4 啾々と鬼は哭く 壱
※丹陽郡ケイ県→徑
夏侯淵side──
子和様が新しい臣下の者を連れて戻られたのが昨日の事だった。
満伯寧──鈴萌だ。
胸元に届く長さの亜麻色の綺麗な髪に漆黒の瞳。
背丈は私よりは低い。
見た目細身だが痩せ細った風ではなく、単純に生来の体質なのだろう。
少し話しただけではあるが明るく真面目で真っ直ぐな印象を受けた。
皆との打ち解けも早い。
聞けば文若──桂花の家で奉公していた娘だそうで、武芸の経験は皆無。
しかし、子和様は彼女には軍将を任せる様だ。
“将来的に”との話だが。
ああ、余談だが…
桂花の母親である荀攸殿も曹家に仕える事になったと子和様が言われた。
一昨日私達が臣下となり、翌日にその母親達。
泉里達が愚痴っていたのも頷けてしまう。
尤も華琳様は慣れた様子で平然として居られた。
冥琳達も似た様な反応。
私も何時かは“慣れる”事なのだろう。
今は驚くしかないが。
そう思うと苦笑してしまうけれど悪い気はしない。
これも子和様の人徳か。
或いは仁徳か。
(…ああいや、“これ”がそうなのだろうな…)
皆の言っていた──
“惚れた弱み”とは。
(まあ、私自身は皆程には焦がれて居ないが…)
それも“今はまだ”だと、自分でも感じている。
もしも“子”を成すのなら子和様が良い。
それは迷わずに言える。
ただ、皆程に積極的に己の“想い”を表し示す事は、私には無理だ。
まだ羞恥心の方が強い。
何より──
(私はまだ“相応しい”と思う自分に至れていない)
華琳様の様には慣れない。
だが、私は私だ。
私らしく、進むだけ。
皆と子和様の“馴れ初め”などの話を聞けば聞く程に感嘆するしかない。
そして、己の直感が正しく“主”を感じていたのだと思わずには居られない。
(…そう言う意味でなら、鈴萌は珍しいのか…)
ふと、思い出す。
彼女と話した時に感じた、“違和感”の正体。
“男嫌い”の桂花でさえ、人として、“主”としては子和様に心酔している。
“女”として複雑な心境で居る様だが。
鈴萌からはそういう類いの感情を感じなかった。
まあ、私達の様に子和様の強さ等を目の当たりにした訳ではないから仕方が無いのかもしれない。
(…孰れは“落とされる”事になるのだろうがな…)
そう思うと不思議な物だが“喜ぶべき事”だと普通に感じている。
これは、きっと…
私が“変わり”始めた事の証なのだろう。
──side out
other side──
娘達が旅に出て約七ヶ月。
最後に便りが届いたのは、今から二ヶ月前。
気が気ではない日々を送りただただ“無事”を祈る。
そうする事しか出来無い、無力な自分が情けない。
今日も朝議を終え、部屋で仕事の前の祈りの時間。
天に在る“陽”に向かい、目を閉じ頭を下げる。
──と、部屋の方へ向かい近付いてくる足音が静寂の中に響いて来る。
どうやら、走っている様で火急の用事か。
或いは、何か有ったか。
「し、失礼しますっ!」
乱暴に扉を開け入って来た者は古参の侍女。
古参と言っても二十半ばの年頃の娘なのだけれど。
城内を走り回る様な事など滅多に──いや、初めてと言って良い程。
それだけ重大な事なのかと少しだけ身構える。
「先ずは落ち着きなさい
随分と慌てて居た様ですが何事です?」
「は、はい…」
大きく深呼吸すると彼女は普段の様子に戻る。
そして、一通の書状らしき物を差し出す。
「…つい今し方、子魚様を訪ねて来られた女の方から御預かりした物です
御嬢様からの物、と…」
「──っ!?」
その言葉を聞き私は直ぐに書状を開いた。
一目見て判る。
確かに娘の──冥琳の字に間違い無いと。
──御母様
長らく便りを出せなかった不孝を御許し下さい。
御身体は大丈夫ですか?
夏の日も暑く、其方らでは体調を崩す者は出ていないでしょうか?
