5 雨と鈴の音 壱
other side──
深き闇の支配する夜。
月さえも雲に隠れ、照らす光は存在しない。
──筈だった。
黒天を染め上げるは紅蓮。
猛々しく燃え盛る炎が夜の中で明々と輝く。
朦々と立ち上る黒煙。
バチバチッ…と音を立て、炎が全てを食む。
大火事と称しても間違っていない規模。
しかし、“当事者”を除き知る者は居ない。
燃えるは山の奥深くに建つ崖上の木製の砦。
其処は“錦帆賊”と称する江賊の拠点の一つ。
「射てっ、射てえーっ!」
谺する声と風切り音。
黒煙の中、閃く矢の雨。
それを掻い潜り翻る影。
チリン…と鈴の音が響く。
「──き、来たっ!」
「狼狽えんじゃねえっ!
奴は一人だっ!」
恐怖に後退る者は少なくはなかった。
だが、一対多数という事が恐怖を和らげる。
「矢を射ってる間に囲んで追い詰めろっ!」
指示を出す大柄な男。
男の名は凌操。
先代からの古株だが、常に顔を覆面で隠し仲間内でも素顔を知る者は居ない。
しかし、先代への忠誠心は人一倍で皆の信頼も厚い。
自分にとっても兄の様な、師の様な存在だった。
(…何故、何故だ凌操?)
錦帆賊の仲間が次々と死に調査に動いた自分も同様に死に掛けた。
だが、幸か不幸か生き残り彼の裏切りを知った。
この砦に居る者は彼に従う敵だけだが…妙だ。
彼等は“火”の原因を自分だと思っている。
勿論、侵入者である以上は疑われて当然。
しかし、そんな目立つ事は忍び込む上では逆効果だ。
自分ではない。
では、一体誰の仕業か。
(…お前なのか、凌操?)
しかし、目的が判らない。
何がしたいのか。
(凌操、お前は──っ!?)
左肩に奔る痛み。
思考に意識が傾き過ぎたと理解した。
だが、手遅れだと知る。
身体を焼く様に熱が蝕み、自由と意識を奪う。
「…ぐっ…凌…故…?…」
弓を左手に此方を見下ろす凌操を睨み付ける。
番えられた矢が放たれた。
何とか躱すが…其処まで。
足元は崩れ、背中から谷へ落下して行く。
「…あばよ──“甘寧”」
男は顔を隠していた覆面を取って素顔を晒す。
暗闇の中、炎に照らされて橙色の左目が輝き…
顔の右側に刻まれた大きな刀傷が浮かび上がる。
(貴様は──)
それは、自分の知る凌操の顔ではなかった。
──side out
華佗と別れ一夜が明けた。
あの後も“賊討伐”と称し賊徒共を使った人体実験で徹夜し、眠ったのは明け方だった。
潰した“群れ”は六つ。
奪った命は約三千。
しかし、彼等の命の御陰で手札が増えた。
「ま、これで暫くは此処も静かになるだろう」
そう“暫くは”だ。
幅を利かせる勢力が纏めて消えたとすれば、他領から流入してくるだろう。
結局は元に戻るだけ。
ならば、何も知らずに居る方が良い。
下手に安心したりすれば、再び脅威に晒された場合に感じる絶望感との落差から生きる気力すら失う。
“弱肉強食”が真理でも、人は夢や理想に縋る愚かな生き物なのだから。
「取り敢えず朝──昼飯にするか…」
頭上を見上げ、中天に近い事を確認して訂正。
朝食を作る為、近くに有る川へと向かう。
昨夜の戦利品である鉄鍋に水を汲み、火に掛けて沸騰させる。
其処へ米と干し野菜を切り入れて煮込む。
「…作り置き出来ないのが痛いな…」
保存用の術の有り難みが、嫌という程に判る。
序でに冷蔵庫やレンジも。
「…無い物ねだりをしても仕方無い
…魚でも獲って来るか」
そう考え川を覗くが魚影が見当たらない。
諦めるには早いと上流へと向かう事にした。
暫く歩くと魚の姿を見付け狩猟を開始。
自然の恵みに感謝。
「大漁、大漁──ん?」
ふと、鼻に付いたのは──嗅ぎ慣れた、血の匂い。
氣を練り上げ、気配を消し近付いて行く。
流れの緩やかな淵。
