伍
趙雲side──
──七月十五日。
━━緜竹
広漢郡──今は曹魏で何と呼んでいるのかは判らない所ではあるが、今の此方の認識としては他に呼ぶ事が出来無い為、漢王朝時代の地名のままで使用している──に有る緜竹という地に遣って来ている。
この緜竹は、我等の主城で首都でもある成都から実は以外と近かったりする。
ただ、下流域に比べれば、川幅は狭いとは言うものの大陸を代表する二大河川。
その内の片方である江水の上流域が曹魏との境界線を担っている。
川幅は狭いとは言うものの其処等の川幅よりは遥かに広い事には変わらない。
加えて、上流域は山間部を流れており、川の周辺部は険しく切り立った崖が多く容易には進めない。
勿論、それは互いに言える事ではあるのだが、曹魏が此処を通る理由など無いに等しいだろうな。
その為、苦労を味わうのは我等だけだとも言える。
理不尽に感じなくもないが此処が仕掛けるのだから、仕方が無い事だろう。
“貴国と戦争をしますから其方等から攻め込んで来て貰えますか?”と言う様な馬鹿は居ないし、了承して攻めてくる馬鹿も居ない。
あの袁紹達ですら、それは遣らないだろう。
……多分………恐らくは。
まあ、それは兎も角。
そういった立地条件からも互いの警戒度は低い筈。
曹魏の方は予想でしかない話ではあるが、我々の方は警備部隊は勿論、監視所も置いてはいない。
割ける人員や資金力が無いという切実な事も現実的な要因なのは確かな事だが、実は他にもっと大きな理由が有ったりする。
それは──大義名分。
攻め込まれるのであれば、此方としては曹魏を悪だと声高に宣言する事が出来る大義名分を得られるのだ。
下手に抗戦したりしても、無意味に被害が出るだけ。
それは非効率的だ。
勿論、絶対に攻めてくると確信が出来るのであれば、敢えて其処に人員を配して“尊い犠牲(戦う理由)”で更なる士気の強化と向上を期待出来るのだがな。
…個人的には遣りたくない策ではあるが。
そうなったら、甘ったれた事は言っていられないのは私自身も理解している。
割り切れるかは別として。
戦争を考える上で領内での意思統一と、結束・団結の向上を促せる“相手が悪で我々は正しい”という事。
その認識が有るか否か。
それだけで、内部事情とは大きく変わってくる。
現状、我々は曹魏に関する情報を規制している。
曹魏に対しての反感を煽る為に悪評等を吹聴する事も一つの策ではある。
しかし、実際に決戦となり真実を知った時、騙された事を知れば、敵意は一転し我々に向けられる。
そうなれば我々に“次”は存在しなくなる。
行き場も、逃げ場も。
全てが失われてしまう。
その為、そういった手法は極力避けている訳だ。
…皮肉な物だな。
相対そうとする事で自らが悪だと判るのだから。
笑えない事だが、な。
鈴々や沙和、黄蓋達本隊と分かれて、“誘い”を開始してから、今日で三日目に突入している。
一日では動かないだろうと思ってはいた為、日数的な焦燥感やもどかしさという気持ちは殆んど無い。
ただ、入れ替えているとは言っても、事が事なだけに単調な作業に近い感覚。
それは気の緩みや退屈感を否応無しに懐かせる。
朱里の作戦通り、兵達には白壁の門扉周辺を無意味に彷徨かせてはいる。
決して、攻撃をする姿勢や探索・調査をする素振りは見せない様にして、だ。
それ以外となると、どんな行動をすればいいのか。
正直、説明には困った。
ただ彷徨くだけでも視線は彼方此方へと無意識の内に向いてしまうもの。
それを無理に止めさせれば逆に不自然さが目立つ。
実に難しい注文だ。
それでも、どうにか形には出来ていると言える。
まだ結果は判らないが。
「…朱里よ、正直な所で、お主の見立てでは何日程を考えている?」
その為、思わず朱里に対し訊ねてしまった。
疑っている訳ではない。
しかし、線引きは必要だ。
ただ、“効果が出るまで”という意味ではない。
