拾
賈駆side──
一仕事を終え、固くなった首と肩を揉み解しながら、背凭れに身体を預ける。
大きく吐き出す溜め息。
同時に仰け反る様に天井を見上げ身体を弛緩させる。
少し気を抜けば疲労感から襲い来る眠気に簡単に屈し意識を手放せる気がする。
…いや、冗談ではなくて、割りと本気で。
それ位に、忙しい。
(……それは違うわね)
忙しいのは今に始まった事ではない。
基本的に、毎日忙しい。
荊州・揚州・交州と手にし統治に成功しているけれど一気に領地が拡大した分、遣るべき事は山積み。
本音を言ってしまうなら、劉備の自分勝手な我が儘に付き合っている暇なんて、無駄以外の何物でもない。
それはまあ、私達としても曹魏との将来的な関係には一戦は必要だと考えている以上は、いつかは戦う事に為るのだけれど。
“別に今でなくても…”と思ってしまう訳で。
“この忙しい時に、余計な仕事を増やしてくれたわね
もしかして劉備達は私達を過労死させたいのかしら?
実はそれが本当の狙い?”なんて事を考えてしまうが可笑しくはない。
人材は劉備達よりも多いと思うけれど、出来る事には限りが有るのは確かで。
何より、時間は増えない。
時が経つのを遅らせる事も出来はしない。
だから、大変なのよ。
厄介な話を持ち込んできた劉備達を、思わず、本気で殺したくなる程度にはね。
尤も、劉備達からすれば、今を逃せば曹魏──いえ、“曹操”に勝てる可能性は無くなるでしょうしね。
だから、動くしかない。
劉備(主君)の妄執(意思)に従って、叶える為に。
それが人道に反する事だと理解していても。
止まらずに、ね。
(…本当、狂ってるわ…)
椅子に深々と座って天井を見上げたまま、右足で床を蹴って椅子を動かす。
キイィ…と音を立てながら椅子は右回りに回転。
視界に映った天井は一点を軸にして回る。
祐哉から案を貰い造らせた“回転椅子”である。
今は諸事情から一部でしか使用してはいない品だけど将来的には量産する予定。
売り出せば、結構な収入を得られるでしょうしね。
それは兎も角として。
私は視線を天井から窓へと移し、いつもと変わらずに其処に在る空を見詰める。
何気無く見上げても。
空はいつも其処に在る。
失われる事は無く。
離れ離れにもならず。
常に、其処に在り続ける。
時に、苛立ちを覚える程、当たり前に。
頭では理解をしている。
私は孫家の、孫呉の軍師・賈文和なんだと。
もう、董卓の軍師の賈文和ではないのだと。
解ってはいる。
“敵”に勝つ為に知を以て活路を見出だす事が仕事。
其処に、私情を挟む真似は決して誉められはしない。
私的な見解とは違う。
個人の感情は冷静な思考の妨げになるのだから。
そう解っている。
解ってはいるのだけれど…
「──簡単には割り切れんっちゅう顔やな、詠?」
唐突に掛けられた声。
それが誰の物かなんて事は一々訊くまでもない。
それなりに長い付き合い。
声を聞き間違える事なんて滅多に無いでしょう。
…まあ、余程の声の真似が上手い者が遣らない限りは間違わないと思うわ。
大きく溜め息を吐きながら再び椅子を回転させ、机に向き直る様にする。
すると、やはり予想通りに其処に霞の姿が有った。
…ィギッギィ…と、椅子が軋んで止まると同時に私は霞に小言の一つも言おうと口を開こうとする。
「ちゃんとノックしたし、入る前に声も掛けたで?」
──が、此方の反応なんてお見通しと言わんばかりに霞は先手を打ってきた。
慣れ親しんでいるからこそ理解し合っている反応。
それを読んでの遣り取り。
政治的な領分であれば私に分が有るでしょうけど。
こういった“その場凌ぎ”的な遣り取りに関しては、霞は私よりも上手ね。
雪蓮様は更に上。
あの“勘”は狡いわ。
でも、悔しいから素直には引いては上げない。
少しは遣り返さないとね。
私にも軍師としての意地や誇りが有るのだもの。
「…だったら、私が返事をするまで待ちなさいよ」
「居るんか、居らんのかも判らんまま待っとれとか、只の嫌がらせやろ…
それにな、もし部屋ん中で気ぃ失ぉて倒れとったら、どないすんねん
後な、声掛けて、ちょっと待ってから開けたんやから気付かんかった方がアカン気がするけどな?」
「…ぐっ…」
正論で切り替えされて私は返答に困ってしまう。
霞の言い分は尤もだ。
寧ろ、私が霞の立場ならば同じ様に言うでしょうね。
…これは素直に非を認めるべきでしょうね。
「…はぁ〜…ごめん
今のは私が悪かったわ」
素直に謝れば、霞は笑顔で“ええて、ええて”と軽く右手を振って赦しを示し、話を終わらせる。
私も広げたり、掘り下げる気は無いので異論は唱えず小さく息を吐いて、意識を切り替える事にする。
「で、何か要なの?
