拾
諸葛亮side──
視界の中で、小龍に対して飢えた獣達が吠え掛かる。
その身体は鉄よりも硬く、羽根よりも軽く、髪よりも靭やかで、輝く宝石よりも美しいとされる鱗に覆われ護られている。
高が、獣ごときの爪牙では小さな傷を刻み付ける事も叶わないでしょう。
せめて、その巨顎の中へと飛び込み、内から噛み付く事が出来たなら。
喰い破る事も、叶うのかもしれないけれど。
恐らくは、無理でしょう。
全てを焼き払う灼熱の炎が荒れ狂うとされる龍の胃。
その中に入れば、高が獣は三つ数える間も無いままに燃え尽きてしまう。
黒く焦げ、炭と為って残る事も叶わない。
地獄に等しい、その中で。
小さく、儚い、命は容易く終わりを迎えるでしょう。
嗚呼、其処に居る小龍が、臆病なだけの蛇だったなら良かったのに。
簡単に噛み殺せたのに。
それが都合の良い妄想だと判ってはいても。
それを思い描いてしまう。
人間の性なのでしょう。
(──なんて、悠長に現実逃避などしている場合では有りませんよね…)
思考する事が仕事であり、軍師の本分だというのに。
その思考さえ自ら放棄して楽に為りたいと思う。
それ程の事が起きている。
一体、何が起きたのか。
ただ、その疑問だけが頭の中で繰り返され続ける。
思考を掻き乱している。
「──っ!?」
けど、“このままでは駄目になってしまう!”と心の片隅で声を上げた私。
その一言に引っ張られて、一度頭の中を空っぽにして意図的に思考を破棄する。
そして、両手で頬を叩いて痛みを切っ掛けに無理矢理意識を切り替える。
(今の私達には迷っている暇なんて無いんです!)
先ずは状況を把握する。
ただ、予定していた位置に曹魏が到達していない為、全体までは把握出来無い。
曹魏の人数が判らない為、飽く迄も見えている範囲内でしか判らない。
だけど、弱音は吐けない。
それでも何とかしなくてはならないのだから。
(順番に考えましょう…)
予定では星さんの仕掛けが開戦の合図でした。
でも、その星さんの部隊は動いてはいなかった。
今は動かざるを得ない形で動いてしまった為、地形が仇と為って、此方の動きが妨げられている状態。
…いえ、曹魏の戦い方から敢えて意図的な拮抗状態を作り出している様な印象が感じられます。
その為、でしょう。
(…その狙いは?)
幾つか、それらしい答えは脳裏に思い浮かぶ。
けれど、腑に落ちない。
“何か”が足りない。
そんな気がしてならない。
「──っ!?」
響き渡る一つの怒号。
今の状況を把握するには、それだけで十分だった。
同時に軽く考えてしまった自分に対して憤る。
防げた筈なのだから。
しかし、悔いても遅い。
だから、せめて。
間に合わせる為に。
私は私に出来る事を遣る。
──side out。
荀或side──
兵達に経験を積ませる為に私達は必要以上には指示を出さない様にしている。
…だからと言って、私達が暇という訳ではない。
当然、将師としての職務はきちんと熟しているわ。
サボる訳無いじゃない。
懲りずにサボる珀花や灯璃じゃあるまいし。
基本的に、細かい指揮等は各小隊──百人一隊の中で各隊長に任せてある。
新兵だとは言っても曹魏の正式な軍属の兵士達。
当然ながら、その鍛練には生温い事など何一つとして存在していない。
既存の考えとは、比べ物にならない位にね。
だから、新兵とは言っても全員が最低でも他所でなら千人隊長に為れる程度には実力を持っている。
勿論、中には抜けた者達も居る訳で、その者達ならば将でも通用する。
それ程に曹魏の兵の実力は高かったりする。
抑、曹魏の軍属の正規兵に為れる割合は低い。
志願者が一万人居たとして“訓練生”として合格する人数は凡そ百人。
いえ、それ以下でしょう。
兎に角、選考基準が厳しく他所では考えられない様な状況だと言える。
…普通なら、徴兵してから調練するでしょうしね。
其処から地獄の様な鍛練や勉強が始まる。