“引き際は”という意味で私は訊ねている。
それは朱里も理解している事だとは思う。
効果が“絶対に”出る策を遣っている訳ではない。
飽く迄も、可能性を持った策でしかないのだ。
だから必ずしも効果が出るという訳ではない。
故に、必然的に後者の意で朱里は受け取るだろう。
これが沙和や鈴々であれば説明が必要だろうがな。
「…四日…長くて五日です
ただ、それは彼方に動きが僅かにでも感じられればの話に為りますが…
現状のままでは、五日目は厳しいでしょうね…」
「つまりは明日までか…」
無意味に長く遣り続けても徒労に終わるだけ。
寧ろ、此方が誘っていると知られてしまうだろう。
そうなるのは大失態だ。
交戦した結果、此方の策に気付かれてしまう場合と、交戦する前に気付かれるのとでは大きく違う。
“戦いを始めた”と言える状況で有るのか否か。
それが重要となる。
後者の場合、曹魏に対して侮蔑する様な真似をしても無視されて終わりだろう。
曹魏に白壁の外に出て来て貰わぬ限り、我々には先ず勝ち目は無いと言える。
…主の“切り札”も絶対だとは思えない以上、本当に必要な時に、或いは決め手として使う事が最も望ましいだろう。
だから、最初から計算上に入れてはならない。
飽く迄も苦境に際した時に覆す為の最終手段。
そういう認識で臨まねば、失敗してしまうだろう。
故に此処には居ない。
ある意味、宣戦布告をするという意味でだけならば、主の“アレ”を使った方が手っ取り早いだろうがな。
そう為ったら切り札として使うのは厳しいだろうな。
何方等を取るかは悩ましい所なのが本音だが。
本当に、難しい戦いだ。
今までの戦いが児戯にすら思えてしまう程にな。
だが、よくよく考えたなら当然なのかもしれない。
基本的に我々は──いや、私個人にしても言えるが、自分から戦いを始めた事は殆んど無いと言える。
勿論、全く無い訳ではなく有るには有るのだが。
それらと今回とでは、全く異なる部分が有る。
決定的な違いとも言える。
それは自分が“悪”として戦いを始めるという事だ。
これまでは、戦禍の中へと身を投じてきていた。
勿論、理由は様々だ。
だが、その何れもが相手が悪であり、私は正義。
その形だけは同じだった。
けれど、今回は逆だ。
曹魏に悪となる要因は無く我等こそが害悪だ。
孫策の言った通りに。
我等の──桃香様の意志は既に民の為の物ではない。
己が為の欲望(野心)だ。
それを叶え様とする我等は正しく邪魔者である。
存在するべきではない。
その事を痛感させられる。
“それでも…”と思い。
前へと進み続ける理由。
それは単純に引き返せない程に追い詰められた状態に為ってしまっているから。
ただそれだけなのだろう。
本気で、全てを捨て去って引き返そうと思えば決して出来無い訳ではない。
それこそ、狂った桃香様を自らの手で討ち取り、後を追って自害する。
そういった選択肢は有る。
桃香様の──我等が共感し心を掴まれた理想を掲げた桃香様の意志を尊重すればそうするべきなのだろう。
“全ての民の笑顔の為に”桃香様は、我々は。
存在するべきではない以上死して然るべきなのだ。
だが、そうする事を我々は選ぶ事が出来無かった。
出来無いままでいる。
その理由は大きく分けると二つ有ると言えるだろう。
一つ目は、過去と未来。
今までの自分達の言動や、散って逝った者達に対する責任を放棄する事。
それに伴う苦悩と罪悪感のあまりの大きさ。
そして、そうしてまでも、生き続ける事の意味が全く見えないという事。
それらが他の選択肢は取る事を赦さない。
下らない自尊心(誇り)かもしれないのだがな。
そして、もう一つ。
桃香様の意志の所在。
それが判らない為だ。
皆から話を聞いた限りでは桃香様の曹操への対抗心は“黄巾の乱”の最中での、その出会いの一連から来る物の様には感じられる。
しかし、それ以前の部分で曹操と接点が全く無いとは言い切れないのだ。
