漆
予期せぬ驚愕に、真っ白に為った思考。
しかし、目の前に存在する明確な目標に、欲求に。
私の本能は即座に昂る。
右手を伸ばし、腰に佩いた“南海覇王”の柄を握り、一切の力み無く抜き放つ。
シャリンッ…と静かに刃は澄んだ音を鳴らす。
その切っ先を向けるのは、今私が倒すべき存在。
「貴方が何者か知らないし判らないけど…
私にも譲れない物が有るの
だから、貴方を倒して私は手に入れさせて貰うわ」
そう宣言すると、目の前の番人は右手に持った母様の愛槍を軽やかに操りながら左足を引いて、構えた。
たったそれだけの事。
それなのに、私の“勘”が激しく警鐘を鳴らす。
思考するよりも先に首筋を冷たい汗が伝い流れる。
(…まさか、臆してる?)
つい先程まで勝ち気だった筈の自分の意識が一転して怖じ気付いていた。
はっきりと力量は判らないけれど強敵な事は確か。
簡単に勝てるだなんて事は全然考えていない。
油断せず、慢心せず、私は臨戦態勢に入っていた。
──にも関わらず、身体は彼我の差を感じていた。
感じて──怯えたのだ。
「……っ…」
その事実を理解した瞬間、奥歯を強く噛み締めた。
ギリッ…と鈍い音を奥歯が立てたかもしれない。
しかし、それ以上に胸中で上がる闘志の雄叫びが私の意識を染めていた。
──巫山戯るなっ!!
その一心が、私を動かす。
元々、私は負けず嫌いだ。
時々遊ぶ街の子供達が相手であろうとも、私は本気で勝ちに行く。
流石に全力で、という様な真似はしないけど。
本気で、向き合っている。
それ位に、負けず嫌い。
だからこそ、赦せない。
刃を交える事すら無いまま怯えて屈する事なんて。
赦せる訳が無かった。
より強く右手は南海覇王の柄を握り締める。
右足を浮かせ左足に体重を残しながら、前へと身体を傾けてゆく。
小さく短く息を吸い込むと怯んだ自分を捨て去る様に大きく声を張り、叫ぶ。
「──哈あぁあぁぁっ!!」
気合いの籠った咆哮と共に右足を踏み込み、駆ける。
左手を柄に添え、繰り出す一撃は最短・最速の突き。
槍を相手に突進するなんて無謀な事だ、と考えるのが普通なんだとは思う。
しかし、槍等の長い得物を扱う場合に最も気を付ける事は相手に“内側”に入り込まれない様にする事。
その距離(間合い)を活かす事が最大の利点である以上失わない様にして戦う事は当然だと言える。
剣を扱う相手は大体内側を狙ってくる。
そうさせない様に間合いを取って、距離を開ける事が槍等を使う者の主戦法。
対する剣を使う者の場合は如何に崩したり捌く等して内側に入り込むかが勝負。
故に珍しくは無い展開。
しかし、それ故に読み合い誘い合い、駆け引きの多い勝負だとも言える。
だからこそ、奥も深い。
まだ何の情報も無い以上、この先の展開は不明。
故に、先手必勝の可能性も十分に考えられる。
選択としては可笑しくない事だと言える。
──普通であれば、だ。
「──っ!?」
一歩、たった一歩だ。
踏み込み、左足が地面へと着くよりも先に。
悪寒が全身を走り抜ける。
左足の踵を杭の様に地面に打ち込んで、強引に自分の勢いを殺ぐ。
それでも僅かに前に流れる身体は仕方が無い。
仕方無いが──そのままにしていてはならない。
体重を左足に掛けると共に膝を折って意図的に体勢を崩す事で、身体を無理矢理後方へと傾ける。
足を滑らせて仰け反る様な格好に為った私の鼻先を、掠める様に風が駆ける。
それを感じた瞬間に右足を大きく振り上げ、後方へと宙返りをする様に跳ぶ。
とは言え、無理な体勢から強引過ぎる行動。
決して、華麗な物ではなく第三者(観衆)が居たならば“不様だな”と言われても可笑しくはない。
そんな見栄も外聞も捨てた回避行動だった。
回転して見えた地面は顔の直ぐ近くだった。
窮屈だと感じる程、身体を小さく折り畳んで無理矢理着地に持っていく。
正直、自分の胸の大きさを“あーもうっ、邪魔っ!”なんて考えたのは、今日が初めてだったりする。
…因みに、私は祐哉よりも身体が固かった。
今は負けず嫌いか事も有り多少増しに為ったけど。
祐哉に習った“柔軟体操”の成果だと言える。
それが無かったら、今ので私は終わっていた。
(祐哉、ありがとねっ!)
