伍
取り敢えず、詠の雰囲気が軟化した事に安堵する。
詠も態々自分から蒸し返す真似はしないだろうし。
俺達が迂闊な言動をしない限りは大丈夫だと思う。
まあ、念には念を入れて、さっさと話を進めよう。
「俺自身、孫家に来てからこんな大雨の経験は無いし雪蓮が袁術麾下の客将時代だった頃は荊州の内陸部で生活してたからな
実情は殆んど判らないのが正直な所なんだよ」
俺は嘘は言っていない。
災害による被害の一例なら知らない訳ではない。
しかし、今の現実としての江水の南地域の被害状況や過去の事例に関しては何も知らないのだから。
…まあ、そういう事を訊き説明させる事で詠の意識を逸らそうという狙いが無い訳ではないんだけどな。
それは絶対に言えない。
「そうね…私自身も此方で生まれ育った訳じゃないし生活している期間も短いわ
だから実際に経験するのはこれが初めてになるわ
飽く迄も聞いた話では、の説明に為るけど…
江水は北の河水に比べると基本的に水量が多いわ
それは乾燥地域の多い北と違って、南は一年を通して雨量も多い事でも有るの
だから、南部では北部程に大雨による被害は思う程は多くは無いそうよ
とは言え、全く無いという訳ではないから、ある程度対策・対処は必要な事ね」
「へ〜…ちょっと意外だな
俺は水量が多いから余計に大雨の時には水嵩が増して危険になるって感じの印象だったんだけどな…」
要は容器に入っている水の量が多ければ多い程に早く溢れ出す事になる訳だし、容器が大きければ大きい程溢れ出す量も増える訳で。
そういうイメージを持つと河水より江水の方が水害が多い印象が強くなる。
「それも間違いって訳じゃないんでしょうけどね
ただ、実際には気候だとか地形も大きく関わってくる事だから必ずしもそう為るという訳ではないわ
あとは、“南船北馬”って言われる位に、南の人々は江水を筆頭にした水の恩恵を受けて生活している
だから、この位の大雨だと大して慌てないみたいよ」
そう言いながら詠が視線を向けたのは雪蓮。
無視されているのも同然の扱いをされていたからか。
その視線を受けた瞬間に、“待ってました!、やっと私の出番が来たわね♪”と言わんばかりの笑顔を見せ機嫌を直した。
子供っぽいけど、こういう部分が雪蓮の魅力でも有り赦してしまう要因だよな。
詠は雪蓮と──民の反応に対してもなんだろうな。
呆れた様に溜め息を吐いて残りの説明を雪蓮に任せる感じで口を閉じた。
「南の人達の全てが、って事じゃないんだけどね
詠が言った様に慣れてる分こういう時の対策や対処の仕方は知ってるのよ
だから、祐哉達が思うより被害は少ないと思うわよ
勿論、準備は必要だけど」
そう話す雪蓮を見ていると本当に焦ったり、慌てたりしていないと判る。
本当、人って逞しいよな。
──side out。
賈駆side──
拍子抜けな程に淡々として対策を決議し、謁見の間を私達は後にしていた。
“これが南部の人々の間の普通の意識よ”と言われてしまえば、それまでだが。
慣れてしまっているが故に何処かに隙間(落とし穴)が有りそうで怖い。
まあ、祭や穏達からも同じ様な話を聞いてはいるから大丈夫なんでしょうけど。
油断は出来無いわよね。
「…にしても、また曹魏が絡んどるんやなぁ〜」
「……霞?、何でアンタが此処に居るのよ?」
緊急──でもなかったけど会議を終えて、私は自分の執務室へと移動していた。
外が大雨だろうと、私達の目の前に有る竹簡(仕事)の山は減りはしない。
寧ろ、これから増える事が予想される位だもの。
気が滅入ってくるわ。
それでも片付けない限りは増え続け積み重なるだけ。
誰かが遣ってくれるのなら喜んで任せるのだけれど、それはそれで更に心配事が出来る気がする。
だから、結局は自分で遣る事が一番手っ取り早い。
それは兎も角として。
当たり前の様に私の対面に椅子を置き座っている霞を睨み付けてやる。
どうせ私を手伝う気なんて欠片も無いでしょうしね。
