捌
華佗side──
吹き行く風と、風を受けて揺れる帆の音。
船底が水面を割いて進めば羽撃く鳥の翼の様に白波が生まれ、波音を奏でる。
白波が翼ならば、波の音は宛ら囀りだろうか。
船旅をする事は少ないが、偶に聴くと心地好く思う。
尤も、天候が良ければ、と前提条件が有ってだが。
嵐の日の船上なんて直ぐに降りたくなる位だしな。
医者でもな、不意打ちだと船酔いもするんだよ。
そんな嫌な記憶を忘れたく目蓋を閉じ、風と潮の香を楽しむ様に感じる。
ギィッ…ギギィッ…と鳴る船の軋む音も風情の一つと思えてしまう。
違う情報に意識を傾けると嫌な気分は次第に薄れ行き風と波に拐われて消える。
「…………ん?」
ふと、耳の奥に届いたのは獣の唸り声の様な音。
それに意識を引っ張られて閉じていた目蓋を開く。
直後に眩しさを覚えるのは良い天気である証拠。
この航海が安全に進む事を期待出来るだろう。
一時的に白んだ視界が元に戻ると周囲を見回す。
辺りは大半が江水の水面。
僅かに見える街並みが船の出発点になるのだろう。
普通に考えれば彼方から、という事になる訳だが。
果たして、白昼の街中に、猛獣の類いが居るという事が有るのだろうか。
…冷静に考えたなら無いと言えるのだが。
だとすれば、先程の異音は何だったのか。
波風の音に混じっている為正確には判らない。
犬辺りの遠吠えだろうか。
それなら有りそうだ。
一瞬、脳裏には孫策の妹が飼っているという白虎達が思い浮かんだが、主である妹さんと一緒に荊州の方に行っている。
その為、先ず有り得ない。
荊州から此処まで聞こえて来る訳も無いしな。
となれば、やはり犬か。
「んーっ…良い天気ね〜
お酒でも飲みながら木陰で昼寝でもしたいわね〜」
「昼間から酒を飲むという事は個人的にも医者的にも感心しな、い…な?」
つい、聞こえて来た言葉に当然の様に答えた訳だが、言い切る前に可笑しな事に気が付いて、声のした方に顔を向けた。
すると、両拳を天に向けて突き上げながら伸びをする孫策の姿が有った。
「……成る程、賈駆か…」
それだけで、理解するには十分だと言えた。
今が、どういう状況なのか何が起きているのか。
それを想像するには。
今頃、街中ではブチキレた賈駆の雄叫びが──或いは孫策に対しての罵詈雑言や文句や愚痴等が、容赦無く止処無く言い放たれている所かもしれない。
その心中を察すれば如何に医者と言えども、癒す事は至難だと言えよう。
…いや、待て。
という事はあれか?
曹魏に行き戻るまでの間、孫策の“お守り”を自分が一人でするのか?
…俺がしなくてはならないのだろうな。
そう思っただけで、気分は一気に陰鬱になる。
大人しくしていてくれれば良いのだが。
…過度な期待は無理か。
半日程の時を経て、船旅が終わろうとしている。
ただ江水を渡るだけなのに何故そんなに時間が掛かるのだろうか?、と知らない──いや、以前の情報しか知らない者は思うだろう。
確かに以前であれば、船で江水を渡るのに半日も時を費やしはしなかった。
その半分程で対岸に到着し陸に上がれていたのだからそう思うのも無理はない。
だが、今は違う。
曹魏は江水より以北の地を領地とした際、上陸出来る場所を決めてしまった。
景観を守る為、という事で水際から幾らか離れた所に例の外壁を立てている為、陸に上がる事自体は可能。
しかし、“入国”は不可能だったりする。
南部との交易は許可された港からの入国者のみにしか許されてはいない。
それは曹魏の側も同様。
無許可での売買は有罪で、厳しく処断されるらしい。
物々交換等でも同様だ。
不法入国・滞在に限っては初犯ならば追放処分。
二度目以降は死罪となる。
厳し過ぎると思うだろうがこれは曹魏の民の安全性が第一条件として有るが為。
それが揺るがない範囲内で移民は受け入れている。
国を預かる立場ともなれば綺麗事では済ませられない案件は少なくない。