途中で脱落する者も決して少なくはない。
それでも、それを乗り越え真に“国の為、民の為”に戦う事が出来る。
その覚悟を持った者だけが到る事が出来る。
それが、曹魏の兵士達。
そう遣って鍛え上げられ、選り抜かれた者達でも。
“本物”の戦争(殺し合い)というのは実戦でしか経験する事が出来無い。
今はまだ、機会が有るけど十年、二十年経った頃にはその機会は無くなっている可能性も無くはない。
既に曹魏の国内では賊徒の被害は皆無に等しい。
北方や西方にて偶に起きる程度でしかない。
だから、こういった機会は貴重であり有効活用しない理由が無い訳よ。
「とは言え、これは流石に持て余すでしょうね…」
小さく溜め息を吐きながら近付いてくる元凶に対し、どうするかを考える。
…いいえ、考える事自体が必要無いわね。
「貴女を御指名みたいよ」
雷華様程ではないにしろ、私達にも氣に表れる感情の“色”は大雑把には判る。
それによれば、一人。
物凄い憤怒を向けて此方に迫っている者が居る。
そして、その殺気が愛紗の旗に叩き付けられている。
それだけで理解するのには十分でしょう。
「ああ、その様だな」
「私は全体を見ながら隊の維持だけに止めるわ
其方は適当に御願いね」
言外に“貴女の御客だから貴女が持て成して頂戴ね”という意思を見せる。
すると、愛紗は少しだけ、困った様に苦笑した。
「善処しておく」
「出来れば其処は了承して欲しいわ…」
雷華様みたいね。
…まあ、散々見てきたし、遣られてもいるし。
こういう状況だと、そんな風に言いたくなるわよね。
面倒だけど。
──side out。
関羽side──
潜み、待ち受ける敵軍。
此処の地形と道の狭さから此方は縦長の隊列を組んで進まざるを得ない。
その為、一列四人で組み、動ける広さを確保しながら迎撃出来る様にしている。
だから包囲されたとしても特に心配はしていない。
懸念が有るとすれば新兵達故の緊張による遅れや混乱といった事だろう。
低いとは言え、全く無いと言い切る事は出来無い。
それは心に因るのだから。
そんな中、想定したよりも早い仕掛けを受けた。
即座に密集し周囲を警戒し迎撃に移った各隊長による判断は上々だと言えよう。
如何に訓練では優秀でも、実際には戦場に立った時に実力を発揮出来無くては、何の意味も無い。
その為、曹魏の鍛練内容は精神修養を重視している。
とは言え、受けている方は気付きはしない。
その鍛練に隠された真意と雷華様の意志と思想を真に理解するのは、実戦経験を経た先になる。
その時こそ、彼等は本当の意味で曹魏の兵となる。
国を、民を護る刃に。
だから私達は多くを言わず彼等に任せる形を取る。
成功や勝利は自信に為る。
しかし、失敗や敗北もまた更なる成長の糧となる。
故に、必要なのは自主性。
彼等自身が判断・決断し、行動し、責任を負う。
それが大事なのだから。
そう、私達も雷華様により教えられてきたのだ。
ただ、如何に彼等が他所の兵に比べて優秀で有っても劣る相手は居る。
今や天下を三分割している勢力にて将師として立つ、稀代の傑物たる者達。
この戦乱の時代を華々しく彩るであろう、猛者達。
その者達が相手となれば、新兵達には荷が重い。
その事は私も桂花も十分に理解している。
だから、桂花からの旗から離れ対処する様に任された事に異論は無い。
事実、その相手──張飛は私が狙いの様だからな。
(…多少なりとも、か…)
自軍の兵達が動き易い様に開けている隙間を縫う様に駆け抜けながら、思う。
張飛の事を知る者であれば大体が彼女を“無邪気”と評する事だろう。
流石に幼子の様に社会的な柵が無い“純粋さ”を持つという訳ではない。
いつも明るく、前向きで、自分に正直で、大食らい。
よく食べて、よく遊んで、よく寝て、勉強は嫌い。
じっとしている事が苦手な子供の様な性格をしている事も有って、そういう様な印象を懐くのだ。