邪魔だから追い出したい。
それが本音だったりする。
「ウチが暇やからやな」
──で、案の定、これよ。
これでもし、怒らない者が居るのなら会ってみたい。
…ああでも、月は平気そうかもしれないわね。
“もぅ…仕方無いですね”みたいな感じで苦笑して、赦してしまう月の姿が頭に浮かんでしまった。
そうすると、懐いた怒気は薄れて消え去ってしまう。
相変わらず、月の存在って私の癒しだわ。
それはそれとして。
まあ、“暇だ”と言ってる霞の気持ちは判る。
私達軍師と違い軍将の方は大雨だと何かしら被害でも出ない限りは待機したまま過ごさなくてならない。
勿論、有事となったら私達軍師は更に忙しくなるのは言うまでも無いけど。
抑、雨天では調練も出来ず時間を持て余す事が多い。
下手に雨天での調練をして部隊の面々が風邪を引いて体調を崩してしまっては、意味が無くなるしね。
軍将だって書き仕事が全く無い訳ではないのだけれど霞は普段から其方も細めに片付けている。
霞の言動や身形からすると意外だけれどね。
だから、暇に為る訳よ。
春蘭や季衣・真桜の辺りは溜めているから今日辺りは副官達により捕まえられて泣きながら、片付けている最中でしょうけどね。
まあ、自業自得よ。
「はぁ〜…あのねえ…
其方が暇でも私は全っ然!
暇じゃないのよ
邪魔だから出て行って」
「固い事言わんとこうや
仕事の邪魔はせぇへんから居ってもえぇやろ?
月やったら居ってもえぇて言うてくれると思うで?」
「…っ……ったく…」
舌打ちしながらも月の事を出されては、負ける。
付き合いが長いからこそ、こういう時は厄介だわ。
邪魔をしないと言った以上言質は取ったわ。
もし邪魔をしたら容赦無く追い出せる訳だから、今は仕事に集中しましょう。
「ホンマ、曹魏の狙いとか意図って判らんよなぁ…
一応、筋は通るんやけど、利害ら辺がなぁ…」
「霞、邪魔したら出て行く約束だったわよね?
さっさと出て行きなさい」
思わず、右手に持っていた筆を投げ付けそうになる。
何しろ、つい先程、自分で“邪魔はしない”と言ったばかりなのだから。
私が怒鳴りたくなるのは、可笑しな事ではない。
寧ろ、これが普通の人達の反応でしょう。
月みたいな人の方が稀よ。
一万人に一人居るかどうか微妙な位にね。
だから、霞を追い出す事は決して可笑しな事ではなく筋が通っている事よ。
「何言うとんねん、詠…
ウチ、何も邪魔に為る事はしとらへんやろ?」
「してるわよっ!
話し掛けられたら誰だって気が散るでしょうがっ!」
“…は?”と言う様な顔で此方を見て、あろう事か、“自分は悪くない”と言い張るだなんて。
…霞らしくないわね。
何か意図が有るのかしら。
「ちゃうちゃう、詠
今のはウチの独り言やで?
別に詠に話し掛けとった訳やないんやけどなぁ…
そう聞こえたん?」
「他にどう聞こえるのよ?
此処には私達だけなのよ?
普通に考えて、自分に話し掛けられてるって思うのが通りでしょうが!」
怒鳴るつもりは無かった。
ただ、自然と溜まっていた苛立ちからか、声を荒げてしまった。
言ってしまってから気付き内心で気不味く思う。
…こういう感じの時って、大体が一人で抱え込んで、追い詰められている場合が多かったりするんだけど。
…まあ、今は目の前に有る仕事の事でしょうね。
そう考え、結論付ける。
そんな私を見詰めながら、眉根を顰めて霞が言う。
「あー…まあ、せやなぁ…
確かに、そないに思うても何も可笑しゅうないか
せやけどな、詠?
仮に、ウチが酒の事を今と同じ様に独り言で言うても気にせぇへんやろ?
普段の詠の集中力からして本当にどうでもえぇ事なら気にも止めん筈やで?」
「ぐっ…そ、それは…」
霞の言葉に言い淀む。
“確かに…”と思う部分が僅かでも有れば、全否定が出来無いのは軍師の性。
面倒臭い事よね。
「けど、今は気にした
なら、ウチの所為やのうて詠自身が気にしとったから気に為ったんやろ?
