玖
──が、ふと感じる。
“何か”が、可笑しい。
そう感じはするのだけれどはっきりとは判らない。
(って言うか、そんな事を気にしてられないのよ!)
気には為っても、十分には思考を傾けられない。
そんな余裕は無いから。
そんな状態の私とは逆に、当の“番人”の方は十分な余裕を感じさせる着地。
悠然と佇みながら、此方を静かに見詰めてくる。
軽く振った槍も、気付けば元の持ち方に戻っている。
これと言える程に視界から外してはいないのに。
何時遣ったのかが判らないというのは心に否応無しに恐怖を生む。
それに呑まれない様にするだけでも無駄に疲弊する。
じり貧、と言えば判り易いのかもしれない。
攻めている様で居て実際は後手後手に為っている。
(…まるで、奴の掌の上で弄ばれてるみたいだわ…)
客観的に観ていたとしても同じ感想を懐く気がする。
それ位に圧倒されている。
でも、そうだからと言って退く事は出来無い。
どんな結果に為ってもだ。
「…貴方、強いわね?
そんなに強いのに、こんな場所で何をしているの?
此処の“外”に出ようとは思わないのかしら?」
不意に話し掛けてみる。
別に時間稼ぎではない。
そんな必要は無い。
寧ろ、可能な限り短時間で決着を着けたいのだし。
情報収集という意味でなら否定は出来無いけど。
一応、考えが有っての事。
確かに衣装は奇抜なのだが見た目には人と同じ身体の造りをしている感じ。
頭の狼耳が本物かどうかは定かではないのだけれど、それを除いても私達の姿と共通する点は多い。
と言うか、余計な物を剥ぎ見えない部分を想像により補えば、人にしか見えない気がする。
とすれば、目の前の存在は意志疎通が可能な筈。
話し合いが可能で有るなら戦いは避けたい。
上手く事が運べば、戦わず番人に道を開けて貰える。
この際、槍に関しては今は保留しても構わない。
制限時間の有る祐哉の事を優先すべきだから。
──しかし、相手の方から反応は返って来ない。
話は通じていると思うけど耳を貸す意志が無いのか、或いは、興味が無いのか。
…どうやら話し合いという解決は無理みたいね。
(…まぁ、そうよね〜…
最初に“話し合いを”って言っていたんだったら話は別なんだろうけど…
分が悪く為ったから戦わず話し合いで、なんて真似をされても聞けないわよね…
私だったら、腹を立ててる所でしょうからね〜…)
身勝手過ぎる提案。
そんな巫山戯た真似に対し聞く耳は持てない。
と言うか、意地でも聞いて遣らないわね、私なら。
その上で、どうするか。
この状況で考えられるのは“望むなら、力を示せ”が妥当な所でしょうね。
そう考えると一つ息を吐き南海覇王を構える。
“自分が勝つ姿”は想像が出来無いまま。
打開策も、その切っ掛けも見出だせないまま。
再び、戦いが始まる。
ただ、二度三度と同じ様に自分から仕掛けて行って、遣り返されてしまうと私も流石に慎重に為る。
あまり望ましい傾向でない事は否めないが、現状では仕方が無いとも思える。
(…と言うか、今更だけど一番最初の一撃以外は全部此方からの仕掛けよね…)
それでさえ、飽く迄も私の視点から考えての事。
私の方からしてみれば森を抜けた直後の不意打ち。
でも、彼方にしてみたら、森を駆け抜けてくる侵入者でしょうからね。
迎撃・撃退しようとしても不思議ではない。
寧ろ、当然の行動。
(……もしかして、下手に攻撃しようとしなかったら見逃して貰えるとか?)