其処で目に入って来たのは草影に倒れ込んだ人影。
警戒を怠らずに近付いた。
倒れて居たのは衣服を血で染めた二藍色の髪の少女。
左肩に刺さった矢。
半分折れているが、これが致命傷だろう──と思った時だった。
僅かに少女の胸が上下している事に気付く。
直ぐに首筋に右手を当てて脈を取る。
弱々しいが生きている。
(華佗と連中に感謝だな)
少女を仰向けに寝かせると彼女の丹田に両手を置く。
両手に氣を集め、放出。
それを彼女の氣に同調させゆっくりと流し込む。
(…ん?…これは…毒か)
身体を蝕む“異物”。
それを見付けると氣を操り中和・分解する。
邪魔をする要素を排除し、彼女の治癒力を活性化。
矢傷自体は跡形も無く治り血色も戻る。
「…一先ずは大丈夫か
後はこの娘の体力次第だ」
さっさと移動したい所だが今の彼女を連れ回す訳にもいかず留まる事に。
(…しかし、傷の具合から診ると昨夜か…)
村の周辺と一口に言っても実際には十数kmの広範囲に及んだ。
しかし、自分が潰した賊の中に女性は居なかった。
幸いにも捕虜は一人も無く気兼ねせずに殺れた。
脱走されて慌てている事も無かった。
少なくとも其処に居たとは考え難い。
(となると…上流域か)
直ぐにでも調べに行きたい所だが、彼女を放置する訳にもいかない。
結界を張れれば簡単な事。
そう思う事に自分が如何に術に依存していたか判る。
溜め息を吐き天を仰ぐ。
(……ん?)
鼻に付く特有の匂い。
肌に感じる湿った微風。
雲の流れを読み、風上へと視線を向ける。
(此処で一雨来るか…)
空の端を黒雲が覆う。
山の天気は変わり易いが、今は鬱陶しいだけだ。
(馬車は幌付きだから問題無いんだが…)
彼女の事を考えると冷えるのは良い事ではない。
(…仕方無い、山小屋でも探してくるか)
そう決断し動く。
幸いにも直ぐ小さな小屋が見付かった。
外見はボロかったが屋内は雨宿りには十分な状態。
簡単に点検と補強を行い、彼女を連れて戻る。
彼女を寝かせて火を焚き、馬車から荷の一部を屋内に移した所で雨が降り出す。
パチパチと焚き木の音と、激しさを増す雨音。
「……ぅ…ん……」
そんな中、彼女が小さく声を漏らした。
「……此処…は?……」
ぼんやりとした様子で呟く彼女の傍らへ歩み寄る。
「此処は使われなくなった山小屋です
何処か痛みますか?」
努めて穏やかな声で問う。
「…痛み?…──っ!?」
痛みから傷を連想し自身に起きた事を思い出したのか眼を見開き身体を起こす。
だが、傷は塞がっただけで失った血が十分には戻っていない為に倒れ込む。
それを抱き止める。
「一応手当てはしましたがかなり失血しています
今は休んで体力を戻す事が大切です」
「…すまない」
大人しく従う彼女に笑顔を返し、用意していた雑炊を木の椀に入れて差し出す。
「先ずは食事です
お口に合うか判りませんがしっかり食べて下さい」
「…頂きます」
受け取り僅かに逡巡するが木の匙を手に口へ運ぶ。
一口食べて驚いた様に一瞬手を止めるが、直ぐに食べ出したので安心した。
食べ終えて横になった所で事情を訊いてみた。
彼女の姓名は甘寧。
字は興覇。
“あの”錦帆賊の頭目で、呉きっての猛将。
女性では有るが。
事実、彼女は一党の頭目をしていたらしい。
しかし、此処一ヶ月程で、一党が次々と討伐された。
その原因と見た“凌操”と言う人物も、見知らぬ男が成り代わっていたらしい。
結局、錦帆賊は壊滅。
謎だけが残った。
「…必ず奴を見付け出し、この手で葬る」
拳を握り締め、静かに呟く彼女の姿を見詰める。
「死者は何も望まない」
そう言うと“黙れ”と言う様に睨み付ける彼女。
しかし、気にせず続ける。
「憎しみも悲しみも痛みも生者だけが感じる物
