玖
疾駆しながら、自分の戦う相手──関羽の姿を探す。
それと同時に素早く見回し少しでも戦況を把握する。
先ず、関羽の位置だが。
普通、戦闘前ならば自身の旗の側に居る事が多い。
勿論、絶対ではないが。
基本的に“私は此処だ”と存在を誇示する事で味方の士気を上げる意図も有り、味方の伝令役や指揮系統の目印としての役割も有る。
だから、旗が上がっている場合には大体は側に本人が居るというのが常識。
それを逆手にとって奇襲や陽動に利用するという手も無くはないが、現状で遣る意味は無いだろう。
何しろ、関羽達からすれば相手は正体不明。
可能性として、我々である事は想定していたとしても確認するまでは判らない。
その確認の為に、といった可能性は有るだろう。
ただ、民(兵達)を囮にして遣るとは思えない。
また、旗だけを挙げていて実際には将師は隊に居ないという事も考えられるが、そんな“見せ掛け”をする理由が思い浮かばない。
だから、居る筈だ。
旗を見付ければ、其処に。
関羽達は居る筈なのだ。
──但し、それが出来ればという話だが。
(──くっ…此方の作戦が裏目に出てしまったか…)
思わず舌打ちしてしまう。
それ程に状況が悪い。
本来であれば、仕掛ける際前方寄りに位置を取る事で指揮をしながら、敵将へと近付いてゆくか。
或いは、ある程度の距離を置いて後方から指揮をし、広く視野を持つ。
その予定だったのだ。
だが、予期せぬ事態となり動かざるを得なくなった為何方等も出来無かった。
その結果、半端な位置へと身を置いてしまった。
突撃の命令を受けた兵達は迷う事無く行動を開始。
それ自体は問題無い。
ただ、その人波に飲まれる形で、私自身が動かされた事が問題なのだ。
私達の正体を隠す為に、と馬を使ってはいない。
その為、女性としては低い事はないのだが、兵である男達の中に入ってしまうと背は高くなくなる。
つまり、視界が悪くなってしまうのだ。
だから、周囲を見回しても不揃いな格好の自軍の兵の姿ばかりという状況。
最悪としか言えない。
だが、修正は難しい。
今から位置取りを変えると後手後手になるだけ。
自分の状況だけは改善する事は出来ても、部隊自体が統制を失ってしまう。
元々無いに等しいとは言え利害関係の一致によって、兵達は結束している。
それが失われてしまえば、文字通りの烏合の衆。
駆逐されて終わりだ。
このままで遣るしかない。
(…取り敢えず、前方には旗は無かった…
関羽らしい姿もだ…)
改めて確認したい所だが、それが出来無い以上、今は持っている情報から判断し行動するしかない。
だとすれば、目指す場所は隊列の未確認の部分。
其処に関羽が居ると信じて賭けるしかない。
自軍の兵達の間を潜り抜け怒号と雑踏、剣戟の混ざり響く中で祈る。
賭けに勝てる事を。
しかし、そんな祈りですら嘲笑うかの様に。
戦況は悪化してゆく。
(どうなっているっ!?
何故、前に進めないっ!?)
最初は、何とか潜り抜ける事が出来ていたし、一気に進まなくとも僅かずつでも確実に進めていた。
それが、この有り様だ。
曹魏の隊列へと近付く程に身動きが取れなくなって、自軍の兵達の中に埋もれる格好に為ってしまった。
槍を振るう事は愚か体勢を変える事も儘ならない。
狭い部屋へと目一杯に人を詰め込んでいる様な場所。
そんな中に居るみたいだ。
はっきり言って息苦しいし日頃から碌に身体や衣服を洗ってもいない様な連中に包囲されているのだ。
臭くて仕方が無い。
出来る事なら、周囲に居る連中を斬り殺してでも外に出たいと思ってしまう。
と言うか、殺りたい。
それが出来無いからこそ、もどかしいし、苛立つ。
殺ってはならないと頭では理解はしていても。
考えてしまうのは仕方無い事なんだろうな。
しかし、それは何も私一人だけに限った話ではない。
自分の周囲に居る兵達にも同じ事が言えるのだ。
「おいっ!、退けっ!
