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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
658/915

       捌


私達以外には、他には誰も居ないお風呂場。

静まり返った中に天井から水面へと滴り落ちた結露が高く澄んだ音を響かせる。

普通なら、他の音に紛れて飲み込まれしまうのに。

静かだから、際立つ。


そして、こういった時には変に緊張感を煽る。

ゆっくり、のんびり湯船に浸かって癒されたい時には気にならないのだけれど。

可笑しな物だと思う。

でも、その緊張感を感じて一度意識してしまうと中々切り替えられない。

本当、困った物ですよね。


これなら、今も止む事無く降り続けているだろう雨が屋根や壁を叩く音が静かな中に聞こえる方が増し。

…あー…でも、それも少し緊張感してしまうかも。

と言うか、あの状況からはどう遣っても私は緊張する気がしますね。

嫌な方向の自信を持って。



「……あ、あの…斗詩様、お訊きしたいのですが…」


「焔耶ちゃん、私を相手にそんな風に畏まらなくても大丈夫ですからね?

と言うかですね、あんまり私としては畏まられるのは苦手なんですよ

何しろ、元は普通の平民で農家の娘ですから」



そう言いながら苦笑。

勿論、焔耶ちゃんの方には顔は向けないでね。

でも、嘘は言っていない。

基本的に身内では礼儀作法・言葉遣いは必要最低限。

雷華様が気にされないし、奔放な事も有り、それ程に厳しくはなかったりする。

当然ながら、公の場等ではきちんとするのだけれど。


普段は結構、緩い。

それは街に出て民と会い、話をしてみれば判る。

砕けた言葉遣いで有っても尊敬・畏怖・信頼といった意思は込められている。

そういう関係性を率先して築き上げたのが雷華様。


親しき中にも礼儀有り。

けれど、礼を重んじ、心を疎かにしてはならない。

多少礼節に欠けていても、心が篭められているのならそれで十分だと。


だから、華琳様も私達も、曹家・曹魏に属する人々は結構寛容だったりします。

…まあ、時と場合と相手に因っては変わりますが。

それは仕方無い事です。



「ですが……いや、判った

斗詩…さん、その、だな…

その…し、子和様から…」



話し方を普段通りの物へと戻しながらも、いきなりで私を呼び捨てにする真似は難しかったみたいで結局は“さん”付けになる辺りに彼女の真面目さを垣間見る事が出来る。


──と、それは兎も角。

雷華様の名前が出た瞬間に“…あっ、成る程”と直ぐ察してしまった。

焔耶ちゃんの口調の変化や小声に為りながらも歓喜と期待、羞恥と不安が複雑に混ざった様な声音からも。

焔耶ちゃんが今抱えている悩み事が何なのか。

それは私達──私も曾ては通ってきた懊悩(みち)


それでも、雷華様から既に招かれているので有れば、彼女は至っている訳で。

そういう意味では少しだけ気持ちが楽になる。

だって、其処へと至らせる事が目的ではない。

飽く迄も、背中を押す。

ただそれだけだから。




とは言え、私も雷華様から伝えられたから深く心身に刻まれている事も有る為、あまり喋り過ぎない様には気を付けなくては。

…つい、うっかりで彼女の可能性を潰してしまっては申し訳無いですから。



「……今夜…招かれた…」



思わず、“おめでとう”や“良かったですね”と言う言葉が出そうに為る。

素直に祝福したい気持ちに嘘偽りは有りません。

ですが、手放しで喜んでも居られないですよね。

焔耶ちゃんにしてみれば、その事に関して今、真剣に悩んでいるんですから。



「焔耶ちゃんは招かれて、どう思ったの?」


「………物凄く嬉しい…」



私が声を掛けてから返事が返るまでには幾らかの間が空いたのだけれど、それは“言葉を選んでいたから”という訳ではなくて。

単純に、照れてしまって。

どうして判るのか?

