伍
孫策side──
──五月三十日。
呉郡を後にし、本拠である建業へと戻ってきた翌日。
留守にしていた間に問題が起きていないか見回る為に街へと足を運ぶ。
朝早くから賑わう大通り。
“黄皮斑病”の影響も有り一時的に往来をする人々の人数が減ってしまうのは、仕方が無い事だった。
根絶する為の手を打っても既に感染していて未発症の人々は要るのだから。
暫くは往来を抑え、様子を見なくてはならない。
それだけに、いつも以上に目の前の光景が心へと強く響いてくる。
山焼きという、ある意味で戦争被害に近い悲劇を越え孫呉の民達は今日も逞しく生きている。
その姿を目にするだけでも“私も頑張ろう!”という気力が湧いてくる。
(また以前と同じ様に──いいえ、それ以上の活気に溢れた街にしないとね…)
そう思いながら、周囲へと顔を巡らせた時。
商家の鉄製の看板に映った自分の顔を見付けた。
ぼやけていて、顔の輪郭ははっきりとはしていない。
それでも十分だった。
知らず知らず口許に浮かぶ笑みに気付いて、苦笑。
でも、悪い意味は無い。
ただ自分というのは自分で考えているよりも、ずっと単純な性格をしている事を気付かされた為。
確かに、辛い決断だったし苦しくもなるだろう。
それでも、それを乗り越え更に強く成れるという事を確証も無く、確信しているという前向き過ぎる思考が自分の“普通”だから。
だから、死者が一人として出なかった、その結果こそ私達の勝利だと言える。
故に悲観する必要は無い。
何も憂える必要は無い。
まだまだ、ここから。
ここから幾らでも可能性は掴み取れるのだから。
「忙しくなるわねっ♪
私も負けてられないわ!」
響き渡る喧騒を聞きながら私は空を仰ぐ。
自然と浮かぶ己が笑顔には一点の曇りも無い。
心も清々しく見上げている空の様に晴れやかだ。
「──へぇー…感心ね…
なら、その遣る気を汲んでしっかりと遣るべき仕事を遣って貰いましょうか…」
「──っ!?」
地を這い、足元から全身へ絡み付いてくる様な冷めた低い声と、剣呑な気配。
一瞬で身体が強張る。
次いで、額から、頭から、首から、背から、全身から冷たい汗が流れ出す。
小刻みに震えている両膝と両腕は武者震いではない。
本の少し口を開いたなら、声が出るよりも先に絶対にガチガチガチッ…と、歯が打付かり合う音が漏れ出す事だろう。
私は今──詰む直前。
次のこの一手を読み違え、打ち損なったなら、間違い無く終わってしまう。
その緊張を受け心臓の音がバクバクッ…と大きくなり喧しいとさえ感じる。
だが、焦っては駄目だと、自分に言い聞かせ──
「──こんのぉ…大馬鹿策があぁああーーっ!!!!!!」
「ごめんなさーいっ!!!!」
「…うぅっ…ひ、酷いわ…
衆人環視の中で容赦無しに私を責め立てて…その上、それだけでは飽き足らずに私が泣いて請うまで赦さず我慢させ続けるだなんて…
貴女、本当に鬼畜ね」
そう言い眦に溜まっていた涙を右手の甲で拭いながら立っている詠を見る。
すると、先程一旦は冷えて戻っていた顔色が先程より深く濃い赤に染まった。
反射的に両手の人差し指を両耳の穴へと突っ込む。
──だが、説教者(鬼畜)の前では無意味だった。
叫ぶ前に両腕を掴まれるとポンッ!と小気味良い音を立てて指が抜けた。
「誰が鬼畜よ誰がっ!?
と言うか何っ?!
何なのよっ!、今の微妙に卑猥に聞こえなくもない、意味深な台詞はっ?!」
目の前──本当に本の少し私から前に顔を出したなら唇を奪えそうな距離から、詠に叫ばれる。
しかし、この孫伯符。
伊達に幾多の説教(戦場)を潜り抜けはいないのよ。
こういう時は、心を乱さず正論を以て返すべし。
「本当の事でしょ?」
「本当な──んだけどっ!
幾ら何でも言い方って物が有るでしょうがっ!
