弐
──五月二十三日。
突如現れた一団──事後に孫策の所の馬岱と部下達と説明されたが、名乗る事も無く取り押さえる、という行為は如何な物なのか──によって拉致された俺は、事情を説明され孫策からの協力要請を快諾した。
それはそれ、これはこれ。
問答無用の捕獲行為に対し思う所は有るが、俺自身の個人的な感情と医者として為すべき事は別問題だ。
それを混同はしない。
…まあ、後から馬岱を含め当事者達からの謝罪を受け赦しはしたがな。
それはもう済んだ事だ。
で、孫策からの依頼である“黄皮斑病”の治療。
これ自体は問題無い。
治療方法の確立させている病では有るからな。
ただ、その感染力が厄介で甘く見てはならない。
小さな油断から漏れ出せば気付いた時には万にも上る患者を出し兼ねないのだ。
尤も、孫策が南部の出身で黄皮斑病自体に対する危機意識と理解が有った事から対処は迅速且つ的確に進み感染の拡大は防げた。
その点は大きな事だ。
そういう意味では呉郡太守・張承の働きもだろう。
彼もまた南部の出身が故に黄皮斑病の脅威を理解し、適切な対応をしていた。
それが無ければ、感染者は今も尚増えていただろう。
まだ数日しか経っていない訳なのだが、病との戦いは時間との戦いでも有る。
そういう意味では、忙しく緊張が全く切れない数日間だったと言えるだろう。
当然の事だが疲労の具合も中々の物だ。
とは言え、今回に関しては自分一人ではなく孫策側の協力も大きいので普段とは比べ物にならないが。
「──あっ、華佗殿!」
名を呼ばれて振り向くと、此方に走り寄って来ている周泰の姿が有った。
実は彼女の気配の絶ち方は非常に上手く、以前と違い氣を使えなくなった俺には彼女の気配を気取るという事は困難だったりする。
勿論、そうでなけば普通に察せられるのだが。
彼女の癖の様な──いや、職業病みたいな物だろう。
職務中は気配を絶つという事が習慣化しているらしく何方らかと言うと無意識に遣っている事が多いとか。
高い技術が有るというのも時と場合によっては、その良し悪しが変わる物だな。
「俺を探していた様だが、どうかしたのか?」
その様子から察した訳だが平静を保って訊ねる。
決して気配を感じ取れない周泰に驚き動揺したという訳ではない。
“俺を探していた”という事を考えると、“何か”が起きた可能性が高いという理由からだ。
まだ、完全に気を抜くには早過ぎるからな。
「はい、先程、孫策様達が此方に御到着されました
それで華佗殿と直接お話しされたいそうです」
──だが、胸の前で両手を合わせながら笑顔を浮かべ口を開いた周泰が言うのは問題ではなかった。
その事に、密かに胸中にて安堵の溜め息を漏らす。
此処で新たな感染者が出る様な事態ではなかった事に肩の力を抜いた。
──side out。
Extra side──
/小野寺
報告を受けてから九日。
何が一番大変だったのか?と訊ければ、“手掛かりも無しに華佗を探し出す事”と霞達が口を揃えて言うと確信出来てしまう。
…何故かって?
