弐拾
直ぐにでも帰りたい。
その気持ちに嘘は無い。
だが、一つだけ。
どうしても確かめなくては為らない事が有る。
私は真面目な顔で夏侯淵を見詰めて口を開く。
「一つ訊きたいのだけど…
あの“番人”は何者?」
「…ああ、アレか…
あの場所にはな、古くから番人だとか人を惑わす妖が居るだとか、色々と謂れが有るのだが…
土着している民の、それも古い世代しか知らない故に有名ではなくてな
実際に“見た”という話は有るが、実証するまでには至ってはいない
ただ、昔は処刑地だった、多くの捕虜や無辜の民達が殺され遺棄された、という話も有るらしいからな…
もしかすると、そういった類いの仕業やもしれんな」
「…っ……冗談よね?」
夏侯淵の言葉に急に背筋が寒くなった気がした。
…いえ、気の所為よ。
ええ、そうよ、幽霊なんて居る訳無いじゃない!
揶揄われているだけよ。
「ああ、勿論、冗談だ」
そう言って笑う夏侯淵。
“貴女って本気か嘘か判り難いから心臓に悪いわ!”と叫びたくなる。
流石にしないけど。
「だがな、立ち入り禁止に為っている理由は有る
お前は自分が、どういった経緯で此処に居るのか…
その辺りの事は、覚えてはいないのだろう?」
「…ええ、そうね」
“記憶”は有る。
しかし、“正しい”か否か判断は出来無い。
その証明もだ。
「あの地に入って“仄かに甘い桃に似た様な匂い”を嗅いだ記憶が有るだろう?
詳しくは言えないのだが、アレには非常に強い幻覚と睡眠作用が有ってな…
その所為で飢え死にしたり発狂したり、滑落したりと調べれば切りが無くてな…
危険なので封鎖された
同時に、悪用されない為の立ち入り禁止でもある
因みに、お前は作用により気を失っていた所を捜索と捕縛に入った私が見付けて下山した訳だ」
そう夏侯淵は言った。
確かに話の筋は通る。
それに必要以上に詳しくは話せない事だとは思うし、私には追及する権利が無い事も理解出来る。
ただそれでも、引っ掛かる事が一つだけ有る。
(…あの時の“匂い”は、母様の匂いだったわ…)
最後の一撃を互いに放ち、擦れ違った瞬間。
確かに、馨って来た香は、幼い頃から嗅ぎ馴れていた母様の匂いだった。
それが香だと知ったのは、母様が亡くなった随分後の事だったけど。
間違えはしない。
「…もしかしたら、母様が“まだ来なくていいって”言ってるのかもね…」
「ん?、何か言ったか?」
「いいえ、何でも無いわ
助けてくれて、有難う
何か言伝てとか有る様なら聞いておくわよ?」
「ふむ…では、一つ
暑いからと言って寝る時に腹を冷やさぬ様に、と」
「ちゃんと伝えておくわ」
何方等が姉で、妹なのか。
本当に判らないわよね。
でも、そう思い合えるのも姉妹の絆の一つよね。
──side out。
夏侯淵side──
孫策と華佗が船に乗って、出港したのを見届けて──大きく息を吐く。
基本的に全て予定通りでは有るのだが。
…最後の締め役を担うのは中々に緊張を強いられた。
しかも、面識の無い相手に“揶揄う”という謎の難題付きときていたからな。
無事に完遂出来て、心から今は安堵している。
──と、此方に歩み寄って来ている気配に気付く。
「少し怪しんでいたが?」
「アレも雷華様の指示よ
と言うか、私自身アレには内心緊張していたのよ?」
揶揄いも含めて気になった事を口にしながら其方等に顔を向ければ、拗ねている蓮華がそう言ってくる。
“アレ”とは、蓮華が例の変装時に付けていた香の事だったりするのだが。
まあ、雷華様の指示ならば何かしらの意図が有っての事なのだろうな。