(…私達の事など心配する必要は無いのに…
本当に…あの娘は…)
一ヶ月前、華佗に出逢い、診て貰う事が出来ました。
(っ!、では──)
ですが、時既に遅く。
手遅れだと言われました。
余命も二ヶ月程と。
(──ああ…そんな…)
けれど、御安心下さい。
私はもう大丈夫です。
病は完治致しました。
今では昔以上に活力が身に溢れております。
(──良かった…ですが、一体どういう事?)
私を助けて下さった方に、私達は仕えて居ります。
何れは、その方の御寵愛を頂き子を成せればと私達は思っています。
(…肝心な部分が無いのは意図的に?
まあ、本当の事だとは字で判るのだけど…)
そして、この書状を持って其方らを訪ねられた御方が私達の主の御一人です。
では、落ち着きましたら、また便りを出します。
くれぐれも、御身体には、御気を付け下さい。
──周公瑾
便りを読み終え、頭の中が真っ白になる。
…持って来た方が…主?
そう考えた瞬間、我に返り侍女へ顔を向ける。
「書状を御持ちになられた御方は何処に?」
「応接室の方へ御通しして御待ち頂いています」
娘の恩人で有り、主の方に無礼な真似をしていなくて安心する。
「そう、御苦労様
御茶と御菓子の用意を
それから、暫くの間は誰も近付けない様に」
「畏まりました」
そう返答するが侍女が退室する様子が無い。
一瞬疑問に思うが、表情を見て察しが付いた。
訊くべきか迷いながらも、気になって仕方無いと目が物語っている。
「大丈夫、あの娘の病なら完治したそうよ」
「っ!」
そう言うと、侍女の表情が喜びに染まった。
我が事の様に一喜一憂する侍女を見て思う。
あの娘も、そして私も…
本当に幸せ者だと。
侍女が退室すると服装等を整え、応接室に向かう。
感謝の想いが緊張と混ざり奇妙な感覚だが、顔や態度に出ない様に注意する。
部屋に入り、対面した時の第一印象は“女性”としか思えなかった。
事前に男性だと判っていた筈なのに、だ。
ふと思い出したのは侍女が“女の方”と言っていた事だった。
つまり“そう”思う方が、普通なのだろう。
「御待たせ致しました
当家の当主、周子魚です
私の娘を助けて頂きまして本当に有難う御座います
どれ程に感謝致しましてもし足りません」
此方から名乗り、母として深々と頭を下げる。
「曹子和と申します
合縁奇縁と言いますので、どうか御気になさらずに…と言いたい所ですが貴女の立場も有りますからね」
お互いの立場を考えれば、言葉だけで済ませる事には賛同出来無い。
それを理解されている事は施政者として優秀な証。
「それでは、率直に本題を言いましょう
今日は貴女を“勧誘”しに此処へ来ました」
「…勧誘、ですか?」
それは意外な言葉。
私が此処──廬江郡の太守であると判っていてだ。
「我が妻、曹孟徳に仕える気は有りませんか?」
“曹孟徳”──私の記憶が確かなら現豫州刺史。
“曹家の麒麟児”と呼ばれ評判も良い。
あの娘達が臣従する方々。
年甲斐も無く胸が踊るのを抑え切れない。
「姓名は周異、字は子魚、真名を冥夜…
曹家と御二方に、誠心誠意御仕えさせて頂きます」
──side out
周異──子魚を引き入れる事に成功した。
相手の“弱み”に付け込む様な遣り方ではあるが特に気にはしない。
忠誠や信頼の“形”は色々有ると言う事だ。
子魚に公瑾達の近況を話し今後の事を説明した。
公達同様“大切な仕事”をして貰う事になる。
「所で、良い人材の情報は無いか?