邪魔なんだよっ!」
「煩ぇっ!、手前ぇの方が何処行きやがれっ!」
「何だとコラァっ!
先にぶっ殺すぞっ?!」
「──っ!?、痛ぇなっ!?
誰だ殴ったのはっ?!」
「敵が見えねぇだろっ!
其処の糞禿げ退けっ!」
「──アアァンッ!?
んだと豚ァっ!
喧嘩売ってんのかっ?!
暑苦しいんだよっ!」
「ちょっ!?、誰だよっ!
俺のケツに武器当たってんだろうがっ!
痛ぇから退けろっ!」
「手前ぇっ!、今、俺様の足踏みやがったなっ?!」
「オオッ!、踏んだぜっ!
だったら何だってんだっ?!
役に立たねぇ手前ぇの足を踏んで何が悪ぃんだっ!」
「あー糞っ!、邪魔だっ!
邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔っ!!
手前ぇ等全員死ねっ!!」
「お前が死ねっ!」
「お前も一緒に死ねっ!」
気付けば、味方──と呼ぶ事には少々疑問が有る事は否めない関係だが──同士啀み合い始めている。
曹魏(敵)を前にしながらも実際には目視する事さえも出来無いという現状。
闘争心を駆り立てる欲望が悪い訳ではない。
士気が高まるのであれば、それを煽るのも有りだ。
それが結果に繋がるのなら有効な手段である。
だが、今は不味い。
本来、敵に向けられる筈の意欲が行き場を無くして、自分の邪魔をする味方へと向けられてしまっている。
その上、連中は苦楽を共にしてきた訳でもなければ、明確な忠誠心や上下関係・仲間意識が有るという様な訳ではない。
文字通り、利害関係のみ。
利は共通しているけれど、互いに害する関係でも有り隙有らば他者を蹴落として自分が利を得ようと。
そう考えている者が大半を占めているのだ。
互いに助け合い、支え合うという考えは全く無い。
このままでは、直ぐにでも瓦解し兼ねない。
しかし、何も出来無い。
自分自身も彼等と同じ様に“周囲の他者達(味方)”が邪魔だと思うのだ。
気持ちの込もってはいない言葉では、誰も従える事は出来無いだろう。
(…いや、此処で焦っても仕方が無い…
今は考えるなくては…)
自分よりも戦場を俯瞰する事が出来る場所に移動して陣取っている筈の朱里なら打開策を考え、打つ筈。
それを信じ、自分の出来る事に今は集中する。
…考える事しか出来無いが仕方が無いだろう。
兎に角、一旦頭を冷やして落ち着く事にする。
そして、考えてみる。
先ずは、この状況からだ。
何故、こんな状況に為ってしまっているのか。
その原因は何か、だ。
(曹魏の部隊は隊列のまま周囲を警戒する密集体形を取っていた筈…
となれば、此方が包囲する形に近くはなる、が…)
それは全体を包囲出来ればという話の上でだ。
実際には部分的に奇襲し、横撃や挟撃を伏兵が斜面を降って行う手筈だった。
つまり、現時点で包囲する事は出来てはいない筈。
加えて、平地ではないし、広場の様な場所でもない。
だから、互いの兵が対する人数は限られてくる。
それは当然の事だ。
一人を一万人で包囲しても直接戦う事が出来る人数は多くても十数人。
包囲する輪が、小さければ小さい程に人数は減る。
更に密集し過ぎてしまえば今の自分達の様に身動きが取れなくなり、逆に相手に簡単に攻撃を許すだろう。
包囲して矢を射るならば、距離を置かなくては味方を巻き込んでしまう。
よって、包囲戦では槍兵が主体となる場合が多い。
…今は関係無い事だが。
要するに、現状で交戦中の兵達は両軍の一部。
そして、少なくとも此方の兵に被害が思っていた程に出てはいない事になる。
塞き止めた川の水と同様に行き場を無くしてしまって溜まっている訳だ。
判り易い所で言えば、狭い出入口の多くの人が一気に押し寄せてしまった。
そんな感じだろうか。
(それ自体は理解出来る
だが、それにしても状況が不自然で仕方が無い…)
それは拮抗しているという事に繋がってくるのだが、其処が可笑しいのだ。
一見して、予想以上に良い働きを見せてくれていると考える事も出来るが。
そんなに甘い相手では無い事は判っている。
だから、引っ掛かる。
交戦する人数は限られても実力は均等ではない。
両軍の実力差を考えたなら曹魏の兵一人が倒れる間に此方は最低でも五〜六人は兵達が倒されていなくては可笑しい。
その状態を想定していたし曹魏が兵を使い捨てる様な真似をするとも思えない。
故に、現状は異常だ。
(となると…これは曹魏が意図的に拮抗させていると考えるべきか…
だが、狙いは何だ?)