それを遣らされている方は堪った物ではないが。
「しかし、私も他人事とは思えないが…
結構な“じゃじゃ馬”振りだったな」
「…はぁ〜…それはもう、聞き飽きる位に皆から散々言われているわよ…」
本当に飽き飽きしているのだろうな。
蓮華が深々と溜め息を吐き項垂れてしまう。
その様子に苦笑する。
その気持ちが理解が出来る我が身にも、な。
「追及はされなかった?」
「ああ、素直な物だ
下手に踏み込んで折角得た“奇跡”を自ら棄てる様な真似はしないだろう…
雷華様の認めた“王の器”でも有るのだからな」
そう言うと複雑そうな顔を見せる蓮華。
妹としては嬉しいのだが、女としては面白く無い。
まあ、嫉妬しているという事なのだが。
ふふっ…可愛らしい事だ。
「あの侵入は中々に見事な手際だったが…
抑、曹魏内での華佗の特別扱いされている点に関して疑わないのは減点だな
最低限、“監視(護衛)”が居ると仮定しなくてはな」
「それを言うのなら監視が門扉の前だけ、なんて思う事自体が甘いわよ…
でもまあ、そうは言っても“遠距離からの監視”自体珍しい事だけどね」
「普通は“門扉の傍から”遠くを見張るが、その逆に遠くから門扉を見張る事は先ず無いからな…
それも攻勢の場合の偵察の考え方だから当然か…」
「そういう“思考の隙”を当たり前の様に突いている策や遣り方を普通にしてる雷華様は本当に怖いわね」
「ああ、そうだな…
熟、敵対する立場でなくて良かったと思う」
尤も、本当に“怖いな”と思うのは人の使い方だが。
如何に蓮華の為だとは言え完全には敵対しないという保証の無い孫策を今よりも“高み”へと至らせる。
そんな事は普通はしない。
それを躊躇無く遣れる所は真似は出来無い。
心底、そう思う。
──side out
曹操side──
蓮華の為に整えられていた“舞台”は無事終演と為り蓮華も更に上に至った。
結果としては十分。
抑、それ以外の狙いなんて殆んど無かった訳だし。
目的が明確な事は、進める上で大事よね。
問題点だった孫策の処遇に関してだけれど、形式上は秋蘭は私に報告して、私が“見逃した”形を取る事で完結している。
…孫策への貸し?
そんな物は孫策次第よ。
別に証文等が有るという訳ではないしね。
特に期待もしていないし、意識してもいない、というのが正直な所だわ。
それでどうこうしようって考えは全くないしね。
「──それで?
小野寺が掛かっている例の“天墜熱病”という病気に関する情報を、私は一切、聞いていないのだけれど?
その辺りの事は一体全体、どうなっているのかしら?
詳しく、教えて貰える?」
私の執務室にて人払いをし雷華を睨んで問い質す。
天墜熱病がどういう物か。
それを初めて聞いたのは、秋蘭に締めの指示を雷華が出している時。
つまり殆んど終わってからという事に為る。
ええ、そういう事よね。
この秘密主義者は、肝心な情報を私に言わずに事を進めていた訳よ。
大体、貴男に何か有ったらどうするつもりよ。
「あー…何だ、華琳…
天墜熱病の事はだな、例の“黄皮斑病”の調査の際に判明していたんだが…
あれはほら、特殊だろ?
“天の御遣い”という存在無しじゃあ説明が出来無い事なんだよ…
だから、下手に宅で情報を出すと色々と…な?」
“解るだろ?”と言う様に苦笑する雷華。
それは勿論、理解出来る。
でも、それはそれよ。
納得出来無い部分は有る。
「…だからと言って情報を完全には秘匿しなくたっていいでしょ?
大体、私は理解しているのだから言いなさいよ!
