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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
639/915

       拾玖


──遠くの方から何らかの音が聞こえてくる。


はっきりとは判らない。

特定の形へと至っていない不完全な音の様にも思うし色々な音が混じる雑音にも思えてくる。

要するに──鬱陶しい。

耳障りな音に不快感を覚え──それに伴って、意識は眠りという名の深い淵から呼び起こされる。



「…………んっ……」



目蓋の向こうに感じた光に眉根に顰め顔を背けながら寝返りを打つ。

そして、光から脱した所でゆっくりと目蓋を開いた。

ぼやけた視界。

朦朧とする意識。

緩やかに焦点を結んでゆく景色を見詰めながら思う。



「………此処、何処?…」



正面に思考が働かなくても理解出来る事が有る。

それは目の前に有る景色に覚えが有るか、無いか。

その判断程度は可能。


その景色を見る限りでは、室内であると判る。

自分は今、寝台にて布団に入って眠っている。

しかし、自室ではないし、見覚えの無い部屋。

単純に考えれば、何処かの宿屋辺りだと思う。


次いで状況を確認する為に記憶の糸を手繰る。

自分が何をしていたのか、何が有ったのか。



「──────っ!!」



そして、大きな波が一気に押し寄せるかの様に記憶が思い出される。

反射的に布団を跳ね上げて上半身を起こした。


“雲蓋峡”への侵入。

“番人”との決闘。

そして──自身の敗北。

その全てを思い出す。


だが、其処で疑問を懐く。

自分は確かに番人の一撃を受けて敗れた筈。

それなのに何故、こうして室内で眠っているのか。

話が全く見えて来ない。



「…華佗に助けられた?」



真っ先に思い浮かぶのは、その可能性だった。

と言うより、それ以外だと嫌な予感しかしない。

まだ決まった訳ではないが私の“勘”が、“違う”と訴えている。

その可能性は無い、と。

だから、思わず右手で顔を覆ってしまう。


──ふと、右手を見てからある事に気付いた。

今更だけど、着ていた物と服装が変わってるわね。

それはつまり、“誰か”に着替えさせられた証拠。


小さく溜め息を吐きながら自分のお腹へと視線を移し着ている服を捲る。

其処には有る筈の番人から受けた傷痕が──無い。



「──は?……え?」



左手で服を捲り上げたまま右手で受けた筈の一撃にて出来た傷口を探る様に撫で確認してみるが──無い。

その傷痕の痕跡は勿論だが皮膚の凹凸も無い。

──と言うか、あの大きな傷だけでなく、全身の彼方此方に出来ていた筈だった擦り傷・斬り傷が一つすら見当たらない。

でも、自分が以前に負ったぱっと見では判らない位に今は薄くなった傷痕とかは普通に有るのに。



「……何なのよ、一体…」



記憶には残っている。

でも、現実の証は無い。

まるで、妖術に掛けられて“幻夢を見せられていた”様に思えてしまう。

その不気味さに身震いした私は可笑しくない筈。




──と、その時だった。


ガチャッ…と、扉の開いた音がして身構えながら顔を其方等へと向けた。

今、手元に武器は無い──と言うか、それを確認する余裕が無い程に、動揺して戸惑っている為だけど。

兎に角、今は下手な真似は悪手にしか為らない。

そう考えている私の視界へ映った姿を見て、驚く。



「目が覚めた様だな」



目が合うと穏やかに微笑み私を気遣う様に、そう声を掛けてきた人物に対し私は見覚えが有った。

色々と縁も有る相手なので忘れはしないし、見間違う事も無い──筈。



「…貴女、夏侯淵よね?」


「ほぅ…南の“庶人”でも私の顔が判るのか?」


「──っ!?」



夏侯淵の一言に私は身体を強張らせた。

“しまったっ!!”と思うが時既に遅し。

“つい、口が滑った”では済まされない失態に胸中で頭を抱える。

壁に頭を打ち付けていると言ってもいい位。

とんでもない大失態。


“迂闊だった…”と言って済む問題ではない。

色んな意味で“終わり”に繋がる事。



(あーもうっ!、私ったら何遣ってるのよっ?!)