“夜の帝王”の主ですら、桃香様に訊ねる事を躊躇う禁句中の禁句。
故に、真相は判らない。
ただ、可能性としては未だ確かめる事が出来無い為に残っている訳で。
それを加味すると、本当は桃香様の意志は以前からも“曹操に勝つ”事。
ただそれだけだったのかもしれないのだ。
だとすれば、我々が忠誠を誓った桃香様は変わらず、ただ隠していた本音を漸く見せて下さった。
そう受け取れるのだ。
躊躇いもするだろう。
今更、なのだろうがな。
つい、そういった様な事を考えてしまう事は有る。
仕方が無いのだろう。
覚悟は決めてはいるのだが意志は揺れている。
揺れ続けてしまうのだ。
「…星さん、もし桃香様の意思を尊重する事が苦しいのでしたら私達から離れて頂いても大丈夫ですよ?」
「──っ…」
不意打ちで掛けられた声に身体が跳ね掛けた。
“なっ!?”と声を出しても可笑しくなかっただろう。
あまりにも正確に的を射た朱里の言葉であるが故に。
そうは為らず、堪えられた理由は負けず嫌いな為。
そして、格好付けたいからだったりする。
小さく、覚られない程度に息を呑んで、間を置く。
とは言え、置き過ぎる事は朱里の言葉を肯定するのと変わらない以上、置く間は本の僅かなのだが。
それで切り替える。
動揺を見せない様に。
乱れ掛けた思考を立て直し状況を把握する。
視線は……感じられない。
という事は、朱里は此方を向いてはいないか。
それならば、多少の身体の反応は許容範囲だろう。
だが、此方から朱里に対し視線を向けてはならない。
武人ではないとは言っても視線に敏感なのが女の性。
気付かれるだろう。
此処は下手な真似はせずに平静を装うべきだな。
「お主にしては弱気だな?
ひょっとして、お主自身が苦悩に堪えられぬか?」
少々、揶揄う様に返す。
…挑発、とも受け取れるが何方等でも構わない。
こうして、此方の気持ちが整うまでの時間を稼ぐのが狙いなのだからな。
「……そう、ですね…
本音を言ってしまうのなら苦悩は絶えません…
そして私の心を深く抉り、傷付け穢し、蝕みます…
これまでの全てを忘れて、平凡な民として曹魏に住み生きてゆきたい…
本気で、そう思います…」
あまりにも予想外な展開に頭が真っ白になる。
同時に遣ってはならないと判っていた筈なのに、顔を朱里へと向けていた。
作戦行動中の兵達の様子を見詰めている朱里の横顔を凝視してしまう。
その事に気付くのは朱里が此方を向き、二人の視線が重なって、朱里が苦笑した後になる。
それ程までに、茫然自失と為る様な一言だった。
「勿論今のは、叶うのならの話ですけど…
本音なのは確かですね」
“でも、今のは皆さんには内緒ですからね?”と言う朱里の姿を見詰めながら、私は理解してしまう。
狂う所まで追い詰められた桃香様は可哀想だ。
しかし、それ以外に彼女を支える為に心身を削り続け今にも消えてしまいそうな所にまで来てしまっている朱里の方が憐れだ。
朱里に救いが有るとしても苦難の果てだ。
曹魏に勝った後、桃香様の理想を実現して。
其処まで至って、漸くだ。
漸く、朱里は報われる。
其処まで至る事は勿論だが生き続けなくてはならない事を忘れてはならない。
志半ばで倒れてしまっては全てが無意味に為るのだ。
(…何と長く険しく苦しく辛く過酷な道だ…)
“自分で選んだ結果だ”と言えば、それまでだが。
この小さな身の少女に対し天は何という残酷な試練を与えたのだろうか。
そう思わずには居られない気持ちを抑え込む。
同情や憐憫は無意味だ。
ならば、私に出来る事など一つしか無いだろう。
「朱里よ、我が命、お主に託し、捧げよう
必ずや、共に未来を」
「…っ……星さん…」
「…むっ、見よ、朱里
漸く吉報の様だな」
「…ぐすっ…はいっ!」
桃香様には申し訳無いが、我が命の使い途は私自身が定めさせて貰う。
この小さな背を守る為に。
──side out。