胸中で祐哉に感謝しつつ、着地した右足を屈伸させて更に後方へと低く跳ぶ。
同時に回転した勢いのまま右手を振り抜き南海覇王を下から上へと閃かす。
ガキィンッ!、と音が響き衝撃が右手を襲う。
「──っ…」
左から右へ向け突き抜ける衝撃に、南海覇王を持った右腕だけではなく、身体も持っていかれる。
空中だから踏み堪える様な真似は出来無い。
力強くで抗う事は出来るが遣った場合には右腕の負う負担は小さくない。
下手をすれば、脱臼だって有り得るでしょう。
それを感じたからこそ私の身体は無理には逆らう事はしないで、その衝撃に身を任せる形で受け流す。
当然、無抵抗な為に身体は右側へと回転する。
ただ幸いな事に低く跳んだ回避行動だった為、直ぐに地面に南海覇王が食い込み回転は止まる。
しかし、後方へと向かって流れる身体は止まらない。
このままでは結局は右腕を痛めてしまう。
そう判断すると南海覇王を握る右手の力を緩める。
ギリギリ、指先だけが柄に掛かった状態まで。
すると柄を軸にして身体は独楽の様に回る。
丁度、腹這いになる姿勢で左足を地面に接地。
左の靴の裏を滑らせながら指先に力を入れ南海覇王を手元へと引き寄せた。
その次の瞬間。
顔を上げた視界に飛び込む迫り来る番人の姿が有る。
(早過ぎるでしょっ!?)
此方から仕掛けた筈なのに気付けば後手に回っているという状況に思わず愚痴を溢したくなってしまう。
初手に関しては予想出来る事だっただけに私としても然程驚く展開ではない。
その一撃の鋭さに関しては素直に驚かされたけど。
しかし、次の後退した所へ追撃をされた展開には私も戸惑いを隠せない。
これは、槍を使う者同士の戦いとは違う。
距離を──間合いを詰めるという事は、槍を使う上の利点を自ら放棄するという事でも有る。
前に出て躱された場合には受け身で躱された状態での一歩とは全く違う。
その一歩は数歩分にも及ぶ意味が有るのだから。
自ら前に出るという事は、相手との力量差が無ければ先ず遣らない。
という事は、だ。
番人(相手)にとっては私はそれが出来る、という事。
その事実に怒りを覚える。
しかし、此処で怒りに任せ前に出ようとは思わない。
確かに悔しくは有る。
だが、現状を見る限りでは私の方が劣勢ではある。
此処で冷静さを失っては、出来る事も出来無くなる。
それは避けなくては。
(──って、思うんだけど敢えて私は前に出るっ!)
体勢が不十分だから勢いを付ける事は出来無い。
それでも構わない。
今、必要なのは早さよりも一撃に打ち負けない事。
一撃を受けて、堪えてから懐へと飛び込む。
その為に、前に出る。
二度の横薙ぎ。
三度目も、構えはから見て恐らくは同じ右薙。
同じ、とは言っても前回の二度は見えてはいない。
結果として、右薙だったと感じたに過ぎない。
つまり、これが初見。
初見で見切り、凌ぐ。
かなり無茶な事をしようとしているのは判る。
格下が相手ならば兎も角、最低でも同等以上の力量を持っているのだから。
普通なら無謀と言える。
それでも、無理な事だとは言っていられない。
遣らなくては、倒す事など出来無いのだから。
言い訳をしている余裕など私には無い。
奇抜な──と言うか、目を引かれてしまう格好だから意識と視線が其方らに行く事は仕方が無いと思う。
“そんな格好で動ける?”なんて疑問を懐いたりする事も可笑しくはない。
でも、今は槍だけに意識を集中させて動きを追う。
片手で握った槍は右後ろ。
普通、槍での右薙ぎの際は左手を添えて、身体を捻り振り抜く物。
片手で、なんていう動きは突きをしたり、牽制をする際に見る程度。
先ず、見る物ではない。
それだけに驚かされる。
もしも、あの衝撃を感じた一撃も同じ様に、片手から繰り出された物だとすれば力技では勝ち目は無い。
多分、一撃の重さで言えば宅の中で一番の膂力を誇る季衣を上回るでしょう。
早さも、同等以上。
となれば、私に有る勝てる可能性は手数か、奇策。
しかし、その何方らも今は難しいと言える。
但し、命懸けで見切るなら可能性は有るでしょう。
だから、それに掛ける。
(目を離しては駄目!