在野・既属、有名・無名は一切問わない」
尚、口調も元に戻した。
体裁を保つ必要も無いから実に楽だ。
「人材ですか…
私には武官の才は判らないですので文官になりますがそれは最低でも娘達と同等か近い者ですね?」
「出来るならな
勿論、直に見てから臣下に迎えるか決めるが…」
そう言うと子魚は腕を組み目を閉じて考え込む。
その仕草が娘とそっくりで微笑ましく思う。
「…申し訳有りません
この辺り、周家の情報網の限りでは該当者は…」
「謝る必要は無い
そう簡単に居ないからこそ“逸材”なんだ」
“二級”の人材ですらも、中々居ない時代だ。
仕方無いだろう。
「そう言って頂ければ…」
小さく頭を下げる子魚。
公瑾より生真面目かもな。
そんな事を考えていると、不意に子魚の表情に変化が浮かんだ。
“何か”が引っ掛かったと見えるが…さて。
「どうした?」
「…あ、いえ…」
「何か気になった事が有るなら言ってくれ
判断は俺がする」
「…判りました
実は三ヶ月程前から徑県で“幽霊”騒ぎが有ります」
その言葉に、“澱”を想像したのは仕方無い。
だが、直ぐに否定。
違う“何か”だろう。
「具体的には?」
「“黄山”に入った猟師や村人が“奇声”を聞いたと騒いだ事が始まりです
ただ、実害が有った訳でも実際に遭遇した訳でも無い為に“噂”の域を出ませんでしたが…」
「…被害が出たのか」
俺の言葉に子魚は首肯。
ただ、その表情が不可解な話だという事を物語る。
「鶏に始まり豚に牛…と、家畜が消えた事から盗難と見たらしく偶々居合わせた旅の武芸者が黄山に入ったらしいのですが…
三日後、遺体で見付かったそうです
それ以降、夜になると必ず“奇声”が響くと…」
“呪い”や“祟り”の類いだと噂が広まったか。
時代的に妥当な結末だな。
「最近では“鬼”が棲むと言われて、誰も近寄らなくなったそうです」
“鬼”か…面白い。
行ってみる“価値”は有りそうだな。
━━黄山
麓──と言っても山林まで約5kmは有るが。
其処に有る村に居る。
話を聞いてみたが…
まあ、忌避されるされる。
話すだけでも“祟られる”とか言う始末。
“力有る御名”な訳では、有るまいし。
馬鹿馬鹿しい──と簡単に言えないが。
住人の身になって考えれば恐怖でしかないのだから。
(取り敢えず、聞けただけ良しとしないとな…)
未収穫ではない。
子魚から聞いた事と殆どは同じだったが、確認出来た事で信憑性が出た。
また追加情報が二つ。
一つは人的被害は複数で、全て“此方から”攻撃した場合に限られる事。
これで“山越”の可能性は消えたと言える。
そして、もう一つ。
その“鬼”は“金色の眼”だったそうだ。
遠目に、暗闇の中、見たと言う者が居た。
姿形までは判らないのだがその双眸だけは、はっきり見えたらしい。
(“金色”か…)
子揚の瞳は橙色──蜜柑を思わせる色だ。
かと言って、華琳の髪とは違ってくる。
髪は光を受けて輝く。
だが、件の“鬼”の双眸は暗闇の中で光った。
つまり、瞳が輝きを放っていた事になる。
(…氣で強化していれば、その影響で輝いて見えても不思議では無いが…)
それでも“普通”は色まで変えられない。
という事は、“地”である可能性が高い。
そうすると一つだけ脳裏に浮かぶ“存在”が有る。
勿論、“澱”やその類いの存在ではない。
(…確か“涅邪族”だったか…)
以前、華佗から聞いた話。
益州の南、交州の西。
広大な密林──“南蛮”を勢力圏とする部族。
その名を“涅邪”。
所謂、“異民族”だ。
古くは秦の時代にまで遡るそうだが。
華佗の話では独自の文化や風習を持つのは当然だが、中々に攻撃的らしい。
直接有った事は無いとの話だったが特徴が三つ有ると言っていた。
一つは女系の一族。
何故か産まれる子は全てが女子らしい。
“アマゾネス”かよ。
一つは獣の姿の模倣。
獣の頭を模した兜や飾り、尻尾を身に付けるとか。
俺が想像したのはコスプレだったが。
そして、もう一つの特徴が“龍瞳”と言う“金色の眼”だと。
(…さて、時間帯は早いが“鬼”は出てくれれか…)
まだ中天に差し掛かる前の太陽を見上げて考えながら山林へと踏み入った。