自分自身に腹が立つ。

確かに、此方に来てからは名乗ったりする事は少なく華佗と決めていた偽名すら口にする機会は無かったと言ってもいい。

だが、だからと言って気を抜き油断していい理由にはならない。

言い訳にも為らない。

徹底出来ていなかった己の甘さに心底憤怒を覚える。



(…此処は曹魏なんだし、状況から考えて“今の私”の身元等に関しての調べは付いているでしょうね…)



今の私は華佗の護衛役で、“黄勇”という設定。

しかも、曹魏内には初めて来た事に為っている。

当然、初対面だ。

“何処其処で見掛けて…”なんて言い訳が通用する程甘い相手ではない。

姉の春蘭とは違い、簡単に騙す事なんて出来無い。

何しろ彼女は曹魏の軍将を任されている上、公的にも存在を諸侯に対して見せた数少ない重臣。

如何に公的には有名でも、初見で当ててしまうという事は怪しまれる要因だ。


なら、どうするべきか。



(…………不味いわね

何も思い浮かばないわ…)



私と祐哉が死んだとして、シャオを次期当主に置いて祭や詠達が復讐や敵対等の馬鹿な行動をしない、とは言い切れない。

…否、“抑え切れない”と言うべきでしょうね。


こんな時、傍に詠達の内の誰か一人でも居てくれたら心強いのに。

心底、そう思ってしまう。


──ふと、思い出す。

そう言えば、祐哉に聞いた“天の世界”の話の一つに困った時には助けてくれる存在を指し、とある特殊な呼び方をするらしい。

以前、詠を例に取り挙げて言っていた。



(──お願い、助けてっ!

“賈駆衛門”っ!!)





