拾伍
疾駆し、交錯する刃爪。
キュキィイッ!!、と甲高く耳障りな音を響かせる。
鏡や硝子の表面を爪を立て引っ掻いた時に似た感じ。
ゾワッ…と、鳥肌が立つ。
不快感は半端無い。
けれども、その程度の事を一々気にしている様では、この戦いは続けられない。
“紅虎”は人間の私よりも鋭い聴覚を持っていながら気にする様子は無い。
しかし、それは当然の事。
紅虎は生き物ではない。
私の懐く“力の象徴”で、裡に眠る可能性(力)その物なのだから。
如何に姿が獣のそれでも、生き物としての在り方まで踏襲してはいない。
飽く迄も、姿だけだ。
だから、止まりはしない。
最初の一撃は互いに挨拶。
“鈍ってはいないな?”と訊かれた様な一撃。
擦れ違い、振り向いた先で重なる眼差しから伝わるは“…ふん、暇潰し程度には為るかもな…”という様な不遜な態度。
まあ、今までの結果として紅虎が優勢だったのだから私の方が見下されていても仕方が無いのだけど。
腹は立つ訳で。
カチンッ、と頭に来る。
“…上等だわ!”と口角を上げながら地を蹴る。
同じ様に地を蹴って私へと突進してくる紅虎。
けれど、正面から打ち合う様な展開には為らない。
接触直前で急停止し、横に弾ける横に跳ぶ。
其処から即座に横撃。
二本足(人)には出来無い、四本脚(獣)特有の動き。
(──速いっ!)
チッ…と舌打ちしながらも右足で地を抉りながら滑り身体を左へと捻る。
左側から襲い掛かる紅虎に“南海覇王”を振り抜いて応戦し、一撃を凌ぐ。
そのまま身体を回転させ、左足を振り抜く。
──が、容易く飛び退いた紅虎に躱されてしまう。
(本当、相変わらずに──いいえ、昔以上に遣り難く為ってるわねっ!)
先程までの、“番人”との戦いとは一変。
尚更に型を持たない相手と戦う事になるので常識的な戦い方なんて通用しない。
しかも、成長しているから面倒さは増し増し。
“衰えていなさい”なんて事は言わないから、せめて以前と同じで居て欲しいんだけどね。
一応、私の力なんだから、仕方が無いんだけど。
愚痴りたくは為るのよ。
それはまあ?、私の場合は周々っていう、やんちゃな弟が居るから戯れ合ってて虎の動きは知っている。
でも、それは飽く迄も虎が“普通”の場合。
紅虎には当て填まらない。
“手探り”という意味では番人と変わらない。
“何方等が厄介か?”とか訊かれても困るわね。
何方も厄介だから。
なんて、考えながらも自ら前に出て、斬り結ぶ。
慣れる為でもある。
でも、それ以上に私自身の成長を加速させる為に。
(まだまだ雑念が多いわ!
もっと集中しなさいっ!)
自身を叱咤しながら更なる集中を促してゆく。
水滴が伝い落ちる様に。
糸を縒り紡ぐ様に。
一点に、細く、鋭く。
宛ら、自らの意識その物が刃を成す様に。
──side out。
孫権side──
戦いの最中だというのに、敵(私)を前にして、姉様は静かに目蓋を閉じた。
これが普通の戦いであれば“諦めた”と受け取って、止めを刺す所でしょう。
でも、そうではない。
直接見ていた訳ではない為飽く迄も感覚的な物だけど私の時と同種の物の筈。
それが意味する事は一つ。
(──漸く、入ったわね)
己が内界(裡)へと。
飛躍(成長)の為に己が内の“潜在する可能性(力)”と向き合う為に。
右膝を着き、踞る様な形で俯いている姉様。
そのまま俯せに倒れたって可笑しくはない姿勢。
今、この瞬間から見たなら戦いの果てに精魂尽き果て気絶、或いは絶命した、と思ってしまうかも。
それ位に微動だにしない。
勿論、よく見れば僅かだが身体は呼吸に合わせて上下しているのが判る。
その呼吸も必要最小限で、寝息よりも小さく儚い。
今直ぐにも呼吸は止まり、死んでしまいそうな印象を受けてしまう程だ。
(それでも離さないのね)
そんな状態に有りながらも右手には今も、しっかりと南海覇王が握られている。