一瞬でも動きを見失えば、其処で遣られてしまう!)
普段なら眼が乾いて痛くて涙が出てしまう。
それ位に槍を凝視し一瞬も見逃さない様に集中する。
私の“勘”も警鐘を鳴らし“注意を怠るな”と頻りに訴え掛けてくる。
それに応える様に集中力を更に高めていく。
一瞬の判断の遅れが致命的だと言えるのだから。
──と、違和感を感じる。
視界はしっかりと槍を捉え見失なってはいない。
それなのに、私の“勘”は“何か”が可笑しいのだと訴えている。
(…一体、何が──っ!?)
集中する視界の中、自分の違和感の正体に気付く。
私は何時から“槍だけ”を見ていたのか。
槍の動きにばかり、意識が向いていて状況を把握する事が疎かになっていた。
自分が前に出ている上に、相手は向かって来ている。
彼我の距離が縮まり、接近速度を失念していた。
…否、そうさせられた事を即座に理解する。
何故なら、槍だけに意識が向く様に態と片手で持ち、注意を引いていた。
槍を使う者は間合いを取り戦うのが当然。
その私の思考を囮に使った巧妙な誘導。
その上での、最短距離での接近である。
完全にして遣られた。
「────」
気付いた時には手遅れ。
回避不可能な状態からの、腹部への擦れ違い様に入る右膝が呼吸を奪う。
僅かな声を漏らす事さえも出来ずに、私は後ろ向きに蹴り飛ばされる。
その最中、私の意識は薄れ視界は焦点を結べなくなり霞んでいった。
だが、皮肉と言うべきか、薄れた意識が背中を襲った衝撃で、はっきりとする。
「──ぁか、ぁっ…」
肺に詰まっていた空気が、その衝撃で漏れ出す。
失っていた呼吸が戻る。
しかし、一瞬とは言っても意識を刈り取られた。
その影響は小さくない。
背中越しに感じる硬さから木の幹に打付かったのだと察する事は出来る。
その幹に背を預ける格好で寄り掛かりながら、何とか倒れない様にと堪える。
けれど、思う程に足に力が入らずに幹を伝う様にして身体は擦り落ちてゆく。
それでも、座り込むまでは行かなかった。
どうにか、踏み止まる。
乱れた呼吸を整えながら、僅かに安堵する。
(…ぐっ…ギリギリね…)
考えての事ではなかった。
咄嗟に反応した右手。
持っていた南海覇王を離し相手の右膝を本の少しだけ横に逸らす事が出来た。
それが無かったら、右膝は私の鳩尾を確実に穿った。
その時点は、意識は完全に刈り取られていた筈。
幹に打付かった程度では、目覚めない位に。
視線の先には、悠然と佇む番人の姿が有る。
その番人と私との丁度間に南海覇王が落ちている。
どういう感じになったのかはっきりとは判らない。
しかし、立ち向かう為には途中まで私は無手のままで突っ込まなくてはならないというのが現実。
普通に考えれば番人の方が仕掛けてくれば終わり。
私が南海覇王を拾い上げる位置に辿り着くよりも早く私に接近し、その槍を以て私の命を奪える。
それは間違い無い。
(…でも、だからと言って此処で引き下がるなんて、出来る訳が無いわよ!)
どの道、此処で勝てないと薬草も槍も手に入れる事は出来無いのだから。
何が何でも倒さなくては。
それ以外の選択肢は無い。
小さく息を飲むと歯を食い縛り、左手を背後に回して幹を押さえて身体を前へと押し出す様に立ち上がる。
臆して逃げてしまう事。
それは死んでしまうよりも今の私には恐怖となる。
故に、前へ。