国政は慈善活動ではない。
国と民の利害を考えた上で行われなくてはならない。
そういう意味では、曹魏は徹底しているのだろう。
常に、国を、民を。
第一として考えられている国政を行うのだから。
それはさておき。
そうした理由から出港した船は、真っ直ぐに対岸へと向かって進んで行くという訳ではない。
南部との交易港として唯一曹魏が指定している場所に向かう事になる。
その為、時間が掛かる。
「商人達からしてみれば、面倒臭い事なんだろうけど国の安全を保つという点で有効なのは確かよね…
商人達にしても、積み荷や船、場合によっては命すら脅かされていた事が有った時代を考えれば、安心して商いが出来る訳だし
曹魏に“認められている”という事実は商人・商家の信頼性の証でも有るもの
それだけでも他者との間に大きな違いを持てるわ」
「そうらしいな
俺は商いに関しては全くの素人なんだが…
その“曹魏に認められた”という事実だけで客の数が大きく変わったという話を聞いた事が有るからな」
「それだけ曹魏の影響力が強大だという証拠よ
…本……た……物だ……」
感心する孫策だが、小さく何かを呟いていた。
はっきりとは聴き取る事は出来無かったが、何と無く想像は出来る。
“本当に大した物だ”、とそんな類いの物だと。
同様の立場に有るが故に、尊敬し認めつつも、心では対抗心や劣等感・嫉妬等が生まれてしまう。
その葛藤故に漏れた一言。
それなのだろうと。
──side out
孫策side──
私は祐哉と留守を詠に任せ華佗に同行している。
別に華佗を信頼していない訳ではない。
華佗ならば先ず間違い無く必要な薬草を手に入れて、戻ってきてくれる筈。
でも、祐哉の事だったからじっとしては居られずに、こっそりと船に乗り込んで華佗に付いて来た訳。
──というのが、表向き。
実際には直に曹魏に行って自分の眼で、耳で、口で、肌で感じてみたかった。
確かめたかったから。
あの曹操が実現をしている国政(理想)という物を。
自分自身でね。
…まあ、帰ったら詠からは説教されるんだろうけど。
出来れば勘弁して欲しいと思ってしまうけど、無理な物は無理でしょうね。
だから、覚悟はしている。
(この機を逃せば、曹魏に来るのは何時の事になるか判らないものね…)
私達が──孫呉が曹魏から認められなくては国として正統性を主張は出来無い。
彼の漢王朝が滅亡する前に成立し、認められた唯一の国である曹魏だけが正統な国なのだから。
だから、私達は曹魏を倒し一度正統性を消滅させるか曹魏に認められる事でしか正統性の有る国を主張する事は出来無い。
勿論、現時点で認められるなんて思ってはいない。
その為には何が必要かを、私自身が知る為に。
この機に乗じただけ。
祐哉の事は心配だけれど、其方は華佗を信じている。
だから、大丈夫。
(…尤も、現実を前にして落ち込みそうになるけど…
仕方が無いわよね…
こんなのを見ちゃうと…)
チラッ…と、目を向ければ同乗している商人や商家の人々が和気藹々と話をする光景が周囲には有る。
それは観ているだけならば喜ばしい事だでしょう。
けど、国政を担う立場では悔しくて仕方が無い。
何故、私には──私達には出来ていないのか。
そう思わされてしまう。
勿論、曹操と私とでは同じ様な理想を懐きながらも、其処へと至る為の道程には大きな違いが有る。
常に先を先を見据えている曹操とは違って、私自身は具体的に“未来”を視る事が出来ていない。
その差なんだと。
でも、曹操は曹操。
私は曹操ではなく、孫策。
だから、私らしく歩む。
その為に私は学ぼう。
私の曹操から。
船が対岸の港に到着すると降りる先を曹魏の兵が着る鎧を身に付けた数十名と、官吏っぽい服装をした者達十名程が塞いでいた。
「…バレてないわよね?」
思わず、右隣に居る華佗に小声で訊ねてしまう。