何気無い思い付き。
しかし、試すだけの価値は有るのかもしれない。
もし、上手く行けば番人と戦わずに薬草を採取出来る可能性が高い訳だし。
失敗をしても今より状況が悪化するとは思えないし。
うん、遣ってみましょう。
身体を解す様に動かしつつ間合いを変える様に前後し左右にも移動する。
その中で、チラッ…と目を周囲へと向ける。
自分の今居る位置は勿論、薬草の有る場所も戦う中で完全に見失ってしまった為確認しないといけない。
あの薬草が生えているのが見えた場所は私の位置から左斜め後ろの崖の上。
崖の高さは縦に大人の男性五人分程って所ね。
普通の状況であれば私なら余裕で駆け上がれる高さ。
でも、残念な事に岩場だし上の方が張り出ているから登るのは無理みたいね。
となると、迂回して何処か登れる場所から上に行って採取するしかない。
その場所は──皮肉な事に番人の背後に為る。
(此処って崖で仕切られた広場だった訳ね…)
先程自分が抜けて来た森が有る方向を除いて、周囲の四分の三が崖という地形。
もし、森の中で猪なんかを見付けて此処に追い込めば逃がさずに仕留め易く為る事は安易に想像出来る。
──と、考えた所で自分が追い込まれた獲物の立場の光景が脳裏に浮かぶ。
(……まさか、ねぇ…)
静かに冷たい汗が頬を伝い顎へと流れる。
其処から滴り落ちた一滴が服に落ちて、染み込む。
見ていた訳ではない。
しかし、高まった集中力と研ぎ澄まされた感覚の為、それを感じ取れる。
その為、無意識に緊張感を高めて身体が強張る。
特に追い立てられて此処に誘導された訳ではない。
しかし、もし“雲蓋峡”に踏み入った事を認識され、ずっと観察されていた後に“匂い”を使って此方へと誘い込まれていたとしたら──という様な事を思わず考えてしまった。
それは飽く迄も可能性。
根拠も証拠も無い憶測。
被害妄想だとすら言える。
だが、嫌な想像というのは無闇矢鱈に不安を煽る。
本人の意思に関わらず。
出来る事なら、思いっ切り頭を振って今の思考を消し去りたいと思う。
流石にそんな無防備な事は出来無いけど。
左手をグゥッ…と握り締め爪が掌を傷付けない位までギリギリに強くする。
その痛みで無理矢理頭から余計な思考を追い出す。
そうして改めて、試そうと考えていた策を思い浮かべ手順を確認していく。
基本的に無理はしない。
駄目そうなら直ぐに止めて距離を取り、体勢を整えて別の方法を模索する。
そう自分に言い聞かせると小さく息を吸い込む。
「──疾っ!」
力強く地面を蹴って番人に向かって真っ直ぐ駆け出す──振りをして、左後ろに向かって軽く跳ぶ。
番人が本の僅かにだけど、腰を落としていたのが今は見えた。
それは上手く“立ち向かう様に見せる事が出来た”と言えるでしょう。
ちょっとだけ、嬉しい。
しかし、そんな感動も今は楽しむ余裕は無い。
薬草の有る場所に向かって真っ直ぐに走る。
此方の目的に気付いた様で背後から迫る気配を感じて一瞬だけ振り返る。
右肩越しに見えた姿からは“逃がすか!”という様な気迫と怒気を感じる。
もし、騙された事に対して怒っているのだとすれば、感情は有る事になる。
まあ、普通の動物にだって感情は有る訳なんだから、特に可笑しくはない。
それでも、そういう感じで怒ってくれたのであれば、此方としては十分。
作戦の第一段階は成功。
しっかりと、前方の足場を確認しておく。
反り立った崖を目前にして右足を爪先を内側に向けて真横にして踏み切りながら前へと跳ぶ。
同時に身体を捻って、丁度私を追って迫って来ている番人に向き合う様に真逆の体勢を取る。
(──本当に速いわね!)