死は全ての終わり…
思考も感情も想いも夢も…全てが失われる」
「……っ……」
「復讐するのは自由だ
だがな、死者を理由にして行うな
それは死者への冒涜だ
殺るのなら己自身の意志で行い、その業を背負え
決して、他者に背負わせる真似はするな
それが命を奪う者の業
奪った命を糧とし、それが“無価値”にならない様に精一杯に生きる事…
それが本当の覚悟だと俺は思っている」
彼女の目を真っ直ぐ見詰め遺志を伝える。
予期せぬ言葉──説教に、眼を見開いた。
まあ、“俺”という部分に反応した可能性も高いが。
「…奪った命を背負う…
そんな風に考えた事など、一度も無かった…」
彼女は俯いて呟く。
その表情は見えないが声に滲むのは戸惑い。
「奪った命だけではない
自分の為に散った命も…
守れなかった命も…
それは糧となっている
奪われる悲しみや怒り…
己の未熟さを思い知る事…
傷付け傷付く事の痛み…
現在に在る“自分”を成す一欠片として、な…」
そう言って彼女の頭を撫で同時に氣を流す。
「──っ!?、何…を?…」
自分の異変に気付く甘寧。
だが、既に遅い。
「今は眠れ」
その声が届いたかどうかは判らないが、甘寧は意識を手放した。
彼女を寝かせると周辺へと意識を広げ、気配を探る。
気配は大小合わせて約二十といった所か。
だが、その中に“人間”の気配は無い。
それが判れば十分。
「さて、と…甘寧の言葉を信じない訳じゃないが…
一応、確認しておくか」
囲炉裏の火を火事の原因にならない様に薪を調節し、未だ雨の降る闇夜の中へと出て行った。
氣を放出し全身に纏わせ、宛らレインコートか合羽の様に雨を防ぐ。
これも昨夜の成果だ。
「取り敢えずは…彼処から上流へ遡るか…」
推測に従い甘寧を見付けた場所へと向かった。
其処から上流を目指すが、雨で増水していた。
“痕跡”に関しては諦めるしかなさそうだった。
川伝いに木々と岩肌を足場にしながら進む。
“丑三つ時”だからなのか雨音しかない。
視界はネオンや街灯が有る訳でもなく、月も雲に隠れ最悪な状態。
氣を蜘蛛の巣の様に広げ、レーダー代わりにする。
まだ移動しながらの感度に問題が有る為、静止時より範囲は狭まるが今は十分。
気配を殺し、深い闇の中を疾駆する。
…チリン…
不意に耳に入った音。
それは確かに“鈴”の音。
足を止め、周囲を窺う。
しかし、人の──生き物の気配はしない。
“生きた者”の気配は。
悪霊や妖魔の類いとは違い邪気は無いが…強い気配。
警戒しながら気配の方へと近付く。
すると川の浅瀬に、まるで静かに佇んでいるかの様に突き刺さった一振りの剣。
剣先に向かって身幅が広く大きく弧を描く刃。
所謂、柳葉刀だ。
鍔は無く、柄尻は輪の様になっているが、刀身を含め一体化された様な──否、彫刻等で言う“一刀彫”の如く、一塊として造られたのだと理解する。
装飾等の一切の“無駄”を削ぎ落とした姿。
闇の中に在って霞む事なき紫色を纏う姿には見惚れてしまいそうになる。
しかし、視界の中で感じる違和感が引き付ける。
それは小さな銀色の鈴。
浅瀬の濡れた砂の上。
時折、水が触れて揺らすと小さく鳴る。
その鈴を右手で拾い上げ、左手の掌で転がす。
剣を“墓標”とするならば鈴は“献花”の様だ。
だが、それが別物なのだと本能的に悟る。
理由は簡単。
両者の宿す気配が違う。
剣からは、氷刃を思わせる凛とした殺気に似た気配。
対して、鈴からは穏やかな月光を思わせる気配。
“鎮魂”に思えるだろうが剣からは“その手”の持つ禍々しさは感じない。
故に考えられるのは──
「こんな時間に誰かと遭うとは思いませんでした」
思考を中断し、来訪者へと声を掛ける。
雨の中、鈴の音が鳴った。