何なのよ、あれはっ?!」
そう来るのは想定済み。
例えそれが、火に油を注ぐ事に為ろうとも。
相手が正常な判断が出来る人物であるのならば。
実は結構有効な手段。
そう、私は数多の経験から見出だしたのよ。
…嬉しくない事だけどね。
「私が仕事を放置したまま街に出て、その事を知った詠が私を追い掛けて来て、見付かって衆人環視の中、正座させられて説教されて泣いて謝って、私の口から“私、孫伯符は、真面目に仕事をします”と言うまで立つ事を赦さず足が痺れて微妙に感覚が無くなっても我慢させ正座を続けた
という事実を言っただけ」
「そうなんだけどねっ!
ああぁーっ!!、もうっ!!」
両手で乱暴に頭を掻き乱し同時に左右に振りながら、激しく地団駄を踏む詠。
納得出来てしまったが故に“感情的な事(屁理屈)”を言い難くなる。
真面目なのも要因の一つ。
もし詠が幼馴染みとかなら容赦無く説教を再開してるでしょうけどね。
生憎と私達は違うもの。
その可能性は低い。
尤も、将来的には通じなく為るんでしょうけどね。
その時は、その時よ。
…あ、因みに私は今もまだ正座してるから。
え?、立たないのか?
いいえ、違うわ。
私は“立てない”のよ。
…まあ、要するに足が痺れ過ぎてて動けないってだけなんだけどね。
もしも今誰かに、その足を突っ突かれたりしたら──同じ目に合わせてあげる。
ええ、それはもう今の私の比じゃない位にね。
「──あっ!、詠っ!
──って、雪蓮様っ!
大変っ!、大変だよっ!
兄ちゃんがっ!!」
そんな事を考えていたら、詠の後ろに現れた季衣から出た言葉に痺れなんて忘れ私は直ぐに立ち上がると、急いで城へと戻った。
「──祐哉っ!?」
「──ぐぎゃんっ!?」
普段から祐哉に対してのみ遣らない事なんだけど──ノックなんて無視をして、力任せに扉を開けて室内に駆け込んだ。
背後で鈍い破壊音と共に、妙な音──蛙が潰された声みたいなのが聞こえたけど今はどうでもいい。
寝台に寝ている祐哉の元に一目散に近寄った。
横に為っている祐哉は全く私に気付いた様子は無い。
普段、礼節(こういう事)に結構煩い祐哉が、だ。
加えて、平穏な感じだけど未だに群雄割拠の真っ只中である事には違いない。
何時、何処で刺客が襲って来るのかも判らないという状況なのだから大きな音が聞こえたなら飛び起きたり身構えたりする筈だ。
でも、そう為ってはおらず祐哉は横に為ったままだ。
それはつまり、眠っているという訳ではない。
意識が無い、という事。
顔を見れば、つい先程見た詠の顔色には負けるものの真っ赤に為っている。
口元を見て、耳を澄ませばか細く、短く、乱れている呼吸の音が聞こえる。
多分、高熱が出ている。
手で触れ、顔を近付ければ更にはっきりと判る筈だ。
その考えに無意識に右手を祐哉へと伸ばす。
だが、途中で止める。
祐哉の事は心配だ。
それは間違い無い。
しかし、自分は当主だ。
孫呉の臣民の主君だ。
此処で迂闊な真似をして、病に掛かって祐哉と一緒に倒れて寝込んでしまう様な事は有っては為らない。
心が重く、辛く、苦しい。
ジクジク…と痛む。
それでも、今は堪える。
今此処で、私が泣き喚いて祐哉に縋り付いたとしても何の解決にも為らない。
ただ事態を更に悪化させてしまうだけなんだから。
全身から溢れ出そうとする色々と入り混じった感情を唾と息と共に飲み込む。
目頭の奥に感じている涙も“引っ込んでいなさい”と無理矢理に。
そう遣って私はゆっくりと息を吐いて、切り替える。
遣るべき事を遣る為に。
祐哉の姿を見詰めていたらその場に踞ってしまう様な気がして、今は逃げる様に背中を向ける。
泣いている場合じゃない。
そう判っているから。
振り向くと先ず扉の近くで踞って両手で顔を覆う様に押さえている真桜の姿と、心配する雛里と亞莎の姿が目に入った。
……あ…さっきの変な音、真桜が扉を顔面に打付けて出た声だったのね。
…悪い事したわね。