槍こそ突き出されていない状態では有るけど、彼我の距離は片腕と槍との長さの合計の本の僅かに外という所にまで迫っている。
当然、自分が着地をした、その時点で間合いに入る。
宙の私と、地上の番人では移動速度の差は走るよりも大きく為るのだから。
絶体絶命だと言えた。
しかし、だからこそ。
其処に活路が生じる。
私は予め見定めていた場所──崖の岩肌の一角。
一番平たくて、しっかりと踏み“蹴れる”場所に対し着地をする。
宛ら幹から伸びた枝の様に番人の姿を見下ろす。
崖の上の方は張り出ているのだけれど、崖全体は弧を描く様な感じで中程が凹み上下が突き出る弓形に反る形をしている。
それを、利用する。
足を滑らせないギリギリの所まで膝を曲げて、両足で地面を蹴って、跳ぶ。
「──っ!?」
先程私を飛び越えて行った番人に遣り返す様に、私は番人の頭上を飛び越える。
多少なりとも余裕が出来たからなんだと思う。
番人が私に驚いているのを感じ取れた。
擦れ違う様に入れ替わる。
頭から地面に突っ込む様に飛び込んで左手を付く。
肘と肩を使って衝撃を受け流して、ぐるっと前転。
左足の裏が接地すると直ぐ回った勢いのままに立って一目散に駆け出す。
三手四手と画策出来る程に私は器用ではない。
それでも、一手二手位なら何とか出来る。
少しでも態とらしさが有る演技は通用しない。
抑、そんなに巧い演技とか出来る気がしない。
でも、“本気で遣る”事にだけは自信が有る。
そういう質だからこそね。
それを番人が知っている筈なんてない。
仮に知っていたとしても、私は引っ掛けられる自信が持てるんだけど。
何しろ、既に今回の一件で要心深い詠を引っ掛けて、此処に居るのだから。
故に、自信が有った。
──ただ、それでも、だ。
此処までに見た相手の姿を考慮すれば、このまま先に無警戒に進むのは危うい事であると容易く判る。
だから、振り返った。
「──反則でしょっ!?」
思わず、そう叫んでしまう私は可笑しくはない。
そんな光景を目にする。
だって、あの弧を描く崖を半分以上駆け上がった上で此方に向かって跳んで来るといった曲芸の様な真似を目の当たりにしては誰でも同じ事を思う筈。
叫ぶか否かは別としても。
…まあ、可能不可能の話をするのであれば、私だって出来無くはない。
全力で向かって勢いのまま登れば出来るとは思う。
但し、何度も練習をして、感覚を掴んでから、何度か挑戦をすれば、だけど。
一発勝負では判らない。
多分、一か八かの賭けね。
それは兎も角として。
やはり、戦わずに逃げ切る事は不可能だと判断。
作戦を中止し、応戦に対し意識と思考を切り替える。
未練がましく粘っていると状況を悪化させるだけ。
今は諦める事も大事。
左足を地面に滑らせながら減速し、方向転換。
右でも左でも前でもない。
番人が居る真後ろに向かい地面を蹴って走る。
出来る限り身体を低くして番人の下を掻い潜る様に。
「──くっ…」
それでも無理だと感じ取り右足で地面を蹴って右斜め前へと飛び込んだ。
チヒュッ!、と布の表面が擦れる様な音が鳴る。
左足の脹ら脛の裏。
其処の布地を触れた槍刃の鋒が引っ掛け、切り裂く。
あまりにも軽い音に対して結果は冷や汗物。
もう少し左足が高かったら切り裂かれていた。
それが判ったから。
でも、距離は開けない。
起き上がると同時に直ぐに着地したばかりの番人へと向かって突進。
力量差は痛感している。
それでも、私に勝機が有るとすれば、相手の間合いの内側になる。
槍より内側で、腕脚よりも外側という狭い範囲。
其処で勝負するしかない。
着地の衝撃が往なし切れず足を痛めたか痺れさせたか番人は屈んだまま。
誘いかもしれない。
それでも、背後からだ。
十全には対応出来無い筈。
槍は右手、順手のまま。
構えてもいない。
振り抜くなら右回り。
左回りは突きになるけど、直線とは違い威力も精度も落ちてしまう。
狙うなら、防御にも出来る右斬上げ。
勢いを殺さず、恐れずに、真っ直ぐに駆ける。
此方の間合いの一歩、外。
其処まで来て漸く、番人の身体が動いた。
(──遅いわっ!)
防御は不可能。
回避される可能性は有るが十分に追撃が可能。
主導権を取れる。
私は南海覇王を躊躇せずに全力で振り抜く。
「────っ!?」
しかし、次の瞬間だ。
振り抜いた南海覇王に──右腕に走った衝撃。
刃の軌道は狙いから外れ、上に向かって伸びた。
何が起きたのか。
全く理解が出来無い。
思考が追い付かない。
致命的な隙が生じる。
その時だった。
再び、自分の意思に反して身体が反応したのは。