これでもかと愚痴を書いた竹簡の束を雪蓮と俺に向け送り付けて来たからな。
因みに、竹簡の無駄遣いを咎めるよりも、普段しない書き仕事を“こんな感じで遣って貰いたいわね…”と詠が心の底から言っていた姿の方が印象深い。
宅は王様──主君に似てか書類仕事を嫌う武官さんが多いからなぁ〜…。
ええ、当然の様に俺の所にお声が掛かっていますよ。
教育と手伝いと、その両方の為にね。
まあ、詠達の苦労を俺自身理解しているから、断りはしないしな。
以前に比べたら大分増しに為ったと思うよ、本当に。
「…何かしら、急に物凄く居心地が悪くなった様な…
ねえ、祐哉、何で?」
「さあ?」
流石、と言うべきか。
自分に対する不利な思考を感知しただけではなくて、その発生源を捕捉する辺り本当に侮れないよな。
雪蓮の“勘”って。
でもまあ、確証を得ないと実証も出来無い事だからか此方が動揺せずに普段通り反応・対応すれば雪蓮でも簡単には気付かない。
俺だって伊達に一緒に居る訳じゃあないからな。
それ位の対処法を経験から見出だし、身に付けている訳なんですよ。
…役に立つかのかどうかは微妙なスキルだけど。
何しろ雪蓮限定という限定過ぎるスキルなんだし。
気にしたら負けだよな。
「……気の所為かしら?」
あっさりとした俺の反応に案外素直に引き下がる。
下手に追及して踏み込むと自分に矛先が向いてしまう事も感じているのだろう。
其処も凄いなと思う。
とは言え、内容によっては食らい付いてくるけど。
今は自分に不利な事だから止めただけだしね。
「は〜い♪、皆さんお茶が入りましたよ〜♪」
そう笑顔で言いながら穏がお盆に乗せた茶杯を俺達の前に置いてくれる。
「ありがとな、穏」
「いいえ〜♪、私も好きで遣っていますからね〜♪」
怠け者的な一面は有るが、世話焼きな一面も有る穏。
前者は自分の事に対して、後者は俺の事に対して。
各々適用されるらしい。
ちょっと不思議な感覚の為説明し難い質だが。
今の所、問題も被害も特に出てはいない。
なので、気にはしない。
で、今は必要最低限でしか人員を俺達の身の回りには置いていない為、穏が自ら侍女さんの代役に。
…まあ、軍師の侍女なんて結構贅沢なんだよな。
“原作”だと、詠と董卓が該当するんだけどさ。
それも、ある意味贅沢だと言えるよなぁ〜。
因みに、天和達は疫病への感染の可能性を考えた上で建業にて、お留守番。
以前の事も有るからな。
用心するに越した事は無いという訳だ。
穏が淹れてくれた茶を飲み一息吐いた所に部屋の扉をノックする音。
実に良いタイミングだ。
俺達は揃って、座っていた椅子から立ち上がる。
「入って頂戴」
雪蓮の一言を聞いてから、ゆっくりと開く扉の先には明命が立っており、開けた扉と一緒に入り口上からは退いてゆく。
それの後には華佗が居る。
互いに気にしないだろうが内外へ対して示す“形式”という物が有るからな。
その辺は仕方が無い事だ。
「失礼します
華佗殿をお連れしました」
「ご苦労様、さあ、華佗
此方に来て座って頂戴」
そう言い雪蓮が空いている一席を右手で指すと華佗は会釈してから部屋に入り、椅子へと腰を下ろす。
次いで、雪蓮が座り直し、それを確認してから残った俺達──俺・穏・詠が再び椅子に座る。
穏は然り気無く華佗の前に茶杯を出していた。
“出来る奥さん”といった雰囲気を醸し出している。
まあ、実際に出来る訳だし文句は無いんだけどね。
扉を閉めた明命は護衛役も兼ねて室内に残っている為壁際に移動して佇む。
あ、気配は消さないでね?
心臓に悪いから。
「先ずは、皆を代表して、貴男に御礼を
孫呉の民の為に多大な協力をして頂き感謝します
御尽力、有難う御座います
本当に助かりました」
席を立った雪蓮に倣って、俺達も再び起立。
そして、雪蓮の言葉と共に華佗に頭を下げる。
三秒程して頭を上げると、若干困り顔の華佗が居た。
それを見ながら着席する。
今の華佗の気持ちは判る。
普通、こういう真似は先ずしないだろうからな。
特に権力者ならば。
感謝はしても“礼を言う”“よく遣ってくれた”で、良くて“感謝する”と言う程度だろうからな。
無駄に格や位を強調して、頭を下げる事などしない。
それを“無様だ”と考えて偉そうにするからだ。
だが、其処は雪蓮だしな。
ちゃんと筋は通す。
