拾
馬車が出発してから暫くは乗り合わせた、お客同士の会話が程好く響いていた。
緊張している訳ではなく、はしゃいでいる訳でもなく日常的な世間話をする様に気楽な雰囲気で。
それだけ、この国営馬車は曹魏の人々にっては生活の一部であり、慣れ親しんだ事なんだと判る。
寧ろ、物珍しさから辺りを落ち着き無く見回していた私の方が子供みたいだし、田舎者(外国人)という事が明らかだったと思う。
(…もし、華佗が一緒じゃなかったら一発でバレるか良くても怪しまれていたのかもしれないわね…)
普通の──曹魏以外の地で有れば、然程は気にしない事なんでしょうけど。
曹魏では、些細な違いでも命取りに為り兼ねない。
今回は華佗と世間話をする体を装った為、周囲からは然程は浮いてみられる様な事は無かったけど。
内心、ひやひやだった。
暫くすると、話声は薄れて寝息が上がり始めた。
気付けば左隣に座る華佗も両腕を組んで顔を俯かせた姿勢で眠っていた。
(…まあ、そうよね〜…)
幾ら何でも蒲公英が手綱を握っていたとは言え、全く疲労が無い訳が無い。
抑えられてはいても全力で駆ける馬上で半日もすれば疲弊しない筈が無い。
加えて、祐哉の診察後にも私達への説明を行った上、頭の中では病の治療の為に必要となる薬草を入手する算段をしていた筈。
…後、私が同行をした事も多少は影響が有ると思う。
私だって迷惑は掛ける気は全然無いんだけど、多少は配慮や懸念をさせてしまう事は理解しているもの。
その点では華佗には申し訳無いとは思うわ。
でも──それでも。
この機を逃したくはないと私は思った。
祐哉の事は心配だけれど、それは薬草さえ手に入れる事が出来れば解決する。
なら、私が華佗に同行して入手しても同じ事。
…まあ、詠を筆頭に皆から怒られるのは覚悟した上の決断だったしね。
勿論、怒られないのなら、その方が当然嬉しいけど。
流石に私でも今回の独断が危険な事は百も承知。
だから、甘んじて怒られる事を受け入れるわ。
そうしてでも、曹魏に来る価値が有るのよ。
特に今、この時期にね。
(…にしても、意外ね…)
隣で眠る華佗の横顔を見てそう思ってしまう。
普段──と言うより、単に自分が知っている華佗とは“医者”としてだ。
勿論、仕事中ではない時に話をしたり、食事をしたり見掛けたりはしたけれど。
それでも、気を抜いている華佗というのは珍しい。
その無防備な子供っぽさが残っている寝顔を見ていて祐哉の姿が重なる。
惚気という訳ではない。
普段との違いから。
其処に他意は無い。
ただ、少しだけ考える。
華佗の気の緩みは“信頼”から来るのだろうけど。
それは私に対してなのか、或いは、曹魏に対してか。
訊くに訊けない質問。
訊きたくなくもある。
もどかしいものよね。
カタカタ…と、小気味好く一定間隔で鳴る車輪の音と小さく揺られる振動。
それはまるで母の腕の内か揺り籠の中に居るかの様に意識を眠りへと誘う。
特に気を張り続けなければ為らない理由が無ければ、抗う事は難しい。
「………ぅん……?……」
そう長くはない眠り。
しかし、僅かな間、記憶と思考が噛み合うまでは穴が空いた様に状況が判らず、ぼんやりとなる。
“…ああ、そう言えば…”という感じで、はっきりと意識がすれば直ぐに判る。
華佗ではないけれど、私も曹魏(敵地)で熟睡するとか気が緩み過ぎかしら。
でも、仕方無いわよね。
だって、暇なんだもの。
そんな言い訳をしながら、視線を馬車の中に向ける。
大半が眠っている。
ふと気付けば馬車の窓から射し込む陽射しの色が赤く変わっていた。
窓の向こうに見える景色が茜色に染まり始めている。
自分が目にしている景色は場所的には元は揚州の領地だった筈。
それなのに全く知らない、違った場所に見える。
見えてしまう。
それは多分、私の意識的な理由も有るのでしょう。
此処は曹魏だという。
けれど、その一方で思う。
此処は、昔の私にとっては“記憶に残らない”程度の場所だったのだろうと。
その場所が如何に大切かを当時の私は全く理解をしていなかったのだと。
そう思ってしまう。
そして、皮肉な事に。
目にした景色を私は素直に“綺麗だな…”と思う。
この景色を楽しめる状況を実現している曹魏に対して小さくない嫉妬を懐きつつ尊敬の念も懐く。
(これで隣に祐哉が居て、お酒と肴が有れば最高っ♪ってなるんだけどな〜)
流石に、それは厳しい。
私達の頑張り次第によって実現は可能かもしれないが現状では至難でしょう。
それでも、そんな大多数に“下らない”と言われると思える理由で頑張ってみるというのも有りだと思う。
…言ったら、怒られるとは思うんだけどね〜。
そんな事を考えながら窓の外を見詰める。
冬場ではない為、日は長い方では有るけれど…流石に日没までには着きたい。
でも、正直な話、不明。
(…まあ、華佗が言ってた通りだと日没前後らしいしギリギリって所かしら…)
こういう時、土地勘が無い場所だと困るのよね。
大凡の計算が出来無いし。
…え?、いつも自由気儘に好き勝手遊んでるだろ?
