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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
625/915

       伍


──六月五日。


宿の部屋、寝台の端に座り力無く項垂れていた。

心身を襲う疲労感は今まで体験した事が無い類いだと言ってもいいだろう。

…いや、過去に一度だけ。

これに似た感覚に苦悩した記憶が有った。

重要な事では有ったのだが良い記憶ではない。

その為、無意識に記憶から外してしまっていた。

そういう事なのだろう。

人は嫌な事は忘れてしまう生き物なのだからな。


深い溜め息を一つ吐いて、胸中に溜まった嫌な感情や脳裏に浮かぶ嫌な考え等を追い出してしまう。

同時に両手で力一杯に頬を顔を挟み込む様に叩く。

バヂンッ!!、と良い打音が静まり返った室内に響く。

多分、今自分の顔を見れば時期尚早な綺麗な紅葉が、頬に浮かんでいるだろう。

…だったら手加減しろ?

そうでもしないと、意識を切り替えられないから。

手加減なんてしていたら、叩く意味が無いしな。

そんなに器用ではない事は自分自身理解しているし。


それはさておき。

顔を窓の方へと向ける。

外は既に日が落ち、宵闇が世界を包んでいた。

自分の記憶が確かならば、部屋に戻った時には窓から見えていた街並みや景色は茜色に染まり始めていた位だった筈だ。

だが、実際には夜空に月が浮かび、照らしている。

星々が夜を飾り立てる様に瞬いている。


其処から考えても、自分が部屋で一人、己の無力感に苛まれていたのが、結構な時間だったと判る。

一度悩み始めると簡単には切り替えられない質である自分に腹が立つ。

…まあ、腹を立てた所で、どうにもならないが。

其処は忘れる事で切り替え考えるべき事に集中する。


王都の飲食店での偶然にも聞こえた話に俺は注文する事も忘れて彼等に詰め寄り詳しい話を訊いていた。

その後、きちんと注文して料理を食べてから店を出て夏侯淵が居たという場所に直ぐに馬車で移動した。

曹家の人物に会えるのなら一番良いのだが。

それだけに絞ってしまうと可能性が大きく下がる。

選択肢を自ら狭めるよりも“手当たり次第に”当たる方が良いだろう。

勿論、誰にでも、ではなく相手は限られるが。


夏侯淵とは面識が有る。

しかも、彼女は重臣だ。

接触する事が出来れば話が通る可能性は低くない。

それに一つ、孫策と別れた後で思い付いた事が有る。

いや、思い出した、と言う方が正しいだろう。

飛影であれば、曹魏の方に例の薬草を採取し保存用に手を加えた物を渡しているかもしれない、と。

だから、直接“雲蓋峡”に採取をしに入らずとも手に入れられる可能性が有ると思った訳だ。


しかし、現実は非情だ。

目標の夏侯淵とは入れ違い擦れ違いで時間が過ぎ去り財布が痩せただけ。

そして、孫策と約束をした期限は明日の一日のみ。

合流する為にも昼までしか猶予は無い。

昼過ぎの便に乗らなくては厳しいと言える。


俺は、どうするべきか。

この決断が全てだ。



──side out。



 孫策side──


──六月七日。


深い、僅か十尺程度の先も見えない様な濃霧の中。

私の足が踏み締める小石や土や草木の音だけが静寂の中に響いている。


昨夜、かなり遅い時間まで華佗を待って起きていた。

だから、正直な事を言えば今は結構眠かったりする。


それでも、そうなるだろう可能性を考慮はしていた。

その為、三日前から日中に出来る限り睡眠を取る様に過ごして、夜型の生活へと身体を慣らしていた。

勿論、一番に心身の調子が良くなるのが朝に為る様に調節をしながら。


その甲斐も有ってか。

確かに眠気は有るけれど、然程問題には為らない。

件の雲蓋峡の“出入口”とされる場所に着く頃には、眠気は無くなっている筈。

要は少し寝る時間が遅く、少しだけ早起きをした。

そんな感じなのだから。

