれは……………無いとは言えない雷華様の底の深さが有る。
有り得そうで怖いです。
…ま、まあ、兎に角。
窮地を脱したのは雷華様の教えが有ればこそだ。
その愛を感じます。
………っ、…こほん。
それはそれとして。
改めて、真桜が何をしたか振り返って考える。
初見の、奇形の構え。
何が狙いかは判らないが、私は前に出る事を選んだ。
真桜は狙っていた。
私の事を知っているが故にそうすると確信して。
それが一つ目。
二つ目は、そうさせる為に仕組まれていた誘導。
あの様な奇形の構えを見て戸惑わず、考えず、即座に見抜くのは中々に困難。
警戒すれば距離を取るし、突っ込めば先の通りだ。
その結果は真桜にとっては何方等でも構わない。
仕切り直しか、逆転か。
“終わる事(最悪の結果)”だけは回避出来る。
それで十分なのだから。
途中、気付く事は出来た。
その可能性は有った。
だが、実際には気付けずに私は嵌まってしまった。
気付けなかったのは真桜の上手さも有るのだろうが、私自身の落ち度も大きいと言わざるを得ない。
奇妙な構えにばかり意識が行っていた証拠だ。
一番重要だったのは足元。
本来、槍を使う時には足の向きが体術や剣術とは違う形になる場合が多い。
それは当然なのだが。
真桜の構えは両足の爪先が前を向いていて、前後共に平行(歩形)だった。
それは左右には動き辛いが前後には最も行動し易い形だったりする。
それを、見落としていた。
(…真桜が後手に回ったと考えた事で、自分が優位と思い込み、判断が鈍った…
軽率過ぎる失態だ…)
己の不甲斐無さを恥じる。
しかし、真に誉めるべきは真桜の方だろう。
最初から狙っていたという訳ではない筈だ。
後手に回った時点で確かに真桜は追い込まれていた。
其処から、真桜は逆転へと持っていく一手を導き出し実践して見せたのだ。
称賛して当然だ。
(…“全尽の極致”か…)
それは武術の境地の一つ。
全力には二種類有る。
意識的に出せる全力。
自分の意思以外の他の要因により引き出される全力。
その後者の事を、雷華様はその様に称される。
経験を積む事で至れる、と話には聞いている。
しかし、それを実際に私が体験した事は無い。
強者との戦いに於いて──という訳ではないのだ。
その条件は人各々。
為ってみないと判らない。
事実、私だけではなくて、他にも未体験の人は居る。
簡単ではないのだ。
自分の主導ではないので、意識的には使えない。
ただ、それを知る事により意識的に引き出せる全力の幅が向上するのだ。
それだけに貴重な事。
望んでも至る事は出来無い雲を掴む様な境地。
だから、真桜を妬む。
其処に至ったが故に。
勿論、だからと言って私に真桜の実力等が追い付いたという事ではない。
しかし、全てを傾けるのは意識的には難しい。
その差は有るのも確かだが一撃ずつで撃ち合うという戦い方をしているからこそ私と真桜は拮抗した状態を生み出しているのだ。
“縛り”が無ければ戦いは既に終わっている。
そうはしない理由は幾つか存在してはいるが。
…やはり、個人的な理由が一番大きいだろう。
私は示したいのだ。
真桜(朋友)に、今の私を。
しかし、実際には私よりも真桜の方が示している。
どうにか凌ぎはしたものの冷や汗物だった。
確かに私は以前より強くは成ったのだろう。
雷華様に教わり。
華琳様達と切磋琢磨し。
私は成長している。
それでも、それは違う。
それとは別物だ。
私に、今の真桜と向き合う価値は有るのか。
そう考えてしまう。
(…いや、そうではない
それは違う、違う事だ…)
一瞬、己を疑い掛けた。
だが、そうではない。
真桜が其処に至った要因は間違い無く、自分だ。
実力差の有る私との闘いが真桜を至らしめたのだ。
ならば、自分と闘う価値は真桜には有った。
それだけは確かだ。
それだけは、何が有っても疑っては為らない事だ。
真桜に対してだけではなく雷華様や華琳様達…多くの関わる全ての人々に対して遣っては為らない。
自然と思い出されるのは、今は遠き在りし日の故郷。
其処に居るのは私と真桜。
私の──原点(始まり)。
(…真桜、口では言えない事だが…私は、お前の事が羨ましかったんだ…)
出逢った時からだ。
それからずっと、私は隣の憧憬(真桜)を見ていた。
無愛想で不器用な自分とは違って、真桜は愛想も良く器用だったし、何より常に前向きに考えられる事が、私は羨ましかった。
私は私、真桜は真桜。
そうなのだと判っていても心の何処かでは真桜の事を妬んでいたのだろう。
求めていたのだろう。
今は朋友だと言えるのだが“そう言える自分”に成る為に選んだのが、武術だ。
強く成る事で。
強く在る事で。
私は、真桜に必要とされ、朋友と呼んで貰える存在に為りたいと思った。
成れると思ったのだ。
不器用で、単純な私は。
(────っ!)
そう思っていた時だ。
先程の攻防時の真桜の姿が脳裏に甦った。
それだけならば、驚く様な事ではない。
つい先程も思い出していたばかりなのだから。
しかし、今は違う。
真桜の姿に、その中に。
はっきりと、楽文謙(私)を感じる事が出来る。
真剣な、愚直とさえ言える眼差しを向ける私を。
それを幻視した瞬間だ。
私の心を射抜くかの様に。
撃ち砕くかの様に。
大きな衝撃が走った。
(──何を考えていたっ!
私は何を考えたっ!)
そうではない。
そうではないのだ。
一体、何時からだ。
何時から靄の中に居ながら見えている気に為っていたのだろうか。
何時から、私は自分の事を“強者”だと考えたのか。
そんな筈が無い。
そんな訳が無いのだ。
まだまだ私は“弱者”だ。
到底、“強者”と言える程優れてはいない。
到達出来てはいない。
──満たされてはいない。
(此処で満足したのかっ?!
満足出来るのかっ?!
そんな訳が無いっ!
有る筈が無いっ!!
こんな所で満足していては絶対に届きはしないっ!!)
私達が、私が目指している“その隣(高み)”には。
その事を再認識する。
それだけで、靄に埋もれて見えなかった視界が戻る。
そして、見えてくる。
学ぶべき事など本人次第。
どんなに些細な事であれ、発見は其処に有る。
“子供の疑問は宝山だ”と雷華様は仰有った。
大人とは違う凝り固まった常識に捕らわれない発想や着眼点は未知への入り口。
大事な切っ掛けだ。
それは武や闘いでも同じ。
対峙する相手から学ぶ事は決して少なくない。
誰が相手でも、だ。
それを、何故失念した。
それは、私自身に生まれた慢心に他為らない。
情けない。
本当に、情けなさ過ぎる。
そして、申し訳無い。
雷華様に、華琳様達に。
誰よりも──真桜に。
真桜は、あの一瞬ですらも己の糧として成長した。
私の于禁への仕掛け。
それを見て、盗み、技へと昇華させて見せた。
一度きりの奇策だとしても事実は変わらない。
真桜は成長している。
今、この瞬間にも。
私も、応えなくては。
この闘いを無二の物とし、更に高みに至る為に。
朋友として恥じぬ様に。




