陸
鬱蒼と繁茂する草木。
気を抜いた服装で入れば、あっと言う間に肌は切り傷だらけに為ってしまう。
それ位に密集した中を進む事を余儀無くされている。
水辺──小川を辿って進み遡るのだから、言う程には草木は無いのでは?
そう思うのなら、この場に来て見なさいと言いたい。
正直、私も華佗から聞いた話なんかと外からの印象で楽観視していた。
最悪、小川の中を進めばと考えていたしね。
でも実際には、この小川が予想以上だったのよ。
川幅は五尺程で、子供でも勢いを付ければ結構簡単に飛び越えられる感じよ。
勿論、可否に個人差は有るでしょうけど。
問題は、その深さ。
パッと見だと浅そうだけど一応念の為に小川の深さを確認しようと思って近くに落ちていた私の背丈と同じ位の枯れた竹が有ったから突っ込んで見たんだけど…
これがまあ、見事に小川に飲み込まれちゃってね。
其処に着いた時は水面から私の握っている部分だけがギリギリ出ていた。
しかも、右手の半分程しか握れていない状態でね。
流れも緩くはないし。
ええ、それはもう小川案はすっぱりと諦めたわ。
そんな感じで進んで行く。
門扉から暫くは普通の山と変わらない感じだった。
とは言え、里山とは違って人の手など殆んど入ってはいないのだろう。
人間という種が介在しない原初(正しく自然)と言える世界が此処には有る。
人間の身勝手な都合により変えられてはいない。
真に、有りの侭の自然が。
この地には残っている。
(…“残っている”なんて考えちゃう時点で、如何に人間(私達)が傲慢なのかを認めちゃってる訳だけど…
仕方が無いわよねぇ…)
触れれば触れる程に。
知れば知る程に。
曹魏の掲げる思想と理念が徹底されている事に気付き自分達の掲げる物が如何に陳腐なのかを痛感する。
勿論、曹魏は私達の思想や理念を否定はしない。
他所は他所は、宅は宅。
ただそれだけの話なだけ。
だからこそ、凄いと思う。
貫き続ける為に。
曹魏は臣民が一丸と為って国を成しているのだから。
それは正に理想の体現。
決して、他国では不可能な真の理想国家でしょう。
「──って、ダメダメ!
そういう事を考えてちゃあ自分を貫けないわよ!
しっかりしなさい、私!」
バチバチンッ!、と両手で二度頬を叩いて頭から今は必要の無い弱音を追い出し意識を切り替える。
彼是考えてしまう状況下に居る事は確かなんだけど、考え過ぎた結果、自分から動けなくなるのは駄目。
それは有っては為らない。
絶対、何が有っても。
そうでなければ、今までの自分達の足跡(歩み)も。
数多の犠牲(痛み)も。
全てが無駄に、無意味に、無価値に為ってしまう。
それだけは、受け入れる事なんて出来無い。
気合いを入れ直し、前へと足を踏み出して行く。
今はたた、前へ。
祐哉を助ける為に、前へ。
それだけを考える。
門扉を越えてから、随分と時間が経っている筈。
緩やかだった傾斜は疾うに険しい岩場へと変化。
垂直とまではいかないが、かなりの急な角度の付いた岩壁を登りもした。
まあ、滝の横をって訳。
幸いにも高さが大人三人分程度だったから良かったんだけどね〜。
「…にしても、此処ってば本当に聞いてた通りね…」
額から顎先へと伝い、流れ落ちる汗を右腕の袖で拭い一息吐きながら、小休止。
身体を伸ばし、軽く解して乱れた呼吸を整える。
それから手近な岩に座って腰から下げていた竹筒──水筒を取って、栓を抜いてゆっくりと飲む。
暑いから、喉が渇いたからと言って急に冷たい水等を飲むのは身体に悪い。
そう祐哉に言われている。
ただ、温い水は傷み易くてお腹を壊したりする要因に為る事も多いらしい。
そういう意味では、今回は常に新鮮な水が補充出来るという点では快適。
逆に、ちょっと寒いとさえ感じてしまう。
尤も、草木への対策として厚手の服装をしているから動いて火照っている身体に丁度良い感じなのが実際の所だったりするけど。