失礼ね、私は私なりに考え計算もしているのよ。
…それはまぁ?、以前は…祐哉とそういう関係に成る前は適当だったけど。
今は、ちゃんと時間の事も気にしていないと祭や穏に祐哉を取られちゃうしね。
其処は譲れないもの。
あっ、でもね、その辺りはちゃんと順番とか考えたり祐哉の気持ちも汲んだりはしているから。
私達の体調も有るしね。
計算と計画は大事よ。
一度、目が覚めてしまうと二度寝は難しい。
と言うか、二度寝はやはり布団が有ってこそ。
こういう状況での二度寝は正直に言って心地好いとは言い切れない。
勿論、その感想は私個人の意見としては、だけれど。
(んー、どうしよっかな〜
華佗を起こすのも悪いし…
でも、暇なのは確かよね)
はっきりとした所要時間が判らないから悩む。
判っていれば、それなりに暇というのは潰せる物。
でも、判らないと難しい。
最適解が出せないから。
そんな中、何と無く向けた視線が重なった。
向かい側の席、私から見て右斜め前の所に座っているお婆さんと。
にっこりと笑うお婆さんに私も笑顔を返す。
お婆さんの両隣に座るのはお兄ちゃんっぽい男の子と妹っぽい女の子。
男の子は身体に、女の子は膝に頭を預け安心し切った表情で眠っている。
その気持ちが判る気がして胸の奥が温かくなる。
「お嬢ちゃん、南部からのお客さんだね?
此方には商いかい?」
何気無い、他意は無い質問なんだとは思う。
しかし、瞬間的に緊張し、身を強張らせてしまうのは仕方が無い事だと思う。
自分の事を考えたなら。
「あっ、やっぱり判る?
江水を挟んでの南北だけど元は同じ揚州だし、肌とか同じだから判んないかな〜って思ってたんだけど」
そう言って、いつも通りに私はお婆さんに答える。
要は自分が意識しなければ普段通りに出来る訳だからバレ難くも為る筈。
下手に隠そうとか、演じる意識を持つ方が私の場合は駄目な気がするしね。
演技力に自信は無いし。
以前は単純に袁術達の方が馬鹿で鈍かっただけ。
それだけなんだから。
「お嬢ちゃんはさ、此方の人と雰囲気が違うからね
曹魏になる前の、生き急ぐ“戦人”みたいだよ」
そう、本の少し悲しそうな眼差しの苦笑を浮かべて、お婆さんは言った。
伊達に私達より長く生きて経験を積んではいない。
それを実感させられながら私は苦笑を浮かべる事しか出来無かった。
「お嬢ちゃん、其方の隣の若いのは彼氏かい?」
「……へ?」
ちょっとだけ、沈み掛けた場の空気が変わった。
と言うか、“あ、あれ?、さっきまでの真面目っぽい流れは何処行ったの?”と思わず言いそうに為る位に明後日の方向に話が逸れて呆気に取られた。
…でもまあ、此方としては助かったかもね。
その変も“年の功”かな?
