捌
明命達が退室をしてから、5分と経たない内に雪蓮が穏達と部屋へと入った。
雪蓮を見て、挨拶でもするつもりだったのか。
劉備は声を掛けようとして席を立とうとした。
だが、即座に口を噤んだ。
浮き掛けた身体を抑えて、空気を読んで自重した。
まあ、実際には雪蓮の方がそうなる様に仕向けている事なんだけどな。
席に着くまでは凛とした、主君らしい姿勢をしている事で劉備の“なあなあ”なペースに合わせない為に。
劉備は“天然”だからこそ引き込む雰囲気を持つ。
それを封じ込める為には、意識させる事が重要だ。
劉備自身に“いつも通りの感覚で臨んだら駄目”、と思わせる事で崩す訳だ。
同時に主導権も握る。
“原作”を知っているから言える事なんだけどさ。
劉備って自己肯定の思考が強過ぎるんだよな。
良く言えば初志貫徹。
でも、その実態は世の中で“自分が誰よりも正しい”という感じの歪んだ意識を持ってる印象が強い。
…まあ、蜀ルートの場合、それを肯定する様に物事が運ぶから当然なんだけど。
“現実”は違うからな。
知っていて合わせて、態々此方から不利な条件を飲む必要なんて無い。
最低でも平等な条件。
現状を考えれば劉備の方が厳しい条件を飲むのが必然だろうけどな。
勿論、そう簡単に飲む様な事には為らないだろう。
何しろ、あの諸葛亮が傍に居るんだからな。
決して、楽観視は出来ず、油断も出来無い。
だから、同情なんて絶対にしてはならない。
ある意味では、それこそが劉備の常套手段(得意技)と言えるんだからな。
「久し振りね、劉備
顔を見るのは反董卓連合の時以来になるわね
まあ、こうして貴女と直に話すのは“黄巾の乱”以来なんだけどね」
「はい、お久し振りです
そう…ですね…
中々話す機会が無かったと思います…」
席に着くと、一息吐く間も開けずに雪蓮が仕掛ける。
主君としての顔から一転、普段の人懐っこい表情へと変えながら、劉備に気軽な雰囲気で挨拶をする。
本来ならば会談を申し出た劉備の方から応じてくれた事に対しての感謝と共に、挨拶をするべき所。
敢えて、そうさせない事で話の流れを此方が握る。
まあ、主導権と言える程の事ではなんだけど…それは此方側にしてみれば、だ。
劉備達にとっては少しでも交渉を有利に運びたい──正確にはリスクを抑えて、協力・同盟という形で話を纏めたいというのが本音。
そして、狙いだろう。
その証拠に劉備の右後ろに控えていた諸葛亮の身体が小さく震えた。
表情も一瞬だけだったが、動揺を露にした。
だから、間違い無い。
先手を打たれた事に対する諸葛亮の気持ちは俺にでも理解が出来る。
前を、先を、見過ぎていて足元が見えていなかった。
今、この瞬間を迎えて。
諸葛亮は深く、その事実に気付き、自らの至らなさを悔いている事だろう。
もう手遅れなんだけどな。
武術や学術は一人だけでも積み重ねる事は出来る。
しかし、話術という物は、対話する相手が居なくては磨く事は出来無い。
経験も積み重ねられない。
勿論、“こういう風に〜”“こういう場合には〜”と定型文的な事であれば可能だろう。
けれど、その程度の話術が通用する相手なら、大して心配は要らない。
何故なら、相手も同じ様な程度なのだから。
だが、ただ“話し相手”が居ればいい、という訳でもなかったりする。
身内では“馴れ合い”から緊張感に欠ける場合が多く為るだろう。
それはつまり、いざ本番と為った際には“飲まれて”何も出来無くなる可能性が考えられる訳だ。
故に話術を磨くというのは経験の積み重ねだ。
話し方を意識するだけでは猛者(本物)には敵わない。
その点、宅の雪蓮は場数も経験も劉備より遥かに上。
今も日々、詠を筆頭とする軍師陣を相手にして自らの話術(言い訳)を磨いているんだからな。
…まあ、格好良くはない事なんだが。
でも、必死にならない限り敗北は必至だ。
甘やかされ、支えられて、のほほんと過ごす劉備とは比べるまでもない。