まあ、だからこそ、室内で少数での会談な訳だが。
高位の、色々と責任の有る立場というのも大変だ。
その辺りは流石の雪蓮でも文句は言わない。
それはそれ、これはこれ。
分けて考えないとな。
こほんっ…と、雪蓮が一つ咳払いをする。
それに合わせた様に俺達は真面目な雰囲気を解く。
まあ、それは雪蓮・俺・穏の三人だけなんだけどな。
何方らかと言えば真面目な詠は眉間を押さえながら、溜め息を吐いている感じで──あ、実際に吐いてた。
「さて、堅苦しい感じのは此処までにしましょう
華佗、改めて言わせて
協力してくれて有難うね
本当に助かったわ」
いつも通りの雪蓮の笑顔と言葉で、再びの感謝。
勿論、それだけ大きく深く感謝しているのだけど。
先程のは主君として。
今度のは個人として。
そういう意味での感謝だ。
最初は驚いていた華佗だが意図を察すると、いつもと同じ様に笑顔を浮かべる。
「いや、俺の力などよりも其方の的確な判断と対応が良かったからだ
俺一人では治療は出来ても感染の拡大を防ぐ事は先ず無理だっただろう
だから、俺からも礼を言う
多くの民を病魔から救ってくれて感謝している」
今度は華佗が立ち上がって俺達に対して頭を下げる。
その意味を、その意思を、俺達も理解している。
だから、静かに受け取る。
そして、頭を上げた華佗は一度だけ口角を上げて見せ“お互い様だ”と示す。
その仕草に、俺達は苦笑しながらも好ましく思う。
座り直した華佗を見ながら雪蓮が本題へと入る。
「それで、どんな状態?」
「俺が要請を受けた時点で聞いていた約二千人…
加えて隔離・封鎖する前に感染し発症したと思われる約五百人…
合計約二千五百人の治療は完了している
黄皮斑病の特性として有る“同時期の再発・再感染”は無い事から、其方らでの心配は無いだろう」
「そう…良かったわ」
取り敢えず、一安心。
再発・再感染が無いという事実から考えると、病原菌自体の変異は無い。
そう考えていいんだろう。
突然変異する事が無いのは好材料だよな。
「──でも、それだけよ
私も黄皮斑病に関しては、多少は知っているもの
発症した患者の治療自体は難しくは無いけれど疫病の根元は簡単には絶てない
寧ろ、発症者の治療よりも其方らの方が本番…
そうよね?」
まるで戦場に居るかの様な鋭い眼差しを華佗に向ける雪蓮に対して、久し振りに寒気を感じた。
その空気に、無意識に息を飲み込んだのは俺だけではなかっただろうな。
動じなかった可能性が有る相手は…明命だけかな。
暫くの間、雪蓮と華佗。
二人は睨み合っていた。
“見詰め合っていた”とはお世辞にも言えない。
張り詰めた空気が支配する室内から脱出したい。
以前までの俺だったならば絶対にそう思った筈だ。
…まあ、今でも出来るなら一旦退出したかったけど。
その状況で先に折れたのは華佗の方だった。
小さく、息を吐いた。
その表情、が諦めを色濃く物語っている。
「…出来れば、其処からは俺一人で遣りたかったが…
引く気はないのだろう?」
そう言った華佗を見ながら雪蓮が普段通りに笑う。
子供が他愛無い勝負に勝ち喜んでいるみたいに。
それを見てしまうと俺達も実際には訳が判らなくても赦してしまいそうになる。
ある意味、反則技。
これも人徳だろうな。
「ええ、元より貴男一人に背負わせる気は無いわ
これは私達、孫呉に生きる全ての民が背負わなくてはならない事だもの
でも、私達では“其処”に辿り着けない…
だから、力を貸してね」
屈託無く、悪びれもせず、無邪気に“お願い”をする雪蓮に、俺達は華佗に対し罪悪感を覚えた。
「…はぁ…困った主君様を持った物だな?」
「疾うに諦めてるわ…」
「今更ですからね〜」
「それがらしさだしな…」
「それでこそ、です!」
華佗の同情する様な一言に俺達は素直に答える。
それを聞いた当事者は頬をぷくぅ〜…と膨らませて、俺達を──ああいや、俺を睨み付けてくる。
俺一人が悪いの?
…ああうん、はい、ええ、そうですか。
俺が悪いんですね。
取り敢えず、それで雪蓮が納得するんなら、此処では素直に受け入れよう。
…此処で臍を曲げられたら大変だからな。
俺が犠牲(生け贄)になって丸く収まるんなら、それで構わないしな。
拗ねると後が面倒だから。
ちゃんと仕事はするけど。