くすっ…だって、訊いたら焔耶ちゃんの体温と鼓動が急に増したんですよ。

それでも気が付かない様な鈍感では有りませんから。



(でも…ふふっ、ちょっと意外かもしれませんね

焔耶ちゃんみたいな娘だと口篭る事も多いのに…

まあ、自覚しているのなら話は早そうですね)



要は、彼女に素直なる事を怖れさせなければいい。

その為の誘導(助言)をするだけなのだから。

私でも十分に出来る。

可愛い妹分でもあるのだし助けてあげたいですしね。



「なら、焔耶ちゃんの悩む理由は何ですか?

まさか、“揶揄われた”と思ってます?」


「そんな事は無いっ!!

──っ!?、〜〜〜〜〜っ」



私の雷華様を疑うかの様な発言に対して焔耶ちゃんは即座に否定を返す。

ただ、その自分の言動から“私は信頼しているし全く疑ってなどいないっ!

疑う余地など無いっ!

だって、子和様なんだ!”という意思が言外に窺え、その事に自身も気付いたら声に為らない悲鳴を上げてお湯の中に沈み込む。

…まあ、流石に水に潜るのとは違いますからね。

飽く迄も比喩です。

実際には顔の半分位までを浸けている状態です。


本当、初々しい反応ですし可愛らしいですね。

ちょっとだけ、本の少し、意地悪をしたくなります。

雷華様や華琳様の気持ちがこういう時に判ります。

普段は遣られる側なので、ちょっぴり新鮮ですしね。

勿論、自重しますけど。

今度、改めて焔耶ちゃんを揶揄う事にしましょう。

楽しみは取って置いて。

今は“先輩”として。



「つい、彼是考えてしまう気持ちは判りますよ

でも、焔耶ちゃん?

