陸
「──散れ」
そう一言だけ呟くと、彼女──否、“彼”は手にした緋色の槍を振るい、賊徒の命を終わらせてゆく。
その姿に、その武に。
ただただ私は目を奪われ、魅入る事しか出来無ずに、意識も行動も心身の全てを支配されてしまった。
その出逢いは有り触れた、何の変哲も無い、よく有る日常の一場面にしか過ぎず特に意識もしなかった。
単なる偶然だった。
それでも印象的だったのははっきりと覚えている。
何しろ、あの容姿で“男”だというのだから。
驚かない方が可笑しい。
余程、他人には興味の無い“世捨て人”辺りならば、気にしないかもしれないが普通は無理だと思う。
ただ、それだけだった。
それ以上の事を、印象を、私は彼に懐く事は無いまま“その他の大勢の人々”と同じ様に、広大な世の中で擦れ違うだけの存在として当然の様に別れた。
もしかしたら、また何時か何処かで、同じ様に偶然に再会し──擦れ違う。
そんな事も起こり得るかもしれない。
そんな程度の出逢いだ。
物語の中の“運命”の様に一目惚れなどするでもなく“世の中は広いな…”位の小さな感心を懐いた程度。
そういった恋愛に憧れない訳ではないが、現実的には有り得ないと思っていた。
一目惚れ、というのは要は見た目と第一印象が全てで相手の事を深く知っている訳ではないのだから。
一時的に惹かれたとしても同じ様に早く冷めてしまう想いだと考えていた。
私としては恋愛というのは“時と共に積み重ねる事で成り立つ物だ”というのが持論だったりする。
…まあ、今までにそういう経験は無いのだがな。
しかし、そんな私の考えは容易く覆された。
目の前に在る彼に。
私は“一目惚れ”をした。
其処で初めて理解する。
それは必ずしも“初対面”である必要は無い、と。
一目惚れとは、ただ一瞬で心身を奪われてしまう事を言うのだと。
だから、既知の相手であれ異性として意識した瞬間、一目惚れしているのだと。
そう私は理解した。
痛めている筈の己の左肩と右の脹ら脛。
今も流れ出ている血。
だが、そんな事を気にする思考さえも失われていた。
ただただ、彼の姿を追い、見詰め続けていた。
胸の奥が、じわりじわりと熱を帯びてゆく。
身体を染めてゆくかの様に広がってゆく。
他の音が遠ざかり、鼓動が喧しい位に大きく鳴り響き高鳴ってゆく。
もしも今、自分を第三者の立場から見る事が出来たら私は惚けた様に彼を見詰め顔を赤らめているだろう。
そう確信出来てしまう。
冷静に、事実として感情を受け止めている私は多分、自覚したが故だろう。
身体は言う事を利かないが思考は意外と普段通り。
それた恐らく、少女の頃と違うからなのだろう。
恋に焦がれていた少女も、幾年月を経て成長した。
目の前の男を欲するが故に何をすべきか。
それを考えられる様に。
けれど、私の懐く想いとは裏腹に現実は私達を別離へ導いてしまった。
だが、辛くはなかった。
切なさ、寂しさというのは否定出来無い事だが。
“今はまだ、お互いの道が交わる時ではない”、と。
そんな風に感じていた。
恐らくは、彼も同様に。
事実、彼は──飛影は私に別れの言葉を告げる事などしなかったのだから。
それから、私は自分の在る日常へと戻っていった。
元部下達は死んでしまい、真実を知る者は私達だけ。
飛影が口を開くとは私には思えない為、後は私自身が黙っていれば彼等に対して批難が出る可能性は無い。
正直、こういう事はあまり言いたくは無いのだけれど私と彼等では民にとっての存在としての価値に大きな差が出てしまう。
自慢する訳ではないのだが彼等の代わりならば他にも居ない訳ではない。
だが、私の代わりが務まる者となれば探し出すだけで多大な時間と労力を要し、実際に機能をするまでには更に時間を費やす。
民にとっては、今の日常が大切な物なのだから、当然私か彼等か何方等かを選ぶ事に為れば、殆んどの民が私を選ぶだろう。