勿論、間違いではない。
彼女は基本的に正直だから嫌な事は嫌だと言う。
それ故に、気付かない事も時には有るのだろう。
彼女が心に負っているのは深い別離(傷痕)だと。
“甘え方”を知らない故に抱え込んでいると。
彼女以上に厄介な者が居て困っているから。
だから、気付けなかった。
その小さな綻びの予兆に。
そして、招いてしまった。
今の事態を。
兵達の間を駆け抜けながら周囲の状況も確認する。
他の事は桂花や新兵達へと任せてはいても、戦う以上余波が及ぶ可能性は有るし巻き込んでしまう事も十分考えられる事である。
そうならない様にする為、随時情報の収集は必要だ。
(趙雲は沼の中か…)
人混みという沼地に填まり身動きが取れない趙雲。
此方が事前に指示していた“拮抗状態を維持する事”というのが効果を発揮してくれている様だ。
ただ、それは偶然だ。
本来の意図は新兵達に対し経験を積ませる為。
掃討するだけなら新兵達は簡単に遣ってしまう。
攻め殺すより、耐え守る。
その方が難しい。
だから、その経験を介して獲られる事は多い。
それ故に、趙雲の事は偶然でしかない。
その要因を挙げるとすれば張飛の仕掛け──恐らくは暴走なのだろうが、それが全てだと言えよう。
現に他の敵部隊の一部には動揺している気配が滲む。
それでも、動かなくては。
その一心で行動する。
しかし、結果的に予定とは違った為のズレが生じる。
それは仕方が無い事だ。
だが、それを修正したり、立て直す力が敵の兵達には存在していない。
暴走と動揺がズレを生み、ズレが混乱と不和を生み、小さな綻びが大きな狂いを生じさせてゆく。
急造の、使い捨てが前提の部隊なのだ。
当然と言えば当然だ。
寧ろ、そうは為らない方が可笑しい位だ。
…まあ、雷華様が遣るなら有象無象の寄せ集めだったとしても、恐ろしいがな。
少なくとも、その域の事が劉備達に出来るとは私には思えない。
だからと言って、決め付け油断や隙は生まないがな。
裡に有る自心(敵)の怖さは身に染みているのでな。
「関羽うぅううぅっ!!!!」
──と、其処で戦場を切り裂く様に、私を呼ぶ怒号が響き渡った。
張飛の声に間違い無い。
だが、まだ私自身は張飛に目視されてはいない。
視線を感じないからだ。
だとするなら、今の怒号は私を見付けられない事への苛立ちから、だろう。
挑発すれば私の方から姿を見せるかもしれない。
そういう狙いが有るのかもしれないが。
普通なら、敢えて姿を隠し張飛の意識を引き付けて、敵部隊を乱す所だろう。
或いは、張飛の事は放置し身動きの取れない趙雲へと攻撃を仕掛けて討ち取る。
若しくは、敵本隊に対して奇襲を仕掛ける。
そういう場面だろう。
但し、その場合には張飛の相手を兵達が担う事になる以上は確実に犠牲が出る。
張飛達の武の才は雷華様が“今の時代を象徴する様に生まれてきた傑物達だ”と認められている。
加えて、この地形と状況。
先ず、百を越えるだろう。
それは曹魏の軍将として、重臣として、何よりも妻の誇りとして。
許す訳にはいかない。
よって、答えは一つ。
私は応戦する兵達の背中を飛び越え、敵の真っ只中へ飛び込んでゆく。
そのまま周囲の敵を倒し、真っ直ぐに私を探し続ける張飛へと向かう。
敵兵達の上げる絶叫。
悲鳴にも似た断末魔。
それらを聞いて、私の方に張飛が顔を向けた。
その瞬間、視線が重なる。
張飛の双眸が揺れた。
驚き、懐かしさ、悲しみ、安堵、憤怒、憎悪、喜び、嬉しさ、寂しさ、切なさ。
様々な感情の入り混じった眼差しが私を見詰める。
普段から裏表の無い性格の張飛だからこそ。
その双眸に浮かぶ気持ちの全てが本物であり、彼女の私に対する想いである事を感じ取る事が出来る。
僅かに…本の僅かにだが。
胸の奥がチクリと痛む。
小さな棘が刺さったまま、抜けていない様な。
忘れていた古い傷の様に。
痛みを感じる。