一番大切なのは焔耶ちゃん自身の気持ちですからね」


「……私の…気持ち……」



反芻する様に呟く声。

それを聞きながら、外へと意識を向ける。

そろそろ、雨は止みそうな気がしますから。



──side out



 魏延side──


腕の良い猟師だった父と、曾ては商家にて働いていた平民としては学の有る母、その二人目の娘として世に生を受けたそうだ。

他人事の様になってしまう理由は私がまだ幼い時分に両親が亡くなった為だ。

はっきり言ってしまうと、私に両親の記憶は無い。


ただ、母の記憶は有る。

それは“産みの親”の事を指すのではない。

亡き両親に代わり私の事を女手一つで育ててくれた、魏良──姉の火弥(かや)の事である。

姉と私では、一回りも歳が離れている事も一因だったかもしれないが。

姉が私の事を育ててくれた事実は変わらない。

だから、私にとっての母は姉以外に有り得ない。

実の──産みの母に対して申し訳無いと思う気持ちも無い訳ではないのだが。

実感が持てないのだ。


…まあ、極端な事を言うと幼い私を残して亡くなった両親に対して懐く気持ちは大してなかった。

産んでくれたという事には感謝をしているが。

ただそれだけだ。


そんな訳で、私にとっては姉が唯一の身内。

唯一の家族だった。

十歳になる前に私を残して姉が亡くなってしまう。

その時までは。


天涯孤独で、自分で生きる事すらも儘ならない子供の私に対して手を差し伸べて下さったのが──桔梗様。

元々、姉とは幼馴染みで、親友でも有った為、昔から私自身も可愛がって頂き、姉と同様に慕っていた。

両親が亡くなって私を抱え生活に困る姉に対しても、桔梗様は手を差し伸べられ助けて下さった。

当時、既に己の武によって仕官していた事も有って、姉を自身の侍女という形で雇って下さったのだ。

そのお陰で姉も私も路頭に迷う事は無く、生活をする事が出来ていた。

感謝してもし足りない。

返し切れない程に多大なる大恩が有るのだ。


だから、この様に思う事は無礼なのかもしれないが、私は桔梗様を姉としても、母としても、私の家族だと思っている。

流石に口にはしないが。

けれど、叶うのならば。

いつか、感謝だけではなく親しみを、尊敬を、愛情を込めて伝えたいと思う。

私の飾らない想いを。




そんな人生を送っていた為なのかは判らないが。

私は、恋愛や結婚といった事に興味を懐かなかった。


ただただ己を鍛え上げて、強く為る事。

それだけを望み、求める。

それが私の在り方だった。


まあ、私がそういった事に興味を懐かなかった理由に私よりも強く、優れた男が周囲には居なかったという事も一因だと思う。

桔梗様に“のぅ、焔耶よ、お主は好きな男が出来たりしないのか?”と不安顔で心配された事も有る。

勿論、“桔梗様、私よりも弱い男になど一体どの様な価値が有るのですか?”と言い返したのだが。

私も理解はしているのだ。

姉が、桔梗様が私を育てる為に自分の人生を犠牲とし私の幸せを願ってくれる。

考えてくれている。

その気持ちは。


だから、“私を嫁に…”と考える事も判る。

私は女だ。

私は子供を産めるのだ。

姉が、桔梗様が、私が。

この世に生を受けた様に、私も新しい生命を身に宿し産み、育む事が出来る。


“武に生きる”という事は決して綺麗事だけで物事を済ます事は出来無い。

血に、罪に、穢れに染める事は避けられない。

だから、そうさせない為に“普通の幸せ”を与える。

そう考えているのだと。

理解はしている。


しかし、その想いに応える事は出来無いとも思う。

もし、私がそういった事を考える相手が居るとすれば私は強さを求める。

私を、子供を、家族を。

何者にも奪わせない。

害させる事の無い。

そういう力(強さ)を。


故に、私は強く為る。

私にさえ劣る様な弱い男に用は無いからだ。

私を超え、私達を守れる。

そういう男しか望まない。


“その様な気骨の有る男が居たなら、世の中の女共が放っては置かんな”と。

桔梗様は苦笑された。

その時、ふと気になった為何気無く訊いてみた。

“そう言う桔梗様は、一体どの様な男ならば己の夫に為さるのですか?”と。

その時の、物凄く珍しい、“女らしい顔”をしていた桔梗様は印象的だった。

“ふむ…確かに弱い男には興味は湧かんな”と。

何処か、私を試すかの様に言われた事もだ。


…ただ、そんな風に語った桔梗様を見ていて、何故か胸の奥がモヤモヤとして、苛立ったのだが。

それは今もよく判らない。


それは兎も角として。

そういう理由から私は先ず恋愛や結婚は出来無い。

そう確信に近い根拠の無い自信を持っていた。

と言うか、桔梗様が認める程の強さの男でもない限り無理だろうな、と。




そんな私の考えを肯定する様に、強い男が私の前へと現れる事は無かった。

加えて、である。

私にとって更に男に対する評価の低下を招く出来事が二つ、起きてしまう。


先ずは、あの“彼女”──飛影殿との出逢いだ。

当時、桔梗様以外には私に敵う者など居ない。

そういう状況になるとだ。

決して、そういうつもりは無かったとしても、知らず知らずに自惚れてしまってしまうもので。

気付かない内に傲慢と映る態度や言動をしてしまう。

そんな私を諫め、正面から叩き伏せたのが彼女だ。


一手交えただけで判る。

私よりも、桔梗様よりも、“高み”に有るのだと。

更なる高みを目指すが故に彼女に心を奪われた。

だが、桔梗様に対する恩が私を躊躇わせた。

そんな私に彼女は言った。

“孰れ、縁が導いたならば私達は再び会えます”と。

その一言が、迷う私の心を救ってくれた事も彼女への心酔に繋がったと言える。



そして、もう一つ。

彼女と別れてから一年半の時が経った頃だ。

州牧であった劉焉が死に、その跡目争いで内乱が起き混乱が続いた。

最終的には、劉璋が新たに益州州牧となった訳だが、彼の兄弟に仕えていたり、支持をしていたという者は当然の様に反発した。

ただ、桔梗様の存在により大きな争乱に発展する事は無かったのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。


そんな中での事だ。

劉備という無名の女により率いられた一団が益州へと遣って来て、波乱を生む。

その劉備の傍に居たのが、愚図と言える男だった。

桔梗様が“学ぶ事も有る”と言われたが、当初は何も学ぶ事は無いと思った。


だが、確かに有った。

それは、“弱った民心とは相手が如何に愚図であれど自分達に都合の良い者なら喜んで受け入れる”と。

そして、そんな弱い民達を守る事は出来無いと。

彼等は“民”ではないと。


自分達の遣ってきた事が、守ってきた存在が。

無価値に為った瞬間が。




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