そうやなかったら、詠ならウチが何を言うてても全く気にせぇへんて
ウチ、間違うとるか?」
「……間違ってないわよ」
悔しいけど、当たっているだけに情けない。
…まあ、其処を見抜いてか察してか、霞は私の所へと遣って来たのかもね。
一つ息を吐き、筆を置いて仕事を一旦止める。
理解してしまった以上は、先ずは仕事に集中が出来る状態に持っていく。
それを最優先とする。
そんな私の態度を見ると、霞は身体を此方へと向けて真っ正面から向き合う様に体勢を変えた。
…本当、食えないわね。
「霞、アンタは曹魏の件をどう見ている訳?」
「せやなぁ…先ず、前提に曹魏が江水に関して治水を遣っとるんは自分処の事が有るんは確かやな
その結果として、対岸域を領地にしとる孫家の方にも恩恵を齎しとる、っちゅう感じやろうなぁ…」
曹魏と孫家──孫呉は共に江水の沿岸を領地とする。
当然、治水は相手側に対し利を齎す事にもなる。
勿論、共同で行ったという訳ではない為、孫呉側には直接的な変化は無い。
両者の沿岸域を比べても、治水に関係する整備具合は全然違う事でしょう。
それは早くから独立して、主導権を握ってきた曹魏と比べるのは可笑しい事。
ただ、“同じ様に動けたら出来るか?”と訊かれても頷く事は私には出来無い。
曹魏だから出来た事。
その一言に尽きる。
そんな江水の水量に対して大きく関係している要因の一つである上流域は曹魏が握っている。
極端な話、曹魏の一存で、江水の水量を操作・調整が可能だという事。
江水に注ぐ幾つかの河川。
その中でも大きな物である漢水を有している事もだ。
如何に江水に面していても水源を押さえられていては“対等”とは言えない。
孫呉の方にも江水へと注ぐ河川は幾つかは有る。
だから、江水を曹魏の方で完全に干上がらせる真似は出来はしない。
…遣る意味も微妙だしね。
曹魏が──あの曹操夫妻が其処に思い至らないなんて有り得ないでしょうね。
そう考えると霞の言う様に“結果として”というのが一番有力な見解なのかも。
其処に他意は無い、か。
有り得なくはない事よね。
だけど、鵜呑みにするには恐過ぎる事よね。
そういった可能性を考える事が私達の仕事だし。
考えずには居られない。
「まあ、あれや、根本的な事を言うんやったら曹魏が本気やったら江水の水量は疾うに減っとるやろなぁ…
“侵略する(攻める)”気が有るんやったら、やけど」
「…確かにね」
曹魏が本気なら大陸統一は既に成っている所よね。
だけど、逆に言うと曹魏はどうして大陸統一をせずに放置しているのか。
…不気味でしかないわ。
「けどまあ…そのお陰で、ウチ等かて領地を得る事も出来てるんやけどな」
「…それを言わないの」
それは事実なんだけど。
言われたくない事だわ。
霞は“要するに考えるだけ無駄やったなぁ〜”という態度で椅子に深く背を預け興味を無くした様にする。
その姿を見て、察する。
霞は最初っから曹魏の事は気にしてはいなかった。
気にしていたのは私の事。
私が引っ掛かっている事に気付いて、それを解消する為に遣って来ていた。
そういう事なのね。
(…ったく、お節介ね…)
でも、霞のそういう所には私は勿論の事、月達も大分助けられている。
彼女が居るか居ないか。
それだけで全然違う。
そう言い切れる位に。
「…はぁ…それで?」
「ん〜?」
「用は済んだんでしょ?
“どうするのか?”って、訊いてるのよ」
「せやなぁ…このまま昼寝でもしとるかなぁ…」
──とか言いながら此方をチラチラッ…と見てくる。
明らかな催促なんだけど…まあ、良いわ。
「昼は奢ってあげるわ」
「まいどあり〜♪」
その軽い雰囲気に苦笑し、軽くなった心を切り替えて仕事を再開する。
──side out