それは兎も角として。
自分が登って来た方向へと視線を向ける。
山登りや山遊びの経験なら昔から結構遣っているので少なくはない。
そういう意味では疲労的な面では心身共に大丈夫。
しかし、今までに経験した事が無い状況なのは確か。
「…見事に真っ白ね」
本来ならば今、東武の街が眼下に広がっている光景が視界に映る筈。
或いは、あの広大な農耕地なのかもしれない。
けれど、現実には映るのは真っ白な濃霧。
以前──と言うか幼少時に母様に連れて言って貰って見た“雲海”の中を進んだ時の感じに似ている。
「“雲の天蓋冠す峡”か…
名前の通りって事ね…」
曰く、雲蓋峡は白の秘境。
何人も景色を見る事敵わず迷い惑いて、死へと伏す。
まあ、こんなに視界状況が悪いと足を踏み外したり、道にも迷うわよね。
私の場合は、最初から小川という道標が有るからこそ大丈夫なだけで。
そうじゃなかったら迷える自信が有るわね。
方向感覚なんて、大自然の迷宮の前では役に立たないでしょうから。
静かに頭上を仰ぐ。
時間は…私の感覚通りなら中天に差し掛かる辺り。
つまり本来であれば頭上に日輪が輝いている筈。
如何に濃霧とは言っても、早朝の一時だけの事。
実際に、雲蓋峡の門扉等の様子を見ていた時に自分で確認している。
また、外からは高く聳える山並みを見る事も出来た。
──にも関わらず、現実はこういう状況。
訳が解らないわよ。
まるで人間が踏み入る事を拒んでいるかの様に。
そう言われた事が正しいと思えてしまう。
休憩を終え、歩き出す。
これまでの結果を言うと、水辺で開けた場所、自体が殆んど無かった。
岩場は条件を満たしている場所だとは言えたのだけど“月下鈴蘭草”の姿は全く見当たらなかった。
正直、今の遣り方のままで見付かるのか。
そんな不安が胸中に蠢く。
いっそ、水辺から離れて、森の中に入るべきか。
そう思わなくもない。
しかし、そうしてしまえば帰り道が判らなくなる。
下ればいいのは確かだけど何処に出るのか判らない。
それはつまり間に合わない事にも繋がる。
だから水辺から離れる事を私は決断出来無い。
勿論、このまま進んだ先に必ず有るという様な保証も確信も無い。
本当に難しく、悩ましい。
そんな弱気を追い出す様に小さく溜め息を吐く。
「──ん?」
その時だった。
鼻腔を擽った“違和感”に意識が向いたのは。
水辺というのは大体匂いの類いは薄れてしまう。
水自体が臭っているのか、魚介類、或いは水を飲みに来た動物の死骸等が腐乱し腐敗臭を放っていない限り特に匂いはしない。
果実等の可能性も有る。
ただ、水の流れが緩やかで“溜まり”みたいな場所が出来ていないと臭わない、という事も有る。
少なくとも、下流の小川が澄んでいる事から水の流れ自体では無いでしょう。
となれば、陸地の可能性が濃厚だと言える。
「…これ、何かしら?」
加えて、この匂いは腐敗臭の類いではない。
仄かに甘い感じの匂い。
一番近いのは…桃かしら。
でも、桃の匂いよりも淡く“青っぽい”気がする。
という事は、果実類よりも草花の類いかも。
(…どうしようかしら…)
何と無く、気になる。
いつもなら“勘”を信じて向かってみる所。
けれど、此処で道を外れ、森に分け入れば方向感覚は略確実に無くなる。
せめて、頭上が晴れてさえいたなら違うのだけど。
無い物強請りでしょうね。
そして、感じている。
“この選択(此処)”が事の全てを決めるだろうと。
必要なのは私の覚悟だけ。
立ち止まらず、引き返さず只管に前に進み続ける。
傷付く事を、失敗する事を決して怖れてはならない。
その覚悟が有るなら答えは一つしかなかった。
「…見た事の無い花ね」
匂いを辿り行き着いた先に広がっていたのは薄桃色の花が一面に咲いた光景。
と言っても、規模は然程に大きくはない。
普通の寝台の大きさで大体五つ分程かしら。
安い宿の簡素な四人部屋と大差無い位ね。