それも昨夜の一度だけの。

疲労が残る様な事も控えて調整しているから其方らも問題は無いしね。

十分に活動は出来る。



「…でも、結局華佗の方は間に合わなかったわね…」



そう、華佗と合流する事は出来無かった。

それは昨日の昼までには、許可を得られなかった事を意味している。

本当、儘ならない物よね。


それでも、暢気に悲観して嘆いてはいられない。

祐哉を助ける為には只管に行動するしかない。

だから、予定通りに朝一で私は宿を出た。

雲蓋峡に入る為に。


合流は出来無かったけど、泊まっている宿は変えず、今朝の出掛けにも店主へと華佗宛の文を託した。

万が一、内容を読まれても大丈夫な様に、予め華佗と決めていた文言しか書いていないので心配は無い。


雲蓋峡までの道は待つ間の数日間で下見をしたから、しっかりと覚えている。

一見して目立ちそうな行動なんだけど、実際は意外と怪しまれてはいない。

別に徒歩で街から出る人も居ないという訳ではない為だったりする。

“国営馬車が有るのに?”と思うかもしれないけど、それは他の街に移動をする場合に限っての話。

それ以外の理由で街を出る人々は決して少なくない。

そう、日々を生きる上での糧となる農耕地等に向かう沢山の人々の事だ。


あれだけ鉄壁を誇る外壁を国境に置きながらも、街は防壁に覆われている。

それは当然だと言える民を護る為の備え。

曹魏には全く油断も慢心も過信も無いという証拠。

他国に対する攻勢・侵略の意思は無かったとしても、その逆が絶対に起きないと言い切れないのだから。


で、その外には東武の街と同規模程の広大な農耕地が存在している。

私自身、初めて見る規模に思わず茫然となってしまう程の驚きだった。

何しろ、防壁の外に有れば大抵は賊徒や害獣の被害を受けてしまうから。

その為、普通なら最低限は街の中に存在する。

それが無いという事は国の安全性が高い証拠。

…嫉妬しちゃう位にね。




朝一で農耕地に向かう人々に混じって雲蓋峡を目指し濃霧の中を進む。

次第に周囲から人の気配が無くなってくると、嫌でも緊張してしまう。

見付かれば終わり。

その一言が脳裏に浮かぶ。

否応無しに感じる重圧。

それに押し潰されない様に自分を鼓舞する。


事前に踏み均し作っていた小さな獣道に似せた一筋を踏み外さない様に、物音と足音を立てない様に細心の注意を払って進む。

暫くすると雲蓋峡の周囲を丸々覆っている壁が濃霧の中から姿を現す。



(…これを最初に見た時は“詰んだ…”と思ったわ

許可なんか無くても無断で侵入なんて事が出来る気が全くしなかったしね〜…)



国境と同種の壁が聳え立つ光景に心は折れ掛けた。

しかし、そう簡単に諦める訳にはいかない事も有り、壁がどうなっているのかを調べる事にした。

結果を言えば、正面らしき門扉が有る一ヶ所。

其処からしか中に入る事は不可能だと言えた。

壁を乗り越えられそうな、手頃な木も存在しない上に定期的に巡回も行われる。

普通であれば中に入る事は正規の方法以外では恐らく強行突破しかない。

勿論、それを遣った場合、私は当然の事ながら華佗と祐哉も命を落とす事に為る可能性が高い。

だから、遣らない。


でも、無断侵入はする。

それが今なら出来るから。



(まさか、こうも都合良く門扉の交換作業中だなんて思いもしなかったわ…)



それは奇跡と言うべきか。

私が様子を窺いに近寄った時に聞こえた話。

本来ならば四日前に新しい門扉が到着していた筈。

所が、製造過程で問題点が有ったらしく門扉の到着が一週間程延びた。

当然ながらその間は仮設の門扉が有る訳なんだけど、高さが十尺程しかない。

しかも、格子状の木組みで足場にも出来そう。

つまり、私ならば問題無く乗り越えられる。

そう確信した。




濃霧の中、門扉が視界内に入る所まで近付いた。


昨日までの観察した結果、もう少しすると見張り役の交替が行われる。

この一瞬が唯一の隙。

失敗は赦されない。



(…大丈夫、出来るわ)