彼等を選ぶとすれば家族、そして彼等と同じ様に私を排除したいと考える輩。
それだけだろうからな。
真実を告げる事は簡単だ。
結果的に生きている以上、私の言葉が正しい物とされ彼等は“裏切り者”として烙印を押されるだろう。
しかし、そうなれば残った罪の無い家族が虐げられ、誹謗中傷され、冷遇され、追い詰められてしまう事が容易に想像出来てしまう。
その様な事態に為る事など私は望まない。
そうしたいとも思わない。
だが、それは責任感だとか罪悪感からではない。
死んだ彼等に対して同情や罪悪感は一切無い。
自分の甘さと未熟さに対し憤りは懐いてはいても。
彼等は最も単純な方法で、事を為そうとした。
覚悟も無く、欲望を満たすだけの安易な計画だったのだとすれば自業自得。
呆れてしまうだけだ。
ただ、残された家族は今も生きているのだ。
悲しかろうが、何だろうが只管に生きていかなくてはならないのだ。
余計な物を背負わせる事はあまりにも酷だろう。
だから、私は口を噤む。
ただ、それは同時に一つの罪の黙認でも有る。
彼等の事ではない。
彼等は所詮、捨て駒だ。
何も、見えてはいない。
恐らくは、外部から彼等に手を伸ばした輩が居る。
其奴が唆したのだろう。
私を排除する為に。
彼等の家族を守ろうとするのであれば、私は其奴への断罪は出来無くなる。
その事実を明るみに出せば彼等の家族は罪を背負い、生きていく事になる。
それを避けられない。
腹立たしい事ではあるが、何方等かしか選べない以上仕方が無い事だった。
そして、時は流れた。
世を“黄巾党”が騒がせ、董卓という存在を中心にし漢王朝は終焉を迎えた。
だが、益州は他とは距離を置いていた。
いや、そう言う事ではなく内乱に因って、置き去りにされてしまっていた。
そう言うのが正しいか。
劉備という一石が投じられ益州の情勢は動いた。
まあ、益州の一部は疾うに曹魏の手中だったのだが。
それは曹操の先見の明だと言えるのかもしれない。
その様に思っていた。
その後、運命は私達を導き時を経て、縁を結んだ。
飛影──子和様との再会。
あの時は、男だと言われた時よりも驚いたものだ。
それから、曹家の、曹魏の一員となって、今までより充実している日々を送る。
益州の民には悪いのだが、やはり私には統治者という立場は不相応の様だ。
主を持ち、役職を担う。
そういう立場の方が私には向いているのだと判った。
同時に、益州に居た時期の自分が、相当に“我慢”をしていたのだとも。
我ながら呆れてしまう程に私も不器用だったらしい。
そういった事も全て。
子和様に逢えたからこそ、私は知る事が出来た。
今ならば、そう言える。
深く、記憶を手繰る様にし思い返していた歩み。
其処に有り、確と刻まれた想いは今も色褪せない。
紫苑の問いに、私の中から答えは自然と現れる。
「空を流れる雲は、其処に有るからこそ、でしょう」
「ああ…その通りだな
雲が空に在る事に理由など必要は無い、か…」
気付けば顔を上げていた。
気付けば空を見上げ、瞳に空を映している。
いつもよりも遠くに見えるその景色に。
自然と口元が緩む。
ただ、屈んでいるだけで、何故こうも違うのか。
何故違って感じるのか。
その答えは単純だ。
結局は自分次第な訳だ。
悩む事も、吹っ切る事も、決意をする事も。
他人任せでは出来無い。
誰かの差し伸べる掌を。
誰かの掛ける言葉を。
頼る事は間違いではない。
しかし、ただ享受する事は間違いである。
自らが考え、導き出して、初めて“答え”に成る。
それを忘れてはならない。
日が沈み、月が照らす。
黒天を流れる雲が瞬く星を時折隠しては、悪戯をする子供の様に去ってゆく。
何気無く見上げていた空をそんな風に思う様な事など今までには無かった。
心境の変化と言われれば、否定は出来無い。
心持ち一つで、目に見える景色さえも違ってくる。
そう考えると、人の心とは実に不可思議な物だな。