私にとっては“このコ”が姉様にとっては南海覇王が己の力を託す存在。
己の半身であり、一部。
だからなのでしょうね。
ただ、私達の武具とは違い南海覇王は普通の逸品。
意志も真名も無い。
だから“同じ”と言う事は軽々しくは言えないけど。
それでも、微笑ましく思う私が居る事は確かね。
まあ、それも“私の為に”という理由が有るが故の事なんだけれど。
…仕方が無いわよね。
でもまあ、姉様が同じ様に“高み(此処)”に至る事は素直に嬉しく思う。
目的や利害を抜きにして。
もし、母様が生きていて、私達が更なる高みを目指し闘う姿を見たとしたら──何て思うのかしら。
(…何故か、私達の闘いに飛び込んで来て、そのまま私と姉様を倒して得意気に笑ってる母様の姿が…)
つい、額を抑えて溜め息を盛大に吐きたくなった。
勿論、“入っている”とは言っても気は抜かない。
だから遣らないけれど。
そんな光景を想像しながら“母様なら遣りそうね…”なんて思っている今の私は随分と変わったと思う。
悪い気は全くしないけど。
(にしても、無防備よね…
私の時は下地が出来ていた事も有って数秒程度だったみたいだけど…
姉様の場合、暫くは掛かる可能性が高いみたいだし…
少しの間暇に為るわね…)
…ちょっとだけ、悪戯とかしてみたくなる。
顔に落書きをしてみたり、口や鼻に何かを入れたり、南海覇王の代わりに何かを握らせてみたり…とか。
(…何気に昔、私が姉様に遣られていた事よね…
なら、遣り返したとしても因果応報よね?)
そう、割りと本気で考え、遣るか否かを真剣に悩む。
「──追い込むだけ?
それだけでいいの?」
雷華様に姉様との戦いでの“事前作業”の説明を受け思わず訊き返した。
正直に言うと、もっとこう複雑で繊細で面倒臭い様な事を想像していた。
それだけに、意外過ぎて、拍子抜けしてしまう。
…多分、今の私の表情って驚きよりも気が抜けた様な感じなんでしょうね。
何と無く想像も出来るし。
「それだけって言える程に簡単な事じゃないけどな…
孫策の場合、蓮華と違って既に過去に“入っている”経験が有るから、ある程度本人に自覚が有る
だから一旦“入って”さえしまえば後は孫策次第だ」
そう言われれば…確かに。
私自身、あの時には姉様の事を参考にした訳だし。
そういう意味では、姉様はあの時の私よりは“先”を歩いている事に為る。
…あっ、勿論、“覇者”の才器に限っての話よ。
総合力なら私が上だもの。
其処は譲れないわ。
「どういった心象風景(形)かまでは判らないが…
孫策は既に自分の中に在る可能性(力)に気付いている事は間違い無い
だが、今もまだ其処までは至っていないのも事実…
それを求める為の要因なら今まででも有っただろうが至ってはいない…
それが何を意味するのか、今の蓮華なら判るだろ?」
「……っ…」
そう言われて息を飲む。
確かに“簡単な事”だとは言えないわね。
其処まで姉様を追い込む。
つまり、単純な力不足とか不甲斐無さ、無力さとかを感じさせるだけでは駄目。
もっと根本的な部分で。
尚且つ、追い込んでから、姉様に遣る気をさせる。
させなくては為らない。
「…私一人で遣れるの?」
かなり、不安になる。
私、演技が上手いとは正直嘘でも言えないんだけど。
「この一件は、蓮華にしか出来無い事だ
俺ですら同じ事を遣っても違和感が出るだろう
だから、自信を持て
蓮華が考えて遣る事にこそ意味が有るんだからな」
そう言って微笑む雷華様の言葉に、あっさりと不安は掻き消されてしまった私は力強く返事をして頷いた。
(…あれは狡いわよね…)
今に至るまでに幾度となく有った──見てきた事。
幾多有る、その内の一つに過ぎない一場面。
それを思い出し、苦笑。
あの微笑を前にして抗える自信が私には無い。
と言うか、一旦拭われると同じ不安というのは中々に感じ難くなる。
大分経って、思い出す様に“遣られた…”と認識する程度だしね。