判んないけど。
「ううん、違う違う
彼は私の仕事仲間みたいな感じでね、此方に行くって話を聞いたから無理言って付いて来ちゃったの
それにね、私にはちゃんと婚約者が居るから」
「おやまあ、そうかい…
変な事を言っちまったね」
「気にしなくていいわよ
“歳の近い男女が二人で”なんて状況だと、そういう風に見られても可笑しくはないしね〜
私だって、お婆さんと同じ様に思っちゃうだろうし
それより、お婆さんの隣の子供達はお孫さん?」
華佗との関係は訂正するが下手に華佗の職業だとか、祐哉の事に追及される様な展開は好ましくない。
なので、話題をお婆さんの方に振って、変える。
「ああ、息子夫婦の子でね
普段は家族で、王都の方で暮らしてるんだけどね
ちょっと息子が半年ばかり出張しててね
それで義娘と四人で会いに行ってたんだよ
まあ、義娘は息子と一緒に数日間過ごしてから戻るんだけどね〜」
そう言ったお婆さんの顔は“ま、そういう事だよ”と雄弁に語っていた。
…うん、もしかしたら弟か妹が増えるかもね。
と言うか、お婆さん?
もしかして孫を増やそうと画策してない?
明らかに確信犯でしょ?
まあ、それだけ曹魏が平和って事なんだろうけど。
「あれ?、でもそれじゃあ何で東武行きの馬車に?
王都行きは別でしょ?」
「東武には私の昔馴染みが遣ってる店が有ってね
其処に顔を出してから家に戻るつもりなんだよ
昔に比べたら、今は気軽に行き来出来るからね…
年に一度、数年に一度って感じだった相手とも自分がその気になれば会える様になったのは嬉しい事だよ」
その言葉に胸が痛む。
つい数年前までは世の中は気軽に旅をしたりする事は出来無かった。
それは今も大差は無い。
ただ、曹魏だけが特別で。
それだけなのだと。
そう言いそうになった事に自己嫌悪して。
そして、場合によっては、曹魏の民達の平和と笑顔を脅かしてしまう。
その可能性が有る事に。
「お嬢ちゃん達は東武には仕事でなんだろ?
少しは旅行気分を楽しめる余裕が有るのかい?
多少なら私も知ってるから教えてあげられるよ」
空気を読んで──と言うか単純に話題を振ってる様な気もしてしまう話の流れに胸中で苦笑しながら、少し逡巡してしまう。
あまり深くは突っ込めない点には気を付けながらも、情報を得たいと悩む。
尤も、悩んで機を逃すより突き進むのが私だけど。
「んー…あっ、じゃあね
ちょっと聞いたんだけど、東武近くの“雲蓋峡”ってどんな所なの?」
そう思い出した様な感じで訊ねたら、お婆さんは驚き顔を強張らせた。
その変わり様に訊いた私も思わず息を飲んだ。
「…お嬢ちゃん、見た感じ結構お転婆だね?」
「あ〜…え〜と…判る?」
「昔の私も似た様な感じでお転婆だったからね…」
お婆さんは懐かしむ様な、面白がる様な笑みを浮かべ私を見詰めてくる。
何故か、擽ったい。
「雲蓋峡っていうのはね
昔から人が踏み入っちゃあならない場所なんだよ
もしも、其処に踏み入れば“番人”に命を奪われる…
そう謂われてるんだよ」
「番人って…虎とか熊?」
それ位なら倒せると思う。
と言うか、個人的に言えば結構見慣れた存在だし。
主に周々や善々で。
「さあねぇ…番人を見て、生きて帰った者は未だ誰も居ないって話だよ…
噂には鬼だとか、妖だとか仙人だってのも有るが…
まあ、近寄らん方が良ぇ事だけは確かだね…
お嬢ちゃん、若さに任せて無茶するのは生命を捨てる様な物だからね…
お転婆は程々にしなよ?」
「あははは…そうします」
「そうしなよ?
恋人が悲しむんだからね」
何故か、初対面の人にまで見抜かれてしまう私。
そんなに判り易いかな。
んー…でもまあ、個人的に番人だとか聞いたら興味が湧くのは確かよね。
血が騒ぐ感じもするし。
例の薬草は華佗に任せて、私は雲蓋峡の番人探しでもしようかな。
居るか居ないかは兎も角、面白そうだしね。