触れようとしても出来ず、話し掛け様にも通じなく、決して目には見えないのに必ず其処に在るのだから。
「……すぅ〜……はぁ〜……すぅ〜……よしっ」
子和様の待つ寝室の前。
ゆっくりと深呼吸をして、ノックをして、扉を開く。
初めて入る──見る室内は普段の自分達が使っている私室とは広さが異なる。
当然と言えば当然だが。
その中に、存在を主張する大きな寝台が在る。
…私達が十人程は子和様と一緒に寝られそうだ。
体勢や重なる事も厭わないのであれば──三十人程は乗れるのではないか。
そう思える大きさだ。
その傍らに子和様が立つ。
何と無く、緊張も有るからかもしれないが、室内へと視線を巡らせていたのだが苦笑する子和様と目が合い手招きをされた。
それに対し少し恥ずかしい気持ちを懐きながら、傍に向かって歩み寄る。
因みに、踏み出して初めて気付いた事なのだけれど、室内の床が柔らかい。
絨毯の様でいて──違う。
はっきりとは判らない。
ただ、そのまま寝転んでも問題無く寝られると思う。
何気に贅沢な造りだ。
子和様の傍に行くと自然と俯いてしまった。
それは不安からではない。
兎に角、照れ臭いのだ。
自分でも笑いたくなる程に緊張しているし、恥ずかしがってもいる。
本当に“誰だ、お前は?”なんて言われても可笑しくないだろうな。
…これはあれか?、場数を熟していれば平気に為れる物なのだろうか。
個人的には、そうなるとは思えないのだがな。
…いや、そう思えるだけの相手ならば、か。
武の手合いと同じで前より次の相手が弱いのならば、そんな気持ちを懐く事にも為らないだろうからな。
それは兎も角としてだ。
今までの人生で最大だろう緊張は解けない。
だが、勇気を振り絞る。
自分の意志を、想いを。
きちんと伝える為に。
小さく、静かに深呼吸し、顔を上げて子和様を見る。
「…子和様、その…衣装、似合っておりますか?…」
伏せ目勝ちに為りながらも何とか言葉を絞り出す。
本当に…こうも自分の心が儘ならないとはな。
恋愛とは手強い物だ。
私の問いに応える様にして子和様の視線が動く。
此方から訊ねたのだから、見られるのは当然なのだが──少々擽ったい。
なのに、子和様に見られる事に身体が熱くなり、胸が高鳴ってしまう。
「んー…珍しいって言うか今の曹魏では殆んど見ない意匠の物だな」
それはそうだと思う。
何しろ、私が着ているのは約十年程前に買った物だ。
流行という意味では随分と“古臭い”事だと思う。
それでも、この服を選んだ理由はちゃんと有る。
と言うか、無ければ普通に今時の物を選んでいる。
その理由とは──
「──けど、何と言うか…不器用だけど可愛らしく、もどかしく切ないけれども尊い、“初恋”を思わせる雰囲気が有るな」
「──っ!!」
自ら語ろうとした矢先だ。
此方の心意を見透かす様に子和様は言葉を紡いだ。
射抜かれた様に高鳴る胸は悪い意味ではない。
心地好く、熱く、優しく、甘く、深く。
心身を染めてゆく。
この方は、本当に狡い。
華琳様や皆から色々と話を聞いてはいたのだが。
そう改めて思わされる。
「…私は、皆と比べて歳も取っております
その割りには…その…恋も正面にしておりませぬ…
殿方も…知りませぬ…」
一つ、息を吐いてから私は胸の内を晒け出す。
恥ずかしくは有るが、私の偽り無い想いを伝えたい。
その一心からの決意。
「…それでも私は、貴男の御寵愛を望んでしまう」
真っ直ぐに見詰めながら、その様に伝えると子和様は苦笑を浮かべられた。
「そう堅苦しく考えるな
有りの侭で構わない
知らないのなら俺と一緒に知っていこう、“桔梗”」
「っ…不束者ですが宜しく御願い致します、雷華様」
静かに、優しく重なる唇。
心身を染める思慕が温いとさえ思える程の深く激しい滾りを私は知る。
自らが生まれてきた幸福と軈て繋ぐ祝福を。
──side out。