四苦八苦しながらも足掻き明日(自由)を勝ち取る事を諦めない雪蓮とは、実力が違うんだよ。
(とは言え、劉備の怖さは天然だって事だからな…)
ペースを握らせてしまう、乗せられてしまうと流石に雪蓮でも危ないと思う。
天然故に御し難いからな。
そういう意味では、互いに軍師同士が出て話し合った方が、此方の優位を確実に出来るだろう。
諸葛亮が劉備の才(武器)を見抜いているからこそ。
雪蓮と直接に会談する事を選択したんだろう。
論理的に思考し対話して、話を進めるのなら軍師達に勝る者は先ず居ない。
だからこそ、その智謀にて軍師を務めている。
それを凌駕出来るとすれば理屈ではない領域。
天賦による才だ。
劉備には確かに“それ”が備わっている。
(素人との俺でも一度でも目の当たりにすれば判る事なんだけどな…)
だが、絶対ではない。
絶対であるなら、この世は疾っくに劉備の掲げている理想を反映している。
そうなっていない事こそが絶対ではない事の証明。
──戦場は生き物だ。
そう表現されるのと同様に対話というのも時々刻々と変化し続ける物。
決して、完璧な対処法など存在してはいない。
常に考え続ける事。
一瞬の隙も生まない事。
僅かな機微を見逃さない事──という様に。
其処に必要とされる要素は挙げれば切りが無い。
“ペンは剣よりも強し”。
文字を媒体とした表現等の自由であったり、影響力を示す諺として使われるが、俺はペンよりも“言葉”は更に強いと思う。
“彼方”の世界で、平凡な日常の中に生きていたなら先ず無関係だった世界。
言葉という名の刃を交え、血を流さず対峙する戦場。
それを制するのは飽く無き信念と努力、覚悟だ。
たった一度の挨拶。
それだけで流れを掌握した雪蓮は容赦無く攻める様で気配が変わった。
気付けるのは俺達の方だけなんだろうけどな。
それ位に判り難い違いだし劉備達が気付かなくたって可笑しい事ではない。
然り気無く、侍女の人達が二人の前に茶杯と御菓子の乗った小皿を配する。
主君に二人にのみ出される事に異議や不満を見せれば突けるんだけど──流石にこの面子では難しいか。
于禁と北郷辺りは表情には出しても可笑しくはないが流石に事前に諸葛亮からの注意が有ったのだろうな。
静かに控えている。
だが、それも何時まで保つ事が出来るか、だな。
宅の雪蓮さんのドSさは、覇王クラスですよ。
ガリガリッ!、ってレベルじゃあないですからね。
ギュギュギュンッ!、ってレベルで削れてくから。
…まあ、元々防衛戦よりも前に出て戦う方が大得意な雪蓮らしいかな。
…とまあ、何だ、劉備よ。
頑張ってくれたまえ。
ひっそりと健闘を祈るよ。
「泗水関での一戦で敗けて連合からも離脱した後は、噂にすら貴女達の名を全く聞かなくなってたけど…
益州の方で再起をしたのを聞いた時は驚いたわ」
「そ、そうですか?」
昔の事を懐かしむみたいに笑顔で話し掛ける雪蓮。
古傷を抉って塩を塗り込むみたいに容赦無いな。
劉備自身は敗北しただけで自分は無傷で脱出している事も有るんだろうな。
動揺はしていても思う程に効果は窺えない。
だが、北郷と于禁は違う。
身体が小刻みに震えている程に深いトラウマを二人が抱えていると判る。
俺達は繋迦から泗水関での経緯を一通りは聞いている事も有って、そうなる事は想像が出来ていた。
まだ于禁は増しだろう。
何方等かと言えば、北郷の方が酷いし、顕著な反応を見せるだろうな、と。
それでも思っていたよりは増しかもしれない。
顔面蒼白で、呼吸も乱れ、冷や汗を流すのでは──と考えていたんでな。
俺が北郷の立場だったら、普通に再起不能になってる自信が有る位のトラウマに為っていると思う。
そうは為っていないのは、北郷自身の精神的なタフさなのか、或いは劉備達との関係に因る事なのか。
それは定かではないが。
ちょっと、期待外れだな。
もう少し苦悩している事を望んでもいたから。
…酷くないかって?