──なんて事を、心の中で叫んではみたものの。

現実は変わらない訳で。

嫌な汗が止まらない。


と言うか、よくよく冷静に考えてみたら、アレよね。

抑、夏侯淵って私の顔って知ってる訳よ。

お互いに反董卓連合の時に顔を合わせてるんだから。

…話はしてないけど。


──と言う事は、よ。

夏侯淵が髪型と服装の違う程度で孫策(私)を見間違うなんて思えない。

私が彼女の立場だったら、人目で気付くでしょう。

そう考えれば、答えに至る事は然程難しくはない。



「…はぁ〜…降参よ

だから、優しくして頂戴」



私は溜め息を吐きながら、両手を布団から出して上に上げながら、抵抗の意思は無い事を宣言する。


そんな私を見て、夏侯淵は小さく笑みを浮かべた。

ちょっとした勝負なのに、互いに譲らず意地を張って続けていた所で、漸く私が負けを認めた。

そんな感じの笑みを。



「優しくしては遣りたいがして遣れるか否かは其方等次第だと言っておこう」



そう言いながら、私の座る寝台の傍まで歩み寄る。


その姿を見ていると何故か“本当に春蘭の妹なの?”とか疑ってしまう。

だって、凄く落ち着いてて知的で、礼儀正しい感じがするんだもの。

…あと、色気も有る。

多分、男性より女性の方が感じるだろう、類いの。

決して卑猥な意味ではなく美的な意味での色気。

男性でも同性に対して思う“男らしさ”の様な物。

…私も自信が無いって事は無いんだけど。

ちょっと、羨ましく思える魅力だと言える。


そんな事を考えている間に夏侯淵は寝台の傍に有った椅子へと腰を下ろした。



「さて、先ずは自分の名と自覚している罪状を自らの言葉で述べて貰おうか」


「私は孫策、字は伯符…

江南を統べる孫家の当主よ

罪状は曹魏への不法入国と雲蓋峡への不法侵入ね

…あっ、後、もしかしたら武器の不法所持も加わるのかもしれないわ

その辺りの事は私は詳しく知らないから判断するのが難しいんだけどね」



夏侯淵の問いに開き直って──と言うと、語弊が有る様な気がするけど、正直に私は答えた。




今更取り繕おうだなんて、思わないしね。

下手な嘘や誤魔化しは単に印象を悪くするだけ。

一応、真面目に答えているつもりだけど…其処は相手次第だしね。



「ふむ…成る程な…

武器の不法所持に関しては華佗に対し許可されている事も有り不問だ

刃傷沙汰を起こしたという訳でも無いしな

不法入国に関しても同様の理由で罪には問われない

だが、それとは別の問題で身分詐称の罪が有る

これは南部地域の者に対し大きな影響を与える

何しろ、南部で最大勢力の長が遣った事だからな

当面、入国は禁止されるし貿易も停止されるだろう

再開後も入国審査は今まで以上に厳しくなる

それだけの事を遣った、と自覚はしているか?」


「…っ……」



そう真っ直ぐに見詰められ問われた瞬間、私は思わず視線を外して俯いた。

逃げた訳ではない。

ただ、自分自身の軽々しい言動に対し心底呆れる。

夏侯淵の説明を聞きながら私は自分が何を遣ったのか改めて思い知らされた。

“もし、私の事がバレたら最悪の事態になる”なんて自分勝手もいい所だ。


それは自分達の事だけしか考えていない。

その“最悪の事態”は所詮“孫家の状況が”という事でしかないのだから。

他の──特に曹魏との間を往き来している商人達にはどんな影響を及ぼすのか。

その結果、南部の経済的・物流的な方面にて、どんな影響が出るのか。

全く考えていなかった。

見えていなかった。

その事を痛感させられる。


自分の首級で片付く程度の問題ではない。

曹魏の、曹家の、江南域の人々全てに対しての信頼を踏み躙ったのだから。

人々が頑張り時間を掛けて築き積み上げてきた物を、私は安易で愚かで身勝手な使命感(自己満足)によって“無価値な物に(壊して)”しまったのだから。



(…何が孫呉の王よっ!!

何が孫呉の未来よっ!!

何を勘違いしたのよっ?!

私は──いつ支配者(王)に為りたいと思ったのっ?!

違うでしょっ?!

そうじゃないでしょっ?!

私が目指したのはっ…

為りたいと思ったのはっ…

そんな私じゃないのっ…)



己に対する深い悔しさが、情けなさが、強い怒りが、滴と為って溢れ出す。

握り締めた手の甲を。

其処にある布団を。

静かに濡らしてゆく。




暫しの間、声を殺して泣き何とか気持ちが落ち着きを取り戻した。


その間、夏侯淵は全く何も言わずに其処に居た。

ただ、その視線だけは私に向けられている事を感じ、不思議と安心している事を自覚している。

なので、少々気恥ずかしく思ってしまう。

でも、そのお陰で気持ちの整理は出来た。


残っていた涙を右腕の袖で拭うと私は顔を上げる。

真っ直ぐに夏侯淵を見詰め自分の言動に対する責任の裁定を待つ。



「自分が“何を”背負い、“何の”上に立つのか…

己の言動が何れ程の影響を及ぼすのか…

その責任の重さと大きさに気付くのは、大体が過ちを犯してしまってから…

“後悔先に立たず”という格言の通りに…」



真剣な、静かな憤怒を瞳の奥に宿す眼差しが痛い。

その言葉が本当に、重い。


けれど、視線を逸らさずに全てを受け止める。

それだけが今の私に出来る事なのだから。



「奇跡に、二度目は無い」



──と、可笑しな言葉。

先程との違いに思わず私は眉根を顰めて考える。


そして──気付く。



「──っ!!」



“二度目は無い”、と。

夏侯淵は、そう言った。

では、“一度目”は?



「己が背負う責任を自覚し生涯を賭して果たしなさい──との、我等が主よりの御言葉だ

確と、受け取ってくれ」



私が理解した事を察すると夏侯淵は説教と悪戯を共に達成した様に笑った。



「…ぐすっ……ええっ!

孫伯符、確と受け取らせて頂きました!」



私は深く、深く頭を下げてその裁定を受け取る。


此方の事情を理解した上で私の軽率な言動を窘めて、改めて歩めと言う。

“器が違う”なんて簡単な言葉でしか言い表せない、自分の表現力の無さが心底もどかしく思う。

ただ、心から感謝する。

その寛大さと厳格さに。

私に本当の意味で、責任を果たさせてくれる為の時を与えてくれる事に。



「今日は六月九日だ

此処は港の有る歴陽の宿…

“月下鈴蘭草”は保存用に加工された物を既に華佗に手渡してある

早く戻って遣るといい」



そう言って微笑む夏侯淵の表情は叱り終えたばかりの母か姉の様に見えた。




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