実際、“私には出来無い”“そんな事、無理よ”とか考えなくなるのだし。
そして何より、そんな事が幾度有っても更に惹かれて想いが強く深まる一方で、悪感情は懐かないのだから困った物だと思う。
…まあ、そう思うのも元々前提条件として“一途”な想いが有るが故の事。
逆に言えば、その程度では消えないからこそ、私達は“高み”を目指せるのだと考える事も出来るしね。
如何に一夫多妻を認めても自分の事しか考えられない関係なら破綻している。
華琳様が頂点──いいえ、中核を担うからこそ私達の関係は成り立っている。
そう言い切る事が出来る。
…でも、結局の所を言うと“雷華様だから”という事なのよね。
本当に…色々と狡い人。
──とまあ、それはそれ。
外方へと逸れていた思考を目の前の事に戻し、改めて姉様の様子を窺う。
…特に変化は無いけれど。
(…だけど、此処までは、雷華様の読み通りよね…)
とは言うものの、この策で最も難しく大きな問題点は“姉様が至れる”か。
其処が全てであり、私達の手の出せない領域。
(私なりに考えて、姉様に最も効果的な遣り方をして追い込んだんだけど…
後は姉様次第だしねぇ…)
戦闘という面に関しては、私は姉様には天賦が有ると自信を持って言える。
但し、その自信は飽く迄も“他者”を相手にして、と付け足す事になる。
正直、姉様は怠け癖だとか面倒臭がりな所が有るので“自分に甘い”と解釈する事も出来てしまう。
そう考えると至れるか否か不安になってしまう。
──ただ、それでも。
私も姉様も、憧憬(母様)に対して懐く執着心(想い)は決して弱くはない。
それこそ、己が最愛の人を除いて考えたなら、一番に上げられる存在でしょう。
だから、信じてもいる。
姉様は至ってくれる、と。
(虫のいい話だけど…)
其処はほら、やはり私達は“姉妹だから”…ね。
何だかんだと言っていても母様という壁(存在)に対し複雑な感情を懐くが故。
その苦悩(絆)もまた、姉妹としての物でしょうね。
──side out
孫策side──
(──くしゅんっ!)
何故だが急に、無性に鼻がムズムズしてしまう。
此処で、嚔なんてした事は一度も無いんだけど。
…何だったのかしらね。
まあ、今はそんな事を一々気にしていられないけど。
手近な木の幹に背を預け、肩で息をしながら身を隠し紅虎の様子を窺う。
嚔をした所為で見付かった可能性は高いが…今の所、此方に気付いた様子は無く安堵して、一息吐く。
(此処だと時間の感覚って無茶苦茶になるのよね…)
紅虎との戦いを始めてから彼是二刻は経っている筈。
飽く迄も此方で、の話。
現実では判らない。
現実ではない為、肉体的な疲労は無い筈なんだけど、疲労感は拭えない。
これが精神的な疲弊なのかどうかは兎も角として。
決して疲れ知らずではないという事が重要。
(…やっぱり、結局はこう為るのよね〜…)
曾て戦った時にも今と同じ状態に為っていた。
真っ向から勝負して勝ち、捩じ伏せ様と戦った。
けど、有効打は有っても、決定打は入らない。
正攻法から、隙を窺い合う“狩り”へと移行。
誘い、騙し、欺き、嵌め、誘われ、騙され、欺かれ、嵌められ合って。
次第に疲労感が蓄積し──最終的に気が付いた時には私は現実へと戻っていた。
勝負は付かないままでも、結果としては負けたも同然だと言えた。
それが今までの結果。
(けど、今回だけは絶対に勝たないといけないの…
だから、何が何でも貴方を倒させて貰うわよ)
その為にも、改めて情報を整理しようと思う。
勝機を見出だす為に。
紅虎の戦い方は、ある意味私と同じだと言える。
私が真っ向勝負をすれば、紅虎も真っ向勝負を。
狩りにすれば狩りを。
それは鏡に映す様に。
此方に合わせてくる。
其処を利用したいのだけど手強くて出来無い。
まるで、母様を相手にして戦っている時みたいに。