俺、蜀ルートの北郷一刀は好きになれないんでね。
まあ、そのままって事じゃないんだけどさ。
…やっぱり、多少なりとも“色眼鏡”で見てしまう。
目の前の北郷とは無関係な存在だったとしても。
どうしても切り離せない。
実害が無いから特に気にはしてないんだけど。
中々難しい事だよな。
雪蓮は、劉備以外は敢えて意識から外している様で、気にしてはいない。
劉備だけを見ながらも実は他を揺さ振るという高度な技を繰り出している。
…すみません、そんなには凄くはないです。
でもね?、今、此処に居る顔触れを考えたら歴史的に凄い事なんだって事だけは判って下さい。
宅の雪蓮、凄いでしょ?
俺の奥さんなんだから。
「ええ、少なくとも私には真似が出来無いわね」
──なんて、惚気てる間も雪蓮は攻め続けている。
劉備は“自分達の頑張りを認められた”なんて感じで受け取ったんだろうな。
ちょっぴり嬉しそうに顔を緩ませている。
しかし、甘い、甘過ぎる。
劉備も曹操を目の当たりにしているのなら、もう少し危機感を懐くべきだな。
この程度は序の口だと。
スッ…と、雪蓮が眼を細め口元に獰猛さを滲ませる。
舌舐めずりをしている腹を空かせた猛獣(虎)を雪蓮に幻視したのは、此方側では俺だけではないと思う。
思わず、身震いしてしまいそうだったからな。
「護るべき民を切り捨てて自分達だけ助かるなんて、私には不可能だもの」
『────っ!!!!!?????』
そう笑顔で言い切る雪蓮の言葉を聞いた瞬間に揃って劉備達は息を飲んだ。
──否、呼吸を止めた、と言うべきかもしれない。
上げて落とす──よりも、ある意味では辛辣か。
しかし、事実でも有る。
劉備達の遣った事は結局は自己中心的な事でしかなく“民の為に…”なんて事は微塵も存在しない。
勿論、反董卓連合では、と一言付け加わるが。
その事実は変わらない。
反射的にでも否定したなら雪蓮は更に抉り込む。
寧ろ、その瞬間に会談自体終了してしまうだろう。
少なくとも自分達の言動に責任を持てない様な連中と手を組もうとは思わない。
孫家の臣兵が、孫呉の民が劉備達の理想の為に犠牲になる理由なんて物は何処にも無いのだから。
「まあ、ある意味では当然なんでしょうけどね」
自ら追い詰めておいてから“理解しているわよ?”と手を差し伸べ歩み寄る様な雰囲気を見せる雪蓮。
勿論、これも罠だろう。
だが、無視が出来る余裕も選択肢も無いのが劉備だ。
沈黙し続けるのなら会談は打ち切られるだろう、とは察しが付く筈だ。
なら、応じる以外に劉備は選択肢を持たない。
当然だが、諸葛亮達が口を挟んでも会談は終わる。
これは劉備達が望んだ事。
主君同士の直接の会談だ。
二人以外には立ち会う事は許されていても、口を挟む事は許されてはいない。
口を出せのは、会談をする本題でもある協力・同盟が成立した後、だ。
お互いの軍師だけは詳細を詰める際には発言が出来るだろうけどな。
今はただ、黙するのみ。
(自業自得だけどな…)
曹魏(敵)の敵は味方。
それは宅が曹魏との関係が険悪であれば、だ。
劉備達は知らない事だが、先の一件でも宅は曹魏への大恩が有るんだ。
態々敵対はしないっての。
其方の勝手な見解や都合を押し付けられても困るが、理解出来無いだろうな。
だって、劉備なんだから。
「…どうして、ですか?」
そんな事を考えている間に劉備が雪蓮を見詰めながら重い口を開いた。
絞り出す様な声。
きっと喉も唇もカラカラに渇いている事だろう。
でも、雪蓮は緩めないな。
「だって、そうでしょ?
貴女は黄巾の乱で義勇軍を立ち上げて、率いて戦った“根なし草”だもの
心血を注ぎ、苦楽を共にし命を懸けてまで歩いていく民なんて貴女には居ない
だから、出来るのよ
新天地で再起を計る為に、民(過去)を捨てる真似がね
だから、出来無いのよ
民と共に根差す私には」