本気で心配したのよっ!」
つい、怒鳴ってしまう。
水面に感情が溢れる。
接触しないのだから感染はしないだろうし、予防策も無しに動く様な迂闊な事はしないとは思う。
でも、絶対は無い。
その為に私が居る。
そう自負している。
だから、悔しい。
だから、腹が立つ。
気付かなかった自分に。
怒鳴り散らしたい。
と言うか、思いっきり泣き喚いて遣りたい。
…出来無いでしょうけど。
我ながら本当に厄介な程に意地っ張りだもの。
そんな感情を露にしている私を雷華が抱き締める。
そして、頭を撫でてくる。
…常套手段なのに安心して赦してしまう自分に対し、胸中で文句を言ってみるが“仕方が無いでしょ?”の一言で敗北する。
…惚れた弱味よね。
「…何時実験したのよ?」
天墜熱病の事を知る為には雷華自身が感染しなくては情報は得られない。
何しろ、蓮華の事も有って小野寺には絶対に試せない状況だった訳よ。
北郷にならば試してみても構わないのでしょうけど…経過を観察しようとすれば接触しなくてはならない。
雷華が迂闊に劉備達に接触するとは考えられない。
とすれば、一つしか方法は存在しないもの。
「…泱州が新設して直ぐ」
若干、言うかどうか逡巡し諦めて答えた雷華の御尻を抱き付いたまま、抓る。
どうせ、“痛いっ!?”とは言わないでしょうけど。
少しは反省しない。
暫く抓り、雷華の胸元へと顔を埋めながら小さく鼻を鳴らして、“切り”を付け顔を上げて睨む。
「…次、こういう様な事を遣ったら…」
「………遣ったら?」
出来れば、訊きたくはないけれど、訊かないと先へと話が進まない。
それを理解している雷華は諦めた様に訊ねる。
「一週間程、ゆっくりと、義母息子水入らずで仲良くしていらっしゃい」
「──ちょっ!?、華琳?!」
最近、御母様達も雷華との“触れ合い”が少ないと、愚痴っていたしね。
親孝行してきなさい。
ええ、存分にね。
「判った、判ったから!
もう二度と今回みたいな事遣らないから!
だから華琳お願いっ!
それは考え直して?!
微妙に何人か怖いから!」
本気で慌てる雷華。
その姿に多少溜飲が下がる思いがする。
雷華の生まれ育った世界と時代の価値観からすると、そういうのは不道徳な様に思うのでしょうね。
でも、“此方”では然程は珍しくない事。
御母様達も一人位であれば授かれるでしょうしね。
実際、雷華に、その気さえ有れば御母様──は微妙な感じだけど、他の面子には受け入れる意志が有る。
と言うか、“いつでも”と公言している位だもの。
…まあ、母に成っていても女は女な訳だものね。
当然の感覚でしょう。
私には、そういうつもりは一切無いのだけれど。
──side out
何とか華琳の機嫌を直して赦しを得られた。
…最近、御義母様達からのアプローチが怖いんだよ。
俺には“寝盗り”の趣味は無いんで。
…愛紗?、引き抜きだし、誰かに恋愛感情を懐いてた訳ではないしな。
決して、寝盗りではない。
まあ、その引き抜き行為を女性相手に遣った、という意味でなら…言えない事も無いのかも知れないが。
「お疲れ様でした」
「有難う、杜若」
自分の執務室に移動し机に突っ伏す俺の前に、労いの言葉と差し出された茶杯が漂わせる香りに癒される。
日本人は御茶だよな。
「其方も大変だったろ?」
「まあ…正直な所を言えば難しくは有りましたね
何しろ、隠密衆が扮装して近付いて誘導するのならば兎も角、無関係の一般人を無意識の誘導役に仕立てる訳ですから…
良い勉強には為りましたが苦労もしましたね…」
そう言って苦笑する杜若。
今回、孫策には存在しない“雲蓋峡の番人”を恰かも実在する様に意識をさせる必要が有った。
その初手として移動中での他愛無い世間話を利用して刷り込む事を遣った。
「彼方の行動は読めますし実際に“昔話”を知る人を同乗させる事自体は然程は難しく有りませんが…
話してくれるという保証は有りませんからね」
「その為の事前意識だ
態々、孫策と接触する前に言って欲しい話題を聞かせ刷り込んだんだからな」
あの御婆さんは一般人。
協力者でも何でもない。
孫達が可愛い御婆さんだ。
「まあ、孫策が情報収集の必要性を考える状況こそが一番の仕込みだからな」
「まさか一年以上も前から遣っていた事だなんて誰も思わないですからね…」
「だから、成るんだよ」
兎に角、事は成った。
ある意味一番失敗出来無い事だったからな。
俺としても一安心だ。
これで、漸く“本陣”へと駒を進められる。
さて、どう動くか。
見せて貰おう。