それでも、目を引く理由は周囲を背が高い木々が覆い暗くなっている為。
闇夜とは言わないけれど、視界は良いとは言えない。
そんな中、繁茂する枝葉の隙間から溢れ射す日の光が花々を妖しく照らす。
まるで、此の世の存在ではないかの様にも思える。
草花では有るのだけれど、パッと見の印象は桜。
実際には花弁の形や枚数は全然違うんだけど。
こう…ぶわっ!って感じで集まってる見た目がね。
群生しているからなんだと思うんだけど。
「…でも、残念ね
もしこれが、私の探してる薬草だったら物凄く素直に喜べたのに…」
この光景自体は、見られて嬉しいと思うのだけど。
“あ〜ぁ…”と残念無念な気持ちを吐き出しながら、軽く天を仰いだ。
その途中の事だった。
木々の枝葉の隙間の先に、崖に為っている場所が本の僅かにだけ見えた。
その崖に、咲いている花を私の双眸が捉える。
「月下鈴蘭草は名前の通り鈴蘭と似た姿形をしている草花らしい
ただ、その花は寒空の月を思わせる様な透明感の有る青をしているそうだ
あまり類を見ない姿だけに一目で判ると思う」
そう言っていた華佗の声が脳裏に思い浮かんでいた。
視界の中に有る、青。
小さな粒の様に見える花が緩やかな曲線を描いた茎に沿う様に並んでいる。
それは特徴が一致する。
私が今、残酷過ぎる幻でも見ていない限りは。
それに間違い無い。
「──っ!」
気付いた時には既に身体は走り出していた。
隙間から見えた崖に向かい鬱蒼と繁茂する草木を掻き分けて道無き道を進む。
寄り道?、回り道?、何を悠長な事を言っているの。
真っ直ぐに突き進む。
それが最短であり、最速。
他の選択肢なんて不要。
もう、目的の物は目の前に存在しているのだから。
深緑の水面を掻き分けて、私は泳ぐ様に前に進む。
そして、視界の先が白むと大きく開けた岩場と斜面が目の前に広がった。
無我夢中で突き進んだ先に崖に近い程に急斜面な岩壁が待ち受けていた。
でも、その頂きには確かに求めている月下鈴蘭草が、十数本咲いている。
乱れた呼吸を整えながらも口元は自然と緩む。
落ち着こうとする気持ちと逸る気持ちが混ざり合って何とも言い難い気分。
でも、嬉しい。
それだけは確かだった。
「────っ!?」
そんな喜びを嘲笑う様に、私の頬を鋭い風が掠めた。
認識し判断するよりも早く身体は反応し、先程までの場所から飛び退いていた。
もし、無意識にでも身体が反応していなければ自分がどう為っていたのかなんて考えるまでも無い。
其処に有るのは、死だ。
「──なっ!?」
“もしかしなくても、例の番人って奴?、上等よ!、私が退治してあげるわ!”という意気込みで見据えた先に居たのは可笑しな姿の人間っぽい存在。
真っ黒な烏の羽根で作った感じの外套を羽織っていて服装は鎧に見える革っぽい防具と、蔦を編んで造った様な服を着ている。
両肘・両膝から先は露で、灰褐色の肌色。
其処に鮮やかな朱の紋様が戦化粧の様に有る。
足元は狼の足の様な指先で鋭い爪が覗いている。
履き物なのだろうか。
顔は“虫瘤”みたいな形の不気味な面を被る。
大きさがバラバラの三つの穴が空いている。
一つは額の左端に、一つは鼻筋の右脇に、残る一つは顎の真ん中から稍右側に。
見た感じ、視界が有るとは到底思えない。
頭には鹿の角が四本生えたくすんだ灰色の狼の毛皮を思わせる髪が腰元辺りまで伸びている。
よく見れば両側の角の間に狼っぽい耳も有る。
明らかに普通ではない。
人間みたいだけど、変。
危ない感じしかしない。
でも、私が驚いたのは──目を奪われたのは、異様な姿にではない。
その右手に握られた物。
決して、忘れはしない。
それを見間違うなんて事は絶対に有り得ない。
悲願とも言える存在。
それは、あの日からずっと行方不明になったままの、亡き母様の愛槍。
私達姉妹の探し求めている大事な形見なのだから。