後で謝っとかないと。
「で、華佗には?」
そう私が訊ねたのは、祭。
室内に居たのは五人。
真桜・雛里・亞莎・白蓮に祭という面子。
動揺が少なく的確な指示を出す事が出来るとするなら祭で間違い無い。
雛里と亞莎は現状では十分落ち着いてる様に見えるが急な場合には動揺しないと思えなかった。
別に二人を信頼していない訳ではないが。
其処は経験に伴うが故。
同様に真桜にも厳しい。
白蓮は経験的には有るけど孫家の家臣・軍将としては日が浅い点が拙い。
そういう理由で、だ。
「蒲公英が居ったのでな
直ぐに此方に華佗を連れて来る様に言って走らせた
早ければ…明朝には此方に戻ってくるじゃろう」
その判断に納得する。
走らせるなら騎馬の技術が高い者が適任。
それも頭抜けた実力者が。
緊急事態だからこそ尚更に要求とされる物が高い。
そうなると対象者は三名。
霞は会稽に言っているから当然、無理な話。
と言うか、二度手間だし、無駄に時間が掛かるだけ。
自然と残る白蓮と蒲公英の二択という事になる。
軍事的な事を言えば白蓮が二枚も三枚も上手。
だが、今回は華佗を連れて如何に早く戻って来るか。
その一点のみ。
となると、要求されるのは単騎駆けの技術。
その点では甲乙付け難く、地理的な面で十分ではないというのは同じ。
なら、最終的な判断材料は単純な事になる。
“華佗を乗せて”だ。
華佗を乗せる事を考えれば小柄で身軽な蒲公英の方が走る馬への負担が少ない。
負担が少なければ、多少は無理も出来る。
それが僅かな違いを生み、早さに差を生むのだから。
「そう…ありがと、祭」
「何、儂の夫の一大事でも有るからのぅ」
弱音、ではないのだけれど少しだけ漏れ出した弱さを誤魔化す様に笑って言うと祭は私に近付いて、背中をバシバシッ!と遠慮せずに叩いてくる。
“こういった時には素直に年長者に甘えて置かんか”と耳許で囁く祭。
そんな然り気無い気遣いに胸中で感謝する。
「それで、どういう経緯でこうなったの?
少なくとも昨日の夜までは何とも無さそうにしていた筈よね?」
小さく一息吐いて、祭達に詳しい説明を求める。
特に、昨夜は部屋に戻って寝る直前まで一緒だったと記憶している白蓮を見る。
疑われた訳ではないのだが追及されていると錯覚する場の雰囲気に白蓮は思わず一歩下がってしまう。
…そういう質って、色々と損なのよね〜。
「た、確かに昨夜は祐哉と私と紳が一緒だったけど、祐哉に特に変わった様子は無かったし、酒を飲ませた訳でもないから熱なんかで顔が赤ければ気付くさ」
若干動揺しながらも昨夜は異常は無かったと答えると下げた一歩を戻す。
何気に私と祭にお酒関係の釘を刺してくる辺り白蓮も祐哉の手先みたいね。
これでも最近は量を減らし非番でも日中から飲む様な事は減ったんだから。
…え?、止めないのか?
それは流石に無理。
私も祭も発狂するわ。
「今日の仕事じゃが祐哉は昼からでのぅ
昨日“明日の朝はゆっくり長寝したいから”と言っておったから、今日の朝練は遣っておらん」
「で、ウチも祐哉と一緒で今日は昼からやってん
ウチも長寝してから遅めの朝食、早めの昼食っちゅう感じで向かっとったんよ
そしたら祐哉がウチの前を何やフラフラ〜としながら歩いとったから声掛けて、いつもの祭様みたいに背中叩いたら──思いっ切り、前に突っ伏してもうてん」
「…で、慌てておった所に儂が通り掛かってのぅ
一目見て病人だと判る状態じゃったからな
直ぐ抱き抱えてこの部屋に連れて来て寝かせたわ
その時、真桜には蒲公英を走らせる様に命じてのぅ」
「兎に角、蒲公英が直ぐに見付かって良かったで」
そう言って終わる二人。
ざっと聞いて判った事は、祐哉の異常は今朝になってという事。
昨日までに予兆は無かったという事。
少なくとも、朝は部屋から自力で外に出られなかった訳ではないという事。
真桜が会った時点では既に意識が微妙だった事。
その程度でしかなかった。