此方の兵達が思った以上に優秀だったという可能性は無いに等しいだろう。
一人二人なら兎も角な。
包囲されない様に、敢えて敵を倒さない事で敵の策を乱し、逆に動きを封じ込め突破口を見出だす。
対応策としては有効だ。
しかし、それは戦力的にも状況的にも劣勢な場合。
この曹魏の精鋭部隊ならば普通に交戦すれば突破する事は可能だと思う。
可能性として考えるなら、犠牲者が出る事を忌避して慎重に応戦している、か。
(…有り得なくはないか)
民の命を重んじる曹魏なら可笑しくはない。
だからこそ下位の兵でなく精鋭を送り込んできた。
そう考えると辻褄は合う。
合うのだが…奇妙だ。
違和感が拭えない。
それだけとは思えない。
理屈ではない。
幾多の戦場を戦い抜いた、戦士としての勘。
(何かを見落としている?
…いや、そうではない)
そうだ、前提条件が違う。
仮に、曹魏が誘い込まれた事を想定していたのならば反応の仕方が異なる筈だ。
あの時、私が目にしたのは確かに“驚き”だった。
少数精鋭なら兎も角として千人を越える部隊の全員が敵を騙しきる程の演技力が有るとは思えない。
(──そうだ、其処だ
あの時、何が起きた?)
急な事態と、この状況から忘れ掛けていたが、あの時何が有ったのか。
考える暇は無かったのだが“曹魏が此方を発見した”可能性は低い。
何故なら、全方位に対して警戒態勢を取ったのだ。
もしも、朱里の居る本隊に気付いての事だとしたら、部隊の前方に対して警戒を強く持った筈だ。
だが、そうではなかった。
それが意味する事は一つ。
曹魏が周囲を警戒したのは朱里の本隊に気付いたからではない。
“何か”が起きたのだ。
此方にも、曹魏にも予想外だった何かが。
それは一体何だったのか。
少なくとも曹魏側に起きた事では無い事は確かだ。
だとするなら──此方だ。
此方で何かが有った。
そう考えるべきだろう。
では、それは何か。
何処で作戦を開始させるか判断する役目を朱里は私に一任していた。
その事から考えても当然、朱里の動きではない。
仮に、朱里が策を変更して動いたのだとすれば、先程私が考えていた様に曹魏の警戒は前方に強く向かった筈なのだから。
抑、その場の判断で単独で行動出来る軍将とは違い、軍師というのは部隊を使い行動するもの。
その動きが見られなかった以上は違うと言える。
では、伏兵として周囲へと散っている沙和や黄蓋達の部隊の兵達が欲に駆られて勇み足に為ったか。
可能性としては朱里よりは有ると言えるだろう。
ただ、沙和は兎も角として黄蓋達の可能性は低い。
もしも黄蓋達だった場合、それは最悪だと言える。
黄蓋達──孫策は、此処で我等を罠に嵌め、始末して曹魏に取り入る。
そういう可能性が有る。
とは言え、それなら孫策は自分も出て来ていそうだ。
家臣達を信用してはいないという訳ではなく。
単純に彼女の気質からして重要な局面であるのだから必ず自分が出向く。
そうするだろうから。
となると、残るは鈴々。
(──っ、まさか…)
その可能性に思い至ったと同時だった。
戦場を飲み込む剣戟・叫声・雑踏を掻き消すかの様に一際大きな怒号が響く。
その瞬間、自分の脳裏へと思い浮かんでいた可能性が正解で有った事を悟る。
恐らく、先の展開としては敵味方入り乱れての乱戦に発展する可能性は低いが、ある意味では最悪だ。
どうにかして現状を脱して向かわねば。
遅れた時点で全てが其処で終わるのだから。
──side out。