言って置くけど、月や恋と戦う事に為る可能性に対し覚悟は出来てるわよ?」
“いつまでも、甘えている訳にはいかないからね”と言いそうになるが、其処は意地で飲み込む。
一度でも言おう物なら霞は生涯揶揄いの種にする事は目に見えているもの。
…感謝はしているけれど、絶対に言わない。
言うとすれば…何方等かが死ぬ時に、でしょうね。
「それは心配してへんよ
反対やったら、会談の前にごねとるやろうしな」
平然と言う霞の反応を見て苛立ちではなく、不満だと感じてしまう。
心配されていなかった事に対してではない。
其処は“信頼されている”証だと受け取れる。
だから、何方等かと言えば嬉しく感じる部分。
ただ、何と言うか。
そう言う部分ではなくて。
いつまでも“妹”みたいに扱われている気がする。
そんな風に感じる。
それが、面白くない。
それを、不満に思う。
其処で、ふと気付く。
月も同じ様に感じていたのかもしれない、と。
いつもいつも私が過保護に大事にし過ぎていて。
今、身近な所で言うならば小蓮様でしょうね。
一人前(大人)扱いされず、安全な仕事しか任されない事に不満を懐いている姿に私達の姿が重なる。
(…いつか、その辺の事も含めて話したいわね…)
その頃には、私達も色々と成長して(変わって)いる事でしょうから。
きちんと、お互いの意思を理解し合える様に、ね。
…まあ、それは今は置いておくとして。
霞の要件が大事ね。
「だったら何なの?」
「ねねの奴、動かんな」
「…そういう事ね」
忘れていた訳ではない。
ただ、何も動きが無い以上特に気にする必要は無いと考えていただけ。
決して、忘れていたという訳ではないわ。
「あの“恋が命”のねねが今の今まで大人しくしとる事自体が不思議や…
勿論、ねねも馬鹿やない
自分の手勢で曹魏に喧嘩を売っても返り討ちに合って終いやっちゅう事は嫌でも理解出来とる筈や…
なら、ねねの取るのは…」
「…戦力の有る勢力の所に入り込む、でしょうね
でも、宅には来ていない
当然だけど、袁紹・袁術の所に居た可能性は無い…
となれば、残る可能性では劉備の所になるわね」
「と言うか、粗間違い無く居るんやろな…」
「それも勘?」
「何方かっちゅうたらな
まあ、勘やのぅても今回は簡単に判る事やろ?