喧しい位に高鳴る鼓動。

それに飲まれない様に己を鼓舞し、落ち着かせる。

静かに、ゆっくりと呼吸し集中力を高めていく。


──と、門扉の右側に有る詰所らしき建物から兵士が二人、姿を見せた。

同時に、門扉の前に立った二人の兵士が其方らへ顔を向けて歩き出した。


焦らない様に、静かに浅く一つ息を吐く。

そして、用意していた腰の皮袋の紐を緩めて、自分と門扉から背を向ける位置に大きく放り投げる。


ガザサッ!、と深い茂みの中に落ちた皮袋が草に触れ大きな音を立てた。



『──っ!!!!』



その瞬間、一転して意識を切り替えた四人の兵士達。

その様子には“流石ね”と素直に感心してしまう。

交替する筈の二人が茂みに向かって近寄り、見張りをしていた二人が少し離れて後に続いている。


本来なら二人は残る場面。

しかし、侵入者なんて先ず来ないだろうからか。

門扉への意識が逸れる。

そうなるだろう事を事前に試して知っていた。

だからこれは、予想通りの展開に過ぎない。


そして、皮袋が落ちた所で再び茂みが音を立てた。

兵士達の警戒心は高まり、其方らへ注意が傾く。



(──今よっ!!)



門扉までの最短の道を駆け彼等が気付くよりも先に、門扉の一部を足場に使って跳ね上がり、飛び越す。

上半身が門扉を越えた所で前に転がる様に身を丸めて一回転して、着地。

“…決まったわねっ♪”と余韻に浸りたい衝動を抑え即座に目の前に広がる森に向かって走り、隠れる。



「──げっ!?、蛇だっ!」



それと殆んど同じ位か。

兵士の一人が声を上げた。

その声に嫌悪感が滲むのを感じるから蛇の類いが嫌いなんでしょうね。



「あー…野鼠獲ってるな

紛らわしい奴等だ」


「何だ、蛇と鼠かよ…」


「“まさか侵入者か!?”と思って焦ったっての…」


「いや、蛇だからな?

少しは焦ろうぜ?

だって、蛇なんだぞ?」


「あーはいはい、そうだな

じゃあ、後は宜しくな」


「おう、お疲れさん」



そんな緊張感の薄れ切った他愛無い彼等の会話を背に聞きながら、私はどうにか侵入に成功した事に安堵し胸を撫で下ろした。




私が用意していた皮袋にはこの近くで捕まえた野鼠と蛇を入れて有った。

但し、皮袋は中を仕切って有ったし、出入口は真逆に為る様に作ってある。

同じ方向に出入口が有ると時間差で物音を立てさせる事が出来無いしね。

其処は工夫してあるわ。


…誰が作ったのか?

私に決まってるじゃない。

“えっ!?、裁縫なんて真似出来たのっ!?”なんて事を考えられそうだけど。

一人で衣服を縫って作る、というのは無理だけど一応最低限の修繕位は出来る。

適当に売ってる安い皮袋を二つ買って、縫い合わせる位は問題無いわよ。


とまあ、そんな感じでね。

ちょっと細工をした訳よ。

少しでも成功する可能性を上げる為にも。


無事に門扉を乗り越えて、雲蓋峡へと踏み入った。

とは言え、油断は禁物。

下手をすれば、外からでも異常だと覚られてしまって出入口を塞いだ上で部隊の投入という事態に為るかもしれないからね。



(さてと、先ずは此処から東側に有った小川の所まで行かないと…)



薬草──“月下鈴蘭草”の生育地としては水辺である事を華佗から聞いている。

だから、川の流れを辿れば一番見付けられる可能性が高いだろうという事。

雲蓋峡自体が広大で有り、大小を問わなければ幾つも水の流れが有る。

その中で門扉から最も近い物が今向かっている小川。

外からでも位置を確認する事が出来たので行動予定を立て易くて助かった。


次に第二条件として周囲が開けている事。

これは広場という意味での物ではなく、頭上が、だ。

要は頭上に陽光を遮る様な木の枝葉や背の高い草等が無い場所、という事。

これは高い場所で有るなら問題無いだろうとの事。

…水辺で、高い場所って、今に為って気付いたけど…私には“滝の上”辺りしか思い付かないんですけど。


それは兎も角として。

最後に、薬草として使える物は花が咲いている状態で摘み取った物のみ、という事でしょうね。

開花は月夜、第二条件とも繋がるのよ。

その花が咲いている期間は僅かに一日半。

開花の翌々日の昼間に花は枯れてしまう。

その間が勝負な訳よ。




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