だって、彼方側の緊張感が見て判る位なんだもん。
不安にも為るわよ。
あ、因みに今の私の服装は一般的に行商人が着ている感じの厚手の丈夫さ重視の地味な服だったりする。
流石に普段着ているままで潜り込めるだなんて馬鹿な事は考えないわよ。
…まあ、普段街に脱走──こほん…視察に出る際には着替えはしない。
見付かったら見付かったで良いと思ってるしね。
其処は違っていて当然。
「その心配は無いな
あれは、いつもの事だ」
「…いつもああなの?」
「どんなに厳しい法律でも各役職の者が責任を持って実施をしていなくては何の意味も無いからな
曹魏の凄さは王だけでなく臣兵や民にまで、責任有る意識が根付いている事だ
あれは真似しようとしても出来る事ではない
本当に全ての民が心から、己に対し責任と自負を持ち信頼を寄せているからこそ実現している事だからな
恐らく曹魏以外では実現は不可能だろうな
…っと、済まない
特に他意は無いんだが…」
「いいわよ、謝らなくて
私にも理解は出来るから」
悔しくは有るけどね。
事実だって事は判るから。
私達、そういう立場に有る者達でさえ己の言動全てに責任は持ててはいない。
勿論、それが必要な場ではきちんとしているけど。
常時は無理ね。
曹操達だって、常時という訳ではないでしょうけど。
でも、善悪の意識・認識が統一されていなくては先ず出来無い事だと思う。
“誰彼が遣っているから、自分も…”とか“自分一人遣ったって…”とか“結局バレなきゃいいんだから”みたいな事を僅か一人でも考えていては出来無い。
その倫理観と道徳観の共通意識と共有認識が有るから出来ている。
それは本当に凄い事。
単純な統治ではない。
国とは民である。
その言葉通りに、根幹から築き上げているのだから。
到底、真似をする事なんて出来無い領域よね。
もし仮に遣ろうと思うなら多分数十年以上掛かる事は必至でしょう。
しかも、絶え間無く意志と政策を継続しなくては何の意味も成さない。
普通に考えて、そんな物は妄想でしかない。
これは、そういう物だ。
船を降りれば五つ程の列に当たり前の様に分かれると関所等で受ける検閲の様に質疑応答が始まった。
荷を改めたり、服装等への確認が行われている。
その様子を列に並んで待ちながら見て、思った。
──遣ってしまった、と。
(あちゃ〜…忘れてたわ…
曹魏って確か、国内で民や入国者の武器の類いの所持は禁止されてたのよね…)
服装は変えてきた。
でも、普段の癖というか、常に手元に置く事が当然で失念しまっていた。
だから、有る訳だ。
今現在も私の腰には孫家の宝刀である南海覇王が。
「…華佗、その…言い難い事なんだけどね…」
「…何だ、改まって?」
周囲には気取られない様に何気無い仕草で、小声にて華佗に話し掛ける。
華佗も嫌な予感がしたのか雰囲気に警戒心が滲む。
“失礼ねっ!”と怒りたい気持ちは有るけど、私自身反論は出来無いと判るので冗談でも言い辛い。
普段の言動って大事よね。
「…これ、どうしよう…」
「………」
言いながら南海覇王の柄を華佗に見せると声を失い、右手で顔を覆って溜め息を大きく吐いて俯いた。
逆の立場だったら、私でも同じ様な反応をすると思うから何も言えない。
「…武器の類いは滞在中は所持は禁止されてはいるが没収される訳ではない
出国時には返却される
だから、大丈夫だろう
問題が有るすれば…」
「…この剣から私の正体に気付かれてしまう事よね」
そう言うと頷いた華佗。
実戦的・実用性を重視する事も有り装飾は控え目。
でも、見る者が見たならば一目で判る業物。
孫家の──母様の事を知る人物が見たなら、私の事に気付かない可能性は低い。
しかし、逃げ場は無い。
自ら騒ぎを起こせば全てが終わってしまう。
直ぐに捨てても、彼等には気付かれるだろう。
となれば、後は出来る事は気付かない事を祈る。
それしか無いでしょうね。