ねねの恋に対する執着心は劉備にも負けとらん」
「あ〜…そうだったわね」
あまり思い出したくはない事だからなのか。
無意識に排除していた情報を言われて、思わず右手で額を押さえてしまう。
昔、恋絡みで色々と問題を起こしてくれた事を。
それに霞の言う事も判る。
自ら曹魏に行った可能性も全く無い訳ではない。
けど、先ず無いでしょう。
ねねも、恋と高順と闘いは観ていたのだから。
恋第一至上主義のねねなら恋に勝った──つまりは、恋より上の高順が居るし、その高順の主である曹操が居る以上、曹魏の中で恋の地位は低くなる。
そんな曹魏にねねが進んで仕えるとは思えない。
ねねなら恋を主君として、新しい勢力を築き上げる事位は遣ると思えるしね。
…まあ、それ程って事よ。
「もし、ねねが劉備の所に居るとすれば、劉備の中の曹操への執着心(対抗心)に気付かないとは思えない…
それを利用して曹魏に対し戦争を仕掛けさせる事位は遣りそうよね…」
「ねねにとったら劉備等は“捨て駒”やろうしな…」
「ねねは一見すると無害なお子様なんだけど、中身は恋一途(狂信者)だしね…
ある意味、怖いわよ…」
考えてたら、同盟の関係が嫌になってくるわね。
──side out
黄蓋side──
街の外に造られた鍛練場で打付かり合う二つの影。
はっきり言って大事の前に何をしているんだと大声で説教をして遣りたい。
しかし、気持ちは判る。
自然と昂る闘争心。
その要因は言うまでもなく彼の武人に他ならない。
あの呂布との一戦は今も尚我等の脳裏に鮮明に刻まれ思い起こすだけでも身体の芯から疼いてくる。
──闘いたい。
武人としての性が。
否応無しに望むのだ。
あの高みに魅せられて。
あの闘技に当てられて。
あの極致に惹かれて。
だから、止められない。
…まあ、遣り過ぎる様なら容赦無く止めるがな。
その必要は無いだろう。
「ハアアァアァァッ!!!!」
「──フンッ!」
「──わあっ!?」
小柄ながらも強靭な全身を目一杯に使い、己の巨大な鉄球を振り上げて地面へと叩き付けるが、それを軽く受け流されると同時に手に握っている鎖を引っ張られ体勢の不安定な所を容易く崩されてしまう。
前のめりになりながらも、倒れない様にと数歩で踏み止まるが──其処まで。
顔を上げた時には首筋へと剣の刃が添えられていた。
「うぅぅ〜…参りました」
季衣が悔しそうにしながら敗北を宣言すると、春蘭は剣を引いて鞘に収める。
そして、小さく息を吐くと思わず座り込んでしまった季衣に向かって右手を差し出して立ち上がらせる。
その仕草だけを見ていれば礼儀正しく、美しい友情や師弟・姉妹関係を思わせる光景なんだが。
如何せん、二人の闘いにて破壊された鍛練場の状況は無視する事は出来無い。
「三ヶ月の減俸じゃな」
「何故だっ!?」
「嘘おぉーっ!?」
自業自得じゃ、馬鹿者。
あと、詠達からの説教等は別口じゃから安心せい。
たっぷりと貰える筈じゃ。
この有り様じゃからな。
喧しい二人に拳骨(説教)し静かに為った所で、改めて二人に訊ねてみる。
「春蘭──は、別に今更に訊くまでも無いのぅ…」
「訊かれないと気になる
はっきりと言え、祭」
「曹魏に居る妹と戦う事は気には為らんか?」
「気に為らん、と言うのは嘘になるだろうな
私にとって、たった一人の妹であり、血と肉を分けた家族だからな
だが、戦う事に関してなら話は別だ
敗けるつもりは無い
闘って、勝つのは私だ」
春蘭らしい答えじゃな。
元より心配はしておらんし期待しておる。
気になるのは季衣じゃな。
稀有な才能は有る。
だが、まだまだ未熟じゃ。
何より、朋友と刃を交える覚悟が有るか。
一瞬の躊躇いが、生と死を分ける事になる以上、死の可能性は下げておきたい。
「季衣はどうじゃ?」
「…迷ってないって言うと嘘に為るかな…
やっぱり、戦争なんて事は遣りたくはないから…」
苦笑しながら自分の右手に視線を落とし、其処に有る握られた鎖──武器を見て哀し気な眼をする。
純粋な故に、抱える苦悩と葛藤が窺える。
力に附随する矛盾。
それに対する思いを。
「──でも、大丈夫だよ」
季衣は顔を上げ、真っ直ぐ此方を見て、言う。
「殺し合いたくはないけど闘いたい気持ちは有るから余計な事は考えない
自分の背負う物…
絶対に譲れない物…
その為に闘う
だから勝つ事だけを考える
後悔はしたくないから」
「…そうか、ならば勝って笑わねばな」
「うんっ!」
「当然だ!」
若さ故に不安は残る。
しかし、その真っ直ぐさが頼もしくもある。
結果は判らない。
ただ、後悔はせぬ様に。
力を尽くす。
それだけは貫こう。
──side